白き龍神様(宮大工13)

湖(フリー素材)

これは、俺が中学を卒業して、宮大工の親方のもとで本格的に修行を始めた春の話だ。

白き龍神様に助けられた日のことを、ここに書く。

今でも、あの湖の色を思い出すと、手のひらが冷たくなる。

当時の俺は十五歳で、鉋の刃もまともに研げなかった。

親方は六十を過ぎた無口な人で、口は悪いが、手は誰よりも丁寧だった。

俺はその手を盗むために、毎朝誰よりも早く起きていた。

その春、親方の補助として、山の頂にある湖の畔の社を、修繕しに行くことになった。

湖の周りには温泉があり、俺達は温泉宿に泊まり込んで仕事をした。

道具箱を背負い、お使い用のスーパーカブの荷台に、釘袋を括りつけた。

初めての泊まり込みで、前の晩は、あまり眠れなかった。

湖畔の小さな社

宿から社までは、湖畔の細い道を歩いて二十分ほどだった。

道の脇には、蕗のとうが顔を出していた。

朝の湖は、鏡のように凪いでいた。

霧が、水面から薄く立ち上っていた。

鳥の声は、岬に近づくほど少なくなった。

社の周りだけ、音が吸われたように静かだった。

お社は、湖に突き出した小さな岬の突端に建っていた。

社と言っても、小さなものだ。

けれど、妙に厳かな空気を漂わせていた。

屋根の反りも、柱の面取りも、江戸の頃のものだと親方は言った。

「素直な仕事をしてやがる。いい大工が建てたんだ」

親方は柱を撫でて、満足そうに頷いた。

見積もりと計画は、前もって親方が済ませていた。

俺は指示に従って、足場の材料を運び、釘を選り分けた。

初日の準備作業は、順調に進んだ。

風呂場で、親方が俺の手を見て言った。

「豆が潰れてるな。鑿の握りが、まだ硬い」

「はい」

「力を入れるのは、最後の一削りだけでいい」

その言葉を、俺は湯の中で何度も繰り返した。

夕食は、宿の食堂で、川魚の塩焼きだった。

隣の席に、湯治に来ているという老夫婦が座っていた。

「あの岬のお社に、行きなさったのかね」

「はい。明日から、修繕に入ります」

「夜は、近づかんほうがええよ」

老人はそれだけ言って、味噌汁に口をつけた。

廊下では、宿の番頭さんにも話しかけられた。

「あの社はね、誰も手入れをしないのに、草が生えんのよ」

番頭さんは、笑って行ってしまった。

その夜、俺は一人で縁側に出た。

山の夜は早い。

湖の向こう岸には、灯りがひとつもなかった。

水面だけが、星の色を薄く映していた。

風が吹いているのに、波の立たない場所があった。

岬の、ちょうど先のあたりだ。

気のせいだと思って、俺は布団に入った。

夢を見た。

長くて白い何かが、湖の底で、ゆっくり身をよじっていた。

目が覚めると、背中に汗をかいていた。

朽ちた祠の龍

二日目の朝、親方と二人で作業にかかろうとした。

社から少し離れた茂みで、小さな祠を見つけた。

ずっと放ったらかしらしい。

屋根は落ちかけ、板は腐りかけていた。

中を覗くと、石で彫った小さな龍の像が納められていた。

手のひらに乗るほどの、細い体の龍だ。

苔が、鱗の彫りを埋めていた。

口元にだけ、朱の色がかすかに残っていた。

俺は親方に報告して、どうしましょうかと尋ねた。

「祠の事は、仕事で頼まれてねぇな」

親方は腕を組んで、俺の顔を見た。

「○○、おめぇはどうしたいんだ?」

「このままじゃ、龍神様が可哀想です。修繕したいと思います」

「じゃあ、手が空いた時に、おめぇがやれ。いいか?」

「はい!」

それから俺は、朝食の前、昼休み、夕食のあとの時間を使って、祠の修理に通った。

腐った板を外し、新しい檜に墨をつけて、鑿で刻んだ。

屋根の勾配は、社と同じにそろえた。

龍の像は、柔らかい布で拭いて、苔を落とした。

口元の朱だけは、触らずに残した。

作業中、不思議なことが続いた。

昼休みに木槌で釘を打つと、その音が、湖から返ってきた。

山びこにしては遅い。

一拍ずつずれて、水の底から響くようだった。

二度目の音は、決まって、少しだけ低かった。

三日目から、俺は数えるのをやめた。

五日目の朝、祠の前に、小さな足跡があった。

素足の足跡だった。

湖の際から祠まで、濡れたまま、まっすぐ続いている。

石の龍の前で、ぷつりと途切れていた。

昨夜は、雨など降っていない。

俺は足跡を踏まないように、遠回りして道具を運んだ。

六日目の朝には、拭いたはずの龍の像が、しっとりと濡れていた。

龍の像の苔だけが、一晩で、また緑を取り戻していた。

その日の夕方に、祠の梁が組み上がった。

親方が、様子を見に来た。

「いい仕事だ。……龍ってのはな、水の側にいるもんだ」

独り言のように、そう言った。

「ここの龍は、ちょっと寂しがりかもしれんな」

意味は、聞けなかった。

白き龍神様は、いつからあの祠で待っていたのだろう。

水辺の祠の話は、後になって、あちこちで耳にした。

水門の祠に張られた内向きの注連縄や、淵に二度映ってはいけないのような話だ。

けれど、このときの俺は、まだ何も知らなかった。

霙まじりの雨の朝

修繕を始めて、一週間ほど経った朝だった。

起きてみると、しとしとと霙混じりの雨が落ちていた。

食堂の天気予報は、一日中雨だった。

「今日は無理だな」

親方は味噌汁をすすりながら言った。

「○○、おめぇは様子だけ見てこい。俺は湯に浸かって、腰を伸ばす」

そう言って、温泉のほうへ歩いて行った。

俺はカッパを羽織って、スーパーカブに跨った。

湖畔の道は、泥でぬかるんでいた。

鳥居の前でカブを停めると、エンジンが勝手に止まった。

キーは、回したままだった。

お社まで歩いた。

お社の前で手を合わせてから、修繕中の裏手へ回った。

裏手は湖で、結構な高さの崖になっている。

建物から崖までの距離は、一メートルもない。

足元に気をつけながら、進んだ。

そのとき、足場が、音もなく崩れた。

咄嗟に飛び退いた。

けれど、次の足場も、同じように脆く崩れた。

嫌な落下感が、一瞬だけあった。

次の瞬間、俺は水の中にいた。

季節は初春で、山頂の湖の水温は、まだ数度しかない。

全身が、一気に締めつけられた。

懸命に、水面へ出ようとした。

そのとき、両足がこむら返りを起こした。

着ている服が、水を吸って重くなっていく。

右肩まで攣ってしまった。

左手だけで水を掻いても、体はなかなか浮かばない。

落ちたときに、きちんと息ができていなかった。

酸素が、足りなくなっていく。

鼻と口から、冷たい湖水が流れ込む。

本当にまずいと感じた、そのときだった。

水の底から、何か白く光るものが、近づいてくるのが見えた。

凄いスピードだった。

それが巨大な龍だと気づいたとき、俺の意識は、白い闇に溶けていった。

白き龍神様の礼

唇に、暖かい感触があった。

ふと、目を開ける。

次の瞬間、猛烈な咳とともに、鼻と喉を熱い水が駆け上がってきた。

「がはっ、ごほっ、げへっ」

息ができない。

俺は盛大に、口と鼻から水を吐き出した。

ひとしきりむせて、ようやく呼吸ができるようになった。

涙と鼻水にまみれた顔を上げる。

そこに、白い着物の女性が、無表情で立っていた。

その美しさに、俺は息を呑んだ。

それから、長い白髪に目が釘付けになった。

よく見ると、髪だけではない。

睫毛も、真っ白だった。

唇だけが、紅を差したように鮮やかに赤かった。

「大丈夫か?」

男のような口調だった。

「……あ、はい。大丈夫です」

「……そうか」

彼女は、そのまま去ろうとした。

その背中に、声をかけた。

「貴女が、助けてくれたんですか?」

彼女は、顔だけをこちらに向けた。

「気にするな。祠の礼だ」

それだけ言うと、掻き消すようにいなくなった。

しばらく、呆然としていた。

雨はいつの間にか、止んでいた。

濡れたはずの服は、なぜか半分ほど乾いていた。

湖の水面は、鏡のように凪いでいた。

岬の先には、波の立たない場所が、ちょうどひとつだけあった。

やがて、親方と宿の番頭さんが、俺を見つけて駆けてきた。

大声で、名前を呼びながら。

「○○、大丈夫か!?」

旅館を出たのは早朝だったが、時間はもう昼頃になっていた。

帰りの遅い俺を心配した親方が、社に行ったのだという。

裏手には崩れた跡があり、俺の手袋が落ちていた。

湖に落ちたと知り、地元の青年団に頼んで、探してくれていたそうだ。

そして、俺が倒れていたのは、社の対岸だった。

どうやって岬から渡ったのか、今でも分からない。

俺が女性の話をすると、番頭さんも青年団の人も、笑って取り合わなかった。

「寒さで、幻でも見たんだろう」

そう言われると、反論できなかった。

宿に戻ると、番頭さんが熱い茶を淹れてくれた。

湯呑みを持つ手が、まだ震えていた。

「あの祠、直したんだってね」

「はい。見習いの仕事の合間に」

番頭さんは、少しだけ黙ってから言った。

「そうかい。……それは、よかった」

それ以上は、何も言わなかった。

そんな俺を見て、親方だけは、ニヤリとした。

手拭いを差し出しながら、言った。

「口から水を吸い出してもらったんだぁな? 拭いとけよ」

驚いて口を拭った。

手拭には、祠の龍の口にあったのと同じ朱が、鮮やかに付いていた。

親方は、がははと笑った。

「オオカミ様と言い、龍神様と言い、えらく神様に気に入られるヤツだな、おめぇは」

俺はかっと頬が熱くなった。

手拭をほっかむりにして、赤く染まったであろう頬を、辛うじて隠した。

白き龍神様の祠には、今も年に一度、新しい布を持って行く。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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