
これは、子どもの頃に暮らしたコの字の家で、夏休みの朝に見たものの話です。
私の家は、都市から少し離れた町にありました。
周りには、古い日本家屋ばかりが並んでいました。
近所では、あの家は元は遊郭だったらしいと囁かれていました。
改築はされていましたが、柱も梁も黒光りする古い家でした。
上から見ると、カタカナの「コ」の字の形をした二階建てです。
「コ」の空いたところは、中庭になっていました。
一階の廊下からは、そのまま庭へ降りることができます。
二階にも、中庭を見渡せる窓つきの廊下が、ぐるりと続いていました。
友達を呼ぶと、決まって「迷路みたいだ」と言われました。
夜、トイレに立つときは、いつも廊下の灯りを全部つけて歩きました。
中庭の暗がりが、窓ガラスに黒く映るのが嫌だったからです。
遊郭だった頃の話を、大人は誰も詳しくしませんでした。
聞こうとすると、決まって話が別の方へ逸れていきました。
私にとっては、ただの暮らし慣れた家です。
ただ、一か所だけ、自分から近づかない部屋がありました。
「コ」の字の上の端にある、物置部屋です。
襖は古く、引き手の金具が黒ずんでいました。
開けると、湿った畳と樟脳の匂いが鼻を刺します。
用がなければ、足を向けたことはありませんでした。
コの字の家の二階
その夏休み、私は二階の和室で宿題をしていました。
「コ」の字で言えば、縦棒にあたる、暗くて広い部屋です。
日が差さないぶん涼しく、勉強がはかどる場所でした。
その日は、両親が朝から買い物に出ていました。
私は留守番を兼ねて、一人で机に向かっていました。
窓の外では、蝉が鳴いていました。
障子の桟に、午前の光が細く積もっていました。
ひんやりした畳の冷たさが、膝の裏に心地よく伝わります。
あの朝は、何もかもがいつも通りでした。
家の中は、不思議なほど静かでした。
鉛筆の音と、柱時計の秒針の音だけが聞こえます。
麦茶の氷が溶けて、コップの中でからりと鳴りました。
畳の目に沿って、汗が一筋、首筋を伝っていきます。
朝の九時から一時間ほど経った頃です。
私は、トイレに行きたくなって立ち上がりました。
トイレは一階と二階にあります。
どちらも、「コ」の字の下の横線の端にありました。
私は、中庭を見渡せる廊下を歩いていきました。
窓から入る光が、廊下に四角く落ちています。
その光の中を、埃がゆっくり漂っていました。
床板が、一歩ごとに小さく軋みます。
用を足して外に出たとき、何気なく窓の外へ目をやりました。
中庭を挟んだ向こう側に、あの物置部屋が見えます。
その襖が、ガタガタと揺れていました。
風のせいではありません。
外の木は、葉の一枚も動いていませんでした。
私は、泥棒だと思いました。
この時間に家へ入る人など、いるはずがありません。
玄関の鍵は、父が出かけるときに確かにかけたはずです。
そう考えるほど、背中が冷たくなっていきました。
「朝から大胆なことをするな」と、頭のどこかで考えました。
けれど、本当は怖くて、足が竦んでしまいました。
逃げることも、大声を出すこともできません。
迷った末に、泥棒の顔だけでも見ておこうと思いました。
私はもう一度トイレに入り、ドアを細く開けました。
その隙間から、正面の物置部屋をじっと覗きました。
ドアの蝶番が、きいと小さく鳴りました。
私は息を止めました。
木の匂いと、古い水回りの匂いが混ざっていました。
便器の水が、ぽたりと落ちる音がしました。
自分の唾を飲む音まで、大きく聞こえました。
襖から出てきた人
ガタガタという音が、ふっと止みました。
次の瞬間、襖がスーッと横に滑りました。
中から出てきたのは、泥棒ではありませんでした。
女の人でした。
上半身には何も着ておらず、肌は異様なほど白く見えました。
腰から下には、着物のような布を巻きつけています。
髪はぼさぼさに乱れ、全体にけだるそうな足取りでした。
それなのに、目だけが血走っているように見えました。
私は、その場で腰を抜かしてしまいました。
尻餅をついた拍子に、タイルの冷たさが腿に張りつきました。
指先が痺れて、自分の手ではないようでした。
この世の人ではないと、一目で分かりました。
同時に、近所の噂を思い出しました。
ここで商売をしていた女の人たちの話を、母が一度だけ口にしたことがありました。
その時の母の声が、なぜか耳の底で蘇りました。
この家は、元は遊郭だったという噂です。
女の人は、しばらく宙を睨んでいました。
それから、ゆっくりと歩き出しました。
こちらへ向かって、「コ」の字の廊下を伝ってきます。
床板が軋む音は、少しも聞こえませんでした。
代わりに、衣擦れのような乾いた音がしていました。
線香とも埃とも違う、甘く古い匂いが漂ってきました。
喉が張りついて、声が出ません。
このままでは、私のいるトイレに来てしまいます。
けれど、立ち上がろうとしても、膝に力が入りません。
女の人は、一歩ずつ近づいてきました。
やがて、私が宿題をしていた和室の前まで来ました。
そこで、何かに引かれるように、スーッと中へ入っていきました。
足音のない人影が、廊下の端で向きを変えました。
髪の隙間から、血走った目がこちらを探しています。
私は、今しかないと思いました。
トイレを出て、窓から中庭へ飛び降りるつもりでした。
それほど高さはありませんし、夜遊びのときは、よく飛び降りていたからです。
心臓の音が、耳の奥で太鼓のように鳴っていました。
私は、ドアの取っ手を握る手の汗を、ズボンで拭いました。
ドアを、そろりと開けました。
その瞬間でした。
和室から、女の人が凄い勢いで飛び出してきました。
窓越しに私と目が合うと、今度は走ってこちらへ向かってきます。
捕まったら何をされるか、考える余裕もありませんでした。
私は窓を開け、思い切り跳びました。
着地に失敗して、膝を打ちました。
それでも構わず、玄関へ走りました。
二階から降りてくる気配が、背中に張りついていたからです。
向かいの祖母の家
外へ飛び出すと、向かいの祖母の家に転がり込みました。
「おばあちゃん、おばあちゃん、幽霊がくるー!」
喉が裂けるほどの声で、何度も何度も繰り返したのです。
自分の声が、自分のものではないように聞こえました。
私は、そう叫んでいたそうです。
祖母は、凄い勢いで玄関に出てきました。
私の様子が普通でないことは、すぐ分かったのでしょう。
何も聞かずに戸を閉め、私を引きずるように中へ入れてくれました。
畳の匂いと、台所の味噌汁の匂いがしました。
それだけで、少し息ができました。
祖母の手は、ごつごつと温かく、少しだけ湿っていました。
その手に握られていると、足の震えがやっと収まりました。
祖母は、私の膝の擦り傷を見て、黙ってちり紙を当ててくれました。
私は震えながら、見たものをそのまま話しました。
聞いているうちに、優しい祖母の顔が、だんだん険しくなっていきます。
祖母は黙って台所へ行き、塩の壺を抱えて戻ってきました。
そして、私の手を引いて、あのコの字の家へ向かいました。
祖母の草履が、玄関の土間で乱暴に脱ぎ捨てられました。
普段の祖母からは、想像もできない足の速さでした。
祖母は、ダダッと二階へ駆け上がりました。
物置部屋の前に立つと、襖の向こうへ向かって叫びました。
「なにしよるんや!この子に手だそうとしたんか!」
「この子に手だしてみぃ、私が承知せえへんで!」
「わたしの前に出てきてみんかい!塩まいたるわ!」
塩が、畳にぱらぱらと散る音がしました。
白い粒が、薄暗い部屋の入口で光りました。
部屋の中で、ガタガタと音がしました。
けれど、その音はすぐに止みました。
あとは、蝉の声だけが残りました。
祖母は、「もう大丈夫よ。怖かったやろ」と笑いました。
両親が帰ってくるまで、ずっと隣にいてくれました。
私は、あれこれと祖母に尋ねました。
祖母は、にこにこしたまま、こう言いました。
「わたしもようわからんけど、この家はアレやったからな」
その一言で、私は聞くのをやめました。
『やっぱり、この家は遊郭だったのだ』と思ったからです。
二人で、高校野球の中継を見て過ごしました。
取り壊しの知らせ
その後、あの家では何も起こりませんでした。
不思議なことに、あの朝のことを両親に話す気にはなれませんでした。
話せば、家そのものが違って見えてしまう気がしたからです。
物置部屋の襖は、それから一度も揺れませんでした。
けれど、通りかかるたびに、私は息をひそめて歩きました。
私は、高校に入るのと同時に引っ越しました。
祖母は車椅子の生活になりましたが、今も元気です。
夏になると、今でもあの朝の蝉の声を思い出します。
襖の向こうにいた人が何者だったのか、私には分かりません。
ただ、祖母だけは、最初から知っていたような気がしてなりません。
あの日以来、祖母が怒った顔は、一度も見ていません。
コの字の家は、のちに取り壊されました。
その際、解体の業者さんが何人か怪我をしたと聞いています。