母だと思っていた赤の他人

女性のシルエット(フリー素材)

俺が母だと思っていた女は、赤の他人だった。そう呼ぶしかない人だった。

それを知ったのは、二十九になった今年の春だ。

子どものころの記憶が、そこで全部、別の形に組み変わってしまった。

階段下の四時間

俺は、物心ついたときから、母と二人きりだった。

父親のことは、何も知らされなかった。

住んでいたのは、古い木造アパートの二階だ。

外階段の下に、俺の居場所があった。

毎日、夕方の五時になると、そこにしゃがみ込む。

夜の九時になるまで、動かない。

そう決められていた。

理由は、一度も説明されなかった。

夏は蚊に刺され、冬は指先が白くなった。

それでも、決まりを破ったことはなかった。

九時になると、母は部屋の明かりを消した。

その合図を見て、俺は、そっと階段を上がる。

鍵のかかっていない戸を開けて、押入れの中に入る。

そこで朝まで眠った。

母は、朝の三時ごろに、一度家を出ていく。

どこへ行くのかは、知らなかった。

俺は、それから起きて、台所に置かれたおにぎりを食べた。

具は、いつも梅干しだった。

母は、夕方の四時五十五分には、必ず帰ってきた。

一分も遅れず、一分も早まらない。

その正確さが、子どものころの俺には、少しだけ怖かった。

一度だけ、押入れの隙間から、夜中の台所を覗いたことがある。

朝の三時だった。

母は、暗い台所の真ん中に、立っていた。

流しにも、冷蔵庫にも向かわず、壁のほうを向いて、ずっと動かなかった。

十分か、二十分か。

やがて、母は、戸を開ける音もさせずに、外へ出ていった。

俺は、その音のなさが、ひどく怖かった。

次の朝、母は、何もなかったように、同じおにぎりを置いていた。

階段の下の壁には、爪で引っかいたような浅い傷が、いくつも走っていた。

何の傷なのか、考えたことはなかった。

暇なとき、俺はその傷を、指でなぞって時間をつぶした。

傷は、俺の腰より少し上にあった。

指先に、ざらざらとした感触が残った。

その傷を数えると、いつも、時間が早く進んだ。

赤の他人の手のあとが、そこにあることなど、知るはずもなかった。

呼ばれなかった名前

母は、俺を、名前で呼ばなかった。

「あんた」

そう呼ばれるだけだった。

話しかけられることも、ほとんどなかった。

朝の短い一言と、夜の短い一言だけ。

「食べなさい」

「寝なさい」

それが、母の言葉のすべてだった。

給食費だけは、毎月きちんと払われていた。

だから、平日の給食だけが、まともな食事だった。

それでも俺は、母を嫌いにはなれなかった。

たまに、本当にたまに、母は俺の頭に手を置いた。

乾いた、冷たい手だった。

けれど、その撫で方が、不思議と優しかった。

その手の感触を、俺は今でも、はっきりと思い出せる。

手に残る温度を思い出すとき、決まって、冬の夕方の匂いがする。

錆びた階段の鉄と、枯れた草と、遠くの風呂屋の煙の匂いだ。

その匂いの中で、母だった人は、いつも少しだけ離れた場所に立っていた。

小学五年のある日、学校で事件があった。

同じクラスの友人たちが、万引きで捕まったのだ。

俺は何もしていなかった。

ただ、その場に居合わせただけだった。

それでも、注意を受けるために、学校へ連れていかれた。

親がすぐに迎えに来る子もいた。

泣きながら謝る親もいた。

俺の親は、来なかった。

何度、電話をしても、誰も出なかった。

担任の先生が、「家まで一緒に行こう」と言った。

俺は、一生懸命、首を振って断った。

母に迷惑をかけたくなかったからだ。

先生には、「親は忙しくて、夜にしか帰らない」と嘘をついた。

結局、注意だけで済んで、先生から母への文書が渡された。

その夜、俺は、文書を母の前の畳に、そっと置いた。

母は、それを手に取らなかった。

ただ、俺の顔を、長く見ていた。

何かを言いかけて、結局、「寝なさい」と言った。

明け方の来訪者

その夜から、アパートの空気が変わった。

いつもの時刻に階段下へ座っていると、見たことのない大人たちが何人も通った。

小声で話しながら、俺の顔をちらちらと見ていた。

そのうちの誰かが、警察に連絡したらしい。

夜の八時ごろ、制服の警官が二人、階段を上がっていった。

俺は、動けなかった。

やがて、母が、二人に挟まれて降りてきた。

母は、俺を見た。

初めて、まっすぐに俺を見た。

唇が、わずかに動いたように見えた。

けれど、声は聞こえなかった。

母は、そのまま、パトカーの後ろの席に乗せられた。

俺は、別の車で、施設へ連れていかれた。

母に会ったのは、それが最後だった。

施設の先生たちは、みな優しかった。

最初の夜、俺は布団の中で、落ち着かなかった。

押入れではなく、部屋の真ん中で寝るのが、ひどく心細かった。

隣の布団の子が、「眠れないの」と小声で聞いた。

「うん。階段が、ないから」

俺がそう答えると、その子は、不思議そうな顔をして、そのまま眠った。

中学を卒業すると同時に、俺は仕事を探した。

今は、とび職として、足場の上を走り回っている。

施設の先生とは、今でも連絡を取り合う仲だ。

今年の春、結婚を考えて、戸籍謄本を取り寄せた。

そこに書かれていたことに、俺は、しばらく動けなかった。

俺の母は、俺が二歳のときに、亡くなっていた。

つまり、俺は、父親にだけ育てられたことになっていた。

その父親の名前にも、見覚えはなかった。

婚約者の美穂は、書類を覗き込んで、静かに言った。

「ねえ、無理に調べなくてもいいんだよ」

「でも、知らないままだと、ずっと引っかかるんだ」

美穂は、それ以上、何も言わなかった。

その沈黙が、ありがたかった。

一度も会ったことのない、他人の名前だった。

では、赤の他人としか言えないあの女は、誰だったのか。

十年近く、俺に「食べなさい」と言い続けたあの人は。

赤の他人だった母

そのことを、先輩のSさんに話した。

「それ、怖いな」

「でも、泣けるな」

Sさんは、缶コーヒーを握ったまま、しばらく黙っていた。

「施設の人に、聞いたらいいんじゃないか」

俺は、週末に、施設を訪ねた。

小さな門の脇に、昔と同じ桜の木が立っていた。

枝の先には、まだ固い蕾がついていた。

玄関で靴を脱ぐと、廊下の匂いが、子どものころのままだった。

洗剤と、煮物と、少し湿った畳の匂いだった。

事務室の窓際で、先生が、湯呑みを二つ用意して待っていた。

先生は、少し言いにくそうに、答えた。

「警察から連絡があって、そのまま、預かっただけなの」

「お部屋に伺ったときには、誰もいなかったそうよ」

「階段の下に、あなたが一人で座っていただけだって」

「それ以外は、私たちも、聞いていないのよ」

「でも先生、俺の戸籍の父親って、誰なんですか」

「それも、わからないの」

先生は、湯呑みの縁を、指でゆっくりなぞった。

「ごめんなさいね。本当に、わからないのよ」

俺は、頭の中が真っ白になった。

母が警官に挟まれて降りてくるのを、確かに見たはずだった。

パトカーの後ろの席に乗せられる姿まで、はっきり覚えている。

それなのに、記録の中の俺は、階段の下に一人きりで座っていた。

先生は、俺の目を見なかった。

嘘をついている顔ではなかった。

ただ、何かを知っていて、言わない顔だった。

俺は、それ以上、聞かなかった。

その代わり、あの町へ行ってみた。

アパートは、まだ残っていた。

隣の家の庭先で、年配の女性が洗濯物を干していた。

俺が会釈すると、女性は手を止めて、俺の顔を見つめた。

「あんた、あのアパートの子かい」

「はい。小学生のころ、住んでいました」

「そうかい。大きくなったねえ」

女性は、少しだけ目を細めた。

「あんた、毎日、階段の下で座っとったねえ」

「大人の人を、見た覚えは、ないけどねえ」

誰も住んでいない様子で、窓は全部、板で塞がれていた。

階段の下にしゃがんでみた。

昔と同じ場所だった。

そして、壁の傷を、もう一度、じっと見た。

爪の傷だと思っていたものは、傷ではなかった。

文字だった。

『まーくん』

子どもの指では届かない高さに、削るように、刻まれていた。

座った大人の手が届く位置だった。

あの人は、俺の名前を呼ばなかった。

それなのに、壁には、俺をそう呼ぶ言葉が残っていた。

あの人も、あの場所に、座っていたのか。

俺と同じ時間に、同じように、何かを待っていたのか。

考えると、背中のあたりが、すっと冷たくなる。

同時に、あの冷たい手の優しさが、まだ掌の上に残っている気がして、胸が詰まった。

赤の他人だったあの人が、誰で、何のために俺を育てていたのか。

今も、わからない。

ただ、知らないままのほうが、いいのかもしれないとも思う。

だから、俺は、これ以上、探さないつもりだ。

ただ、毎年、春になると、あの階段の下に行って、手を合わせることにした。

壁の文字の前に、梅干しのおにぎりを一つ、置いてくる。

次に行くと、いつも、なくなっている。

見えないものに招かれた話は、ほかにもある(乗り過ごした先の知らない駅)。

祈りが誰かに聞き届けられた話もある(義母の夢が告げた四十九歳)。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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