山で会う子に道を訊く理由

県境の郷土史を任された年

平成の初めに、私は町の嘱託で郷土史の編さんを手伝っていました。

岐阜と福井の県境にある、小さな町です。

仕事場は、役場の裏にある書庫でした。

窓が一つしかなくて、昼でも蛍光灯をつけていました。

紙の匂いと、埃の匂いだけがある部屋です。

私は毎日、そこで古い帳面をめくっていました。

役場の人は、誰も入ってきません。

「好きにやってくれていいですから」

それが、赴任の日に言われた唯一の指示でした。

その書庫に、山廻り日誌というものがありました。

山を見回る役目の人が、日々の様子を書き付けた帳面です。

明治の終わりから、昭和の三十年代まで残っていました。

中身は、たいてい退屈です。

倒木があった。

橋の板が浮いた。

炭焼きの窯を直した。

そんなことが、几帳面な字で並んでいます。

私は、それを年代順に整理していきました。

杉洞という集落

杉洞は、谷をひとつ入った奥にありました。

いちばん多いときで、十一軒です。

炭を焼いて、里へ下ろして暮らしていました。

県境の尾根が、そのまま集落の裏山になります。

尾根の向こうは、福井側の村でした。

両方の村は、仲が悪かったわけではありません。

むしろ、盆には行き来があったと記録にあります。

ただ、尾根そのものには、どちらも手を出しませんでした。

木を伐らない。

道を付けない。

そういう申し合わせが、明治の書付に残っています。

面白いのは、その書付の書き方です。

ふつう、こういう取り決めは境界の位置を細かく決めます。

何間、何尺と書くのです。

ところが、この書付には数字がありません。

「境筋は、双方これを空けおくこと」

それだけです。

空けておく、という言い方でした。

私は、後になって、この一文の重さに気づきました。

幅を決めなかったのではなく、決められなかったのです。

その年の頁だけが鉛筆だった

大正十五年の巻を開いたとき、手が止まりました。

山廻り日誌は、その年の頁だけが、鉛筆で書かれていました。

ほかの年は、すべて墨です。

同じ人の字なのに、その一年だけ筆記具が違うのです。

私は、墨が切れたのだろうと思いました。

けれど、翌年の頁は、また墨に戻っています。

戦時中の紙の悪い時期でさえ、墨でした。

大正十五年だけが、鉛筆でした。

その年の記述に、こういう行があります。

「杉洞奥、境筋にて、十四ばかりの女子を見る」

杉洞というのは、県境近くにあった集落の名です。

その先を読みました。

少女は、動かなかったと書いてあります。

座っているのでも、立っているのでもない。

ただ、そこに在る、という書き方でした。

そして、こう続きます。

「触れんとするも、触れられず」

手が届かないのではなく、触れられないのだそうです。

山廻りの人は、六人で山へ入りました。

そして、そのまま下りてきました。

日誌には、こう書いてあります。

「引き上げんとすれば、こちらが幅に入る。よって、そのままとす」

私は、幅、という言葉に引っかかりました。

境の幅、という意味でしょうか。

線には幅がないはずです。

二週間後の六人

その二週間後の記述が、また変わっています。

山の様子ではなく、人のことばかりが書いてあるのです。

六人のうち、五人に、おかしなことが起きていました。

一人は、自分の家の中で、道が分からなくなりました。

台所から便所へ行けないのです。

一人は、真冬に「暑い」と言って、川へ入ろうとしました。

家の者が、着物を掴んで止めています。

一人は、何を食べても土の味がすると言い続けました。

一人は、自分の名を書くと、必ず一画多くなりました。

一人は、二週間ぶんの覚えが、そっくり抜けていました。

五人とも、その年のうちには元へ戻ったと書いてあります。

ただし、戻ったあとも、その二週間のことは誰も覚えていませんでした。

そして、残る一人です。

その人には、何も起きませんでした。

日誌には、名前と、たった一行だけが添えてあります。

「藤三郎、答えず」

私は、その一行の意味が、まったく分かりませんでした。

杉洞で聞いた決まりごと

私は、杉洞の出身者を探しました。

集落は昭和四十年代に無人になっています。

役場の名簿をたどって、町営住宅に澤田チヨさんという方を見つけました。

八十を過ぎた、小柄な人でした。

玄関先で用件を伝えると、すぐに中へ入れてくれました。

「境の話け」

私が何も言わないうちに、チヨさんはそう言いました。

チヨさんの話は、こうでした。

杉洞には、境に触れてはならない、という決まりがありました。

「境ちゅうのは、線でねぇんよ」

幅がある、というのです。

どのくらいですかと聞くと、チヨさんは両手を広げました。

それから、少し狭めました。

「日によるでな」

幅の中にあるものは、こちらの物でも、あちらの物でもない。

だから、触れることも、動かすこともできない。

「触ったつもりでも、触っとらんのよ」

そして、もう一つの決まりを教えてくれました。

境で誰かに会ったときの作法です。

「名は呼ばん。名も訊かん」

そのかわりに、道を訊くのだそうです。

「この道は、どこへ出ますか、とな」

答えが返れば、その人はこちら側の人。

返らなければ、幅の中のもの。

簡単な見分け方です。

私は、なるほどと思いました。

そのときは、それで終わりだと思っていたのです。

腰に下げていた麻縄

山廻りの人は、腰に鉈を下げます。

これは、どこの山でも同じです。

杉洞の山廻りは、それとは別に、短い麻縄を一本下げていました。

日誌の備品欄に、毎年「麻縄 一」と書いてあります。

私は、荷を縛るためだと思っていました。

チヨさんに聞くと、違いました。

「あれは、自分を縛るもんよ」

境の幅に入りかけたと思ったら、その場で自分の手首を縛る。

そして、縛ったまま山を下りるのだそうです。

「解くのは、家の者や」

また、自分では解けない決まりでした。

大正十五年の日誌に、一行だけ、こういう記述があります。

「縄、解かず」

日付は、あの二週間の、ちょうど真ん中です。

誰が縛ったのか、誰が解かなかったのかは、書いてありません。

備品欄を見ると、その年の翌年から、麻縄の数が変わっています。

「麻縄 二」になっているのです。

昭和の終わりまで、二本のままでした。

増えた一本が、誰のためのものだったのか。

私は、それをチヨさんに聞けませんでした。

藤三郎という人

私は、日誌の一行のことを聞きました。

「藤三郎、答えず、と書いてあるんですが」

チヨさんは、湯呑みを持つ手を止めました。

そして、しばらく黙っていました。

時計の音が、やけに大きく聞こえました。

「訊かれた側の話やな」

私は、意味が分かりませんでした。

「訊く側の決まりは、いま言うたやろ」

「はい」

「訊かれた側の決まりは、書かんのよ」

山で誰かに道を訊かれることがある、とチヨさんは言いました。

そのとき、答えてはいけないのだそうです。

答えれば、こちら側の者だと、相手に教えることになる。

「教えたら、覚えられるでな」

六人のうち五人は、少女に道を訊かれて、答えていました。

藤三郎という人だけが、答えませんでした。

日誌に書かれていなかったのは、訊かれた側の決まりでした。

「なんで、書かないんですか」

チヨさんは、当たり前のことのように言いました。

「境のことは、消えるもんで書くんよ」

私は、背中が冷たくなりました。

大正十五年の頁が、鉛筆だった理由です。

墨は残ります。

鉛筆は、擦れて消えます。

杉洞の決まりでした。

「ほんなら、なんで書くんです」

思わず、そう聞きました。

チヨさんは、少し笑いました。

「書かんと、忘れるでな」

「でも、消えたら忘れますよね」

「そうやな」

それきり、チヨさんは何も言いませんでした。

藤三郎の孫

澤田チヨさんは、藤三郎の孫にあたる人でした。

それを聞いたのは、二度目に訪ねたときです。

私が日誌の名前を出したとき、チヨさんが長く黙ったのは、そのためでした。

「じいさんは、山のことを一切しゃべらん人やった」

ただ、一つだけ、孫に繰り返し言ったことがあるそうです。

「山で声かけられたら、聞こえんふりをせえ」

チヨさんは、子どもの頃、それを意地悪だと思っていました。

人に返事をするなと教える大人が、どこにいるでしょう。

「学校では、逆のことを教わるでな」

チヨさんは、それで一度、じいさんと喧嘩をしています。

山道で会った隣村の人に、きちんと挨拶をして帰った日のことです。

藤三郎は、その晩、初めて孫を叱りました。

「相手が誰か分かっとったんか」

分かっていた、とチヨさんは答えました。

「ほんなら、ええ」

それだけ言って、藤三郎は寝てしまったそうです。

藤三郎は、山廻りを辞めたあと、三十年以上生きました。

その間、一度も山へ入っていません。

畑と、家の周りだけです。

「散歩でも、山のほうへは行かんかった」

ただ、毎年、秋のはじめに一度だけ、家の前で麻縄を綯っていたそうです。

使い道は、誰にも言いませんでした。

綯った縄は、翌年の秋には、なくなっていたといいます。

「どこへやったんか、聞いたことはないな」

チヨさんは、そう言って湯呑みを置きました。

「聞いても、答えんかったやろ」

チヨさんのおばあさんの話

帰りぎわに、チヨさんが世間話のようにこう言いました。

「うちのばあさんはな、山で一遍、自分に会うたと言うとった」

私は、玄関で靴を履きかけたまま、動けなくなりました。

「自分に、ですか」

「そう。向こうから、自分が歩いてきたと」

チヨさんのおばあさんは、そのとき道を訊いたそうです。

決まり通りです。

「ほんで、答えが返ってきたと」

私は、意味を考えました。

答えが返れば、こちら側の人です。

つまり、向こうから来た自分も、こちら側だったことになります。

「ばあさんは、それが怖かったと言うとった」

チヨさんは、そこで少し声を落としました。

「どっちが答えたか、分からんようになったんやと」

訊いたのが自分で、答えたのが向こうなのか。

それとも、逆だったのか。

おばあさんは、家に帰ってから三日、口をきかなかったそうです。

「答えてしもうたら、教えたことになるでな」

チヨさんは、そう言って戸を閉めました。

私は、しばらく玄関の前に立っていました。

裏の畑で、誰かが土を叩く音がしていました。

読めなくなっていた一行

書庫に戻って、私はもう一度、大正十五年の巻を開きました。

確かめたいことがあったのです。

少女の背丈や、着物の柄が書いてある行です。

そこが、読めなくなっていました。

文字が消えているのではありません。

擦れて、灰色の帯のようになっているのです。

私は、前の週に、その行を書き写していました。

手帳を開くと、確かに書いてあります。

帳面のほうだけが、読めなくなっていました。

私は、その巻を触っていません。

閲覧のときは、綿の手袋をします。

手袋でこすったのだと言われれば、そうかもしれません。

ただ、その一行だけなのです。

上の行も、下の行も、はっきり読めます。

私は、写真を撮って、報告書に添えました。

報告書は、いまも町に残っています。

写真の中では、まだ少しだけ読めます。

そのあと、翌年以降の巻も調べました。

大正十五年の翌年にも、記述がありました。

「境筋、女子、在り」

その次の年も、同じ場所に同じ記述があります。

昭和のはじめまで、毎年です。

年齢は、一度も変わりません。

十四ばかり、と書き続けられています。

やがて、その行は消えました。

山廻りの役目が廃止されたからです。

いま、山道ですること

郷土史は、その翌年に出ました。

杉洞の項に、境の決まりのことは書きませんでした。

書けなかったのです。

編さん委員の一人が、原稿を読んで、こう言いました。

「これは、活字にせんほうがええな」

理由は言いませんでした。

私も、聞きませんでした。

その人は、杉洞の隣の集落の出身でした。

私は今も、山を歩く仕事をしています。

県境の尾根に入ることが、年に何度かあります。

人とすれ違うときは、名を訊きません。

そのかわりに、道を訊きます。

「この道は、どこへ出ますか」

たいていの人は、面倒くさそうに答えてくれます。

その答えを聞くと、なぜか安心します。

癖のようなものです。

去年の秋、一度だけ、答えが返らないことがありました。

尾根の、ちょうど県境の標識のあたりです。

霧が薄くかかっていました。

相手は、背の低い人でした。

顔は、よく見ていません。

見ないようにしたのだと思います。

私が道を訊いても、何も返ってきませんでした。

そして、少ししてから、向こうが訊いてきました。

この道は、どこへ出ますか、と。

私は、答えませんでした。

そのまま、尾根を下りました。

振り返っていません。

あれが何だったのか、確かめる方法はありません。

確かめようとすれば、こちらが幅に入るからです。

もし山の中で、一人でいる子を見かけることがあっても、触れないほうがよいと思います。

触れられないはずだと、私は日誌で読んで知っています。

それでも、五人は触れたのです。

もうひとつ、報告書には書かなかったことがあります。

大正十五年の巻の、いちばん最後の頁です。

本文とは別に、綴じ目の近くに、小さく数字が並んでいました。

六つの数字です。

私は最初、日付だと思いました。

けれど、どれも二桁で、月にも日にもなりません。

年齢だとすれば、辻褄が合います。

山へ入った六人の、そのときの年です。

気になったのは、その並びの下に、線が一本引いてあることでした。

合計を出すときの線です。

けれど、合計は書いてありません。

足すのをやめたのか、書いてから消したのか。

鉛筆ですから、消したのなら、跡は残らないでしょう。

私は、自分で足してみました。

その数字を、ここには書きません。

書かないほうがよい気がするからです。

土地の決まりごとを書き残す側の話として、土間の履物の向きの話と、出るときに物を一つ残す家の話も、あわせてお読みいただけたらと思います。

手帳に書き写したあの一行を、私はまだ、消していません。

鉛筆で書いたのが、少し、心残りです。

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