県境の郷土史を任された年
平成の初めに、私は町の嘱託で郷土史の編さんを手伝っていました。
岐阜と福井の県境にある、小さな町です。
仕事場は、役場の裏にある書庫でした。
窓が一つしかなくて、昼でも蛍光灯をつけていました。
紙の匂いと、埃の匂いだけがある部屋です。
私は毎日、そこで古い帳面をめくっていました。
役場の人は、誰も入ってきません。
「好きにやってくれていいですから」
それが、赴任の日に言われた唯一の指示でした。
※
その書庫に、山廻り日誌というものがありました。
山を見回る役目の人が、日々の様子を書き付けた帳面です。
明治の終わりから、昭和の三十年代まで残っていました。
中身は、たいてい退屈です。
倒木があった。
橋の板が浮いた。
炭焼きの窯を直した。
そんなことが、几帳面な字で並んでいます。
私は、それを年代順に整理していきました。
※
杉洞という集落
杉洞は、谷をひとつ入った奥にありました。
いちばん多いときで、十一軒です。
炭を焼いて、里へ下ろして暮らしていました。
県境の尾根が、そのまま集落の裏山になります。
尾根の向こうは、福井側の村でした。
両方の村は、仲が悪かったわけではありません。
むしろ、盆には行き来があったと記録にあります。
ただ、尾根そのものには、どちらも手を出しませんでした。
木を伐らない。
道を付けない。
そういう申し合わせが、明治の書付に残っています。
※
面白いのは、その書付の書き方です。
ふつう、こういう取り決めは境界の位置を細かく決めます。
何間、何尺と書くのです。
ところが、この書付には数字がありません。
「境筋は、双方これを空けおくこと」
それだけです。
空けておく、という言い方でした。
私は、後になって、この一文の重さに気づきました。
幅を決めなかったのではなく、決められなかったのです。
※
その年の頁だけが鉛筆だった
大正十五年の巻を開いたとき、手が止まりました。
山廻り日誌は、その年の頁だけが、鉛筆で書かれていました。
ほかの年は、すべて墨です。
同じ人の字なのに、その一年だけ筆記具が違うのです。
私は、墨が切れたのだろうと思いました。
けれど、翌年の頁は、また墨に戻っています。
戦時中の紙の悪い時期でさえ、墨でした。
大正十五年だけが、鉛筆でした。
※
その年の記述に、こういう行があります。
「杉洞奥、境筋にて、十四ばかりの女子を見る」
杉洞というのは、県境近くにあった集落の名です。
その先を読みました。
少女は、動かなかったと書いてあります。
座っているのでも、立っているのでもない。
ただ、そこに在る、という書き方でした。
そして、こう続きます。
「触れんとするも、触れられず」
手が届かないのではなく、触れられないのだそうです。
※
山廻りの人は、六人で山へ入りました。
そして、そのまま下りてきました。
日誌には、こう書いてあります。
「引き上げんとすれば、こちらが幅に入る。よって、そのままとす」
私は、幅、という言葉に引っかかりました。
境の幅、という意味でしょうか。
線には幅がないはずです。
※
二週間後の六人
その二週間後の記述が、また変わっています。
山の様子ではなく、人のことばかりが書いてあるのです。
六人のうち、五人に、おかしなことが起きていました。
一人は、自分の家の中で、道が分からなくなりました。
台所から便所へ行けないのです。
一人は、真冬に「暑い」と言って、川へ入ろうとしました。
家の者が、着物を掴んで止めています。
一人は、何を食べても土の味がすると言い続けました。
一人は、自分の名を書くと、必ず一画多くなりました。
一人は、二週間ぶんの覚えが、そっくり抜けていました。
※
五人とも、その年のうちには元へ戻ったと書いてあります。
ただし、戻ったあとも、その二週間のことは誰も覚えていませんでした。
そして、残る一人です。
その人には、何も起きませんでした。
日誌には、名前と、たった一行だけが添えてあります。
「藤三郎、答えず」
私は、その一行の意味が、まったく分かりませんでした。
※
杉洞で聞いた決まりごと
私は、杉洞の出身者を探しました。
集落は昭和四十年代に無人になっています。
役場の名簿をたどって、町営住宅に澤田チヨさんという方を見つけました。
八十を過ぎた、小柄な人でした。
玄関先で用件を伝えると、すぐに中へ入れてくれました。
「境の話け」
私が何も言わないうちに、チヨさんはそう言いました。
※
チヨさんの話は、こうでした。
杉洞には、境に触れてはならない、という決まりがありました。
「境ちゅうのは、線でねぇんよ」
幅がある、というのです。
どのくらいですかと聞くと、チヨさんは両手を広げました。
それから、少し狭めました。
「日によるでな」
幅の中にあるものは、こちらの物でも、あちらの物でもない。
だから、触れることも、動かすこともできない。
「触ったつもりでも、触っとらんのよ」
※
そして、もう一つの決まりを教えてくれました。
境で誰かに会ったときの作法です。
「名は呼ばん。名も訊かん」
そのかわりに、道を訊くのだそうです。
「この道は、どこへ出ますか、とな」
答えが返れば、その人はこちら側の人。
返らなければ、幅の中のもの。
簡単な見分け方です。
私は、なるほどと思いました。
そのときは、それで終わりだと思っていたのです。
※
腰に下げていた麻縄
山廻りの人は、腰に鉈を下げます。
これは、どこの山でも同じです。
杉洞の山廻りは、それとは別に、短い麻縄を一本下げていました。
日誌の備品欄に、毎年「麻縄 一」と書いてあります。
私は、荷を縛るためだと思っていました。
チヨさんに聞くと、違いました。
「あれは、自分を縛るもんよ」
境の幅に入りかけたと思ったら、その場で自分の手首を縛る。
そして、縛ったまま山を下りるのだそうです。
「解くのは、家の者や」
また、自分では解けない決まりでした。
※
大正十五年の日誌に、一行だけ、こういう記述があります。
「縄、解かず」
日付は、あの二週間の、ちょうど真ん中です。
誰が縛ったのか、誰が解かなかったのかは、書いてありません。
備品欄を見ると、その年の翌年から、麻縄の数が変わっています。
「麻縄 二」になっているのです。
昭和の終わりまで、二本のままでした。
増えた一本が、誰のためのものだったのか。
私は、それをチヨさんに聞けませんでした。
※
藤三郎という人
私は、日誌の一行のことを聞きました。
「藤三郎、答えず、と書いてあるんですが」
チヨさんは、湯呑みを持つ手を止めました。
そして、しばらく黙っていました。
時計の音が、やけに大きく聞こえました。
「訊かれた側の話やな」
私は、意味が分かりませんでした。
「訊く側の決まりは、いま言うたやろ」
「はい」
「訊かれた側の決まりは、書かんのよ」
※
山で誰かに道を訊かれることがある、とチヨさんは言いました。
そのとき、答えてはいけないのだそうです。
答えれば、こちら側の者だと、相手に教えることになる。
「教えたら、覚えられるでな」
六人のうち五人は、少女に道を訊かれて、答えていました。
藤三郎という人だけが、答えませんでした。
日誌に書かれていなかったのは、訊かれた側の決まりでした。
※
「なんで、書かないんですか」
チヨさんは、当たり前のことのように言いました。
「境のことは、消えるもんで書くんよ」
私は、背中が冷たくなりました。
大正十五年の頁が、鉛筆だった理由です。
墨は残ります。
鉛筆は、擦れて消えます。
杉洞の決まりでした。
※
「ほんなら、なんで書くんです」
思わず、そう聞きました。
チヨさんは、少し笑いました。
「書かんと、忘れるでな」
「でも、消えたら忘れますよね」
「そうやな」
それきり、チヨさんは何も言いませんでした。
※
藤三郎の孫
澤田チヨさんは、藤三郎の孫にあたる人でした。
それを聞いたのは、二度目に訪ねたときです。
私が日誌の名前を出したとき、チヨさんが長く黙ったのは、そのためでした。
「じいさんは、山のことを一切しゃべらん人やった」
ただ、一つだけ、孫に繰り返し言ったことがあるそうです。
「山で声かけられたら、聞こえんふりをせえ」
チヨさんは、子どもの頃、それを意地悪だと思っていました。
人に返事をするなと教える大人が、どこにいるでしょう。
「学校では、逆のことを教わるでな」
チヨさんは、それで一度、じいさんと喧嘩をしています。
山道で会った隣村の人に、きちんと挨拶をして帰った日のことです。
藤三郎は、その晩、初めて孫を叱りました。
「相手が誰か分かっとったんか」
分かっていた、とチヨさんは答えました。
「ほんなら、ええ」
それだけ言って、藤三郎は寝てしまったそうです。
※
藤三郎は、山廻りを辞めたあと、三十年以上生きました。
その間、一度も山へ入っていません。
畑と、家の周りだけです。
「散歩でも、山のほうへは行かんかった」
ただ、毎年、秋のはじめに一度だけ、家の前で麻縄を綯っていたそうです。
使い道は、誰にも言いませんでした。
綯った縄は、翌年の秋には、なくなっていたといいます。
「どこへやったんか、聞いたことはないな」
チヨさんは、そう言って湯呑みを置きました。
「聞いても、答えんかったやろ」
※
チヨさんのおばあさんの話
帰りぎわに、チヨさんが世間話のようにこう言いました。
「うちのばあさんはな、山で一遍、自分に会うたと言うとった」
私は、玄関で靴を履きかけたまま、動けなくなりました。
「自分に、ですか」
「そう。向こうから、自分が歩いてきたと」
チヨさんのおばあさんは、そのとき道を訊いたそうです。
決まり通りです。
「ほんで、答えが返ってきたと」
私は、意味を考えました。
答えが返れば、こちら側の人です。
つまり、向こうから来た自分も、こちら側だったことになります。
「ばあさんは、それが怖かったと言うとった」
※
チヨさんは、そこで少し声を落としました。
「どっちが答えたか、分からんようになったんやと」
訊いたのが自分で、答えたのが向こうなのか。
それとも、逆だったのか。
おばあさんは、家に帰ってから三日、口をきかなかったそうです。
「答えてしもうたら、教えたことになるでな」
チヨさんは、そう言って戸を閉めました。
私は、しばらく玄関の前に立っていました。
裏の畑で、誰かが土を叩く音がしていました。
※
読めなくなっていた一行
書庫に戻って、私はもう一度、大正十五年の巻を開きました。
確かめたいことがあったのです。
少女の背丈や、着物の柄が書いてある行です。
そこが、読めなくなっていました。
文字が消えているのではありません。
擦れて、灰色の帯のようになっているのです。
私は、前の週に、その行を書き写していました。
手帳を開くと、確かに書いてあります。
帳面のほうだけが、読めなくなっていました。
※
私は、その巻を触っていません。
閲覧のときは、綿の手袋をします。
手袋でこすったのだと言われれば、そうかもしれません。
ただ、その一行だけなのです。
上の行も、下の行も、はっきり読めます。
私は、写真を撮って、報告書に添えました。
報告書は、いまも町に残っています。
写真の中では、まだ少しだけ読めます。
※
そのあと、翌年以降の巻も調べました。
大正十五年の翌年にも、記述がありました。
「境筋、女子、在り」
その次の年も、同じ場所に同じ記述があります。
昭和のはじめまで、毎年です。
年齢は、一度も変わりません。
十四ばかり、と書き続けられています。
やがて、その行は消えました。
山廻りの役目が廃止されたからです。
※
いま、山道ですること
郷土史は、その翌年に出ました。
杉洞の項に、境の決まりのことは書きませんでした。
書けなかったのです。
編さん委員の一人が、原稿を読んで、こう言いました。
「これは、活字にせんほうがええな」
理由は言いませんでした。
私も、聞きませんでした。
その人は、杉洞の隣の集落の出身でした。
※
私は今も、山を歩く仕事をしています。
県境の尾根に入ることが、年に何度かあります。
人とすれ違うときは、名を訊きません。
そのかわりに、道を訊きます。
「この道は、どこへ出ますか」
たいていの人は、面倒くさそうに答えてくれます。
その答えを聞くと、なぜか安心します。
癖のようなものです。
※
去年の秋、一度だけ、答えが返らないことがありました。
尾根の、ちょうど県境の標識のあたりです。
霧が薄くかかっていました。
相手は、背の低い人でした。
顔は、よく見ていません。
見ないようにしたのだと思います。
私が道を訊いても、何も返ってきませんでした。
そして、少ししてから、向こうが訊いてきました。
この道は、どこへ出ますか、と。
※
私は、答えませんでした。
そのまま、尾根を下りました。
振り返っていません。
あれが何だったのか、確かめる方法はありません。
確かめようとすれば、こちらが幅に入るからです。
もし山の中で、一人でいる子を見かけることがあっても、触れないほうがよいと思います。
触れられないはずだと、私は日誌で読んで知っています。
それでも、五人は触れたのです。
※
もうひとつ、報告書には書かなかったことがあります。
大正十五年の巻の、いちばん最後の頁です。
本文とは別に、綴じ目の近くに、小さく数字が並んでいました。
六つの数字です。
私は最初、日付だと思いました。
けれど、どれも二桁で、月にも日にもなりません。
年齢だとすれば、辻褄が合います。
山へ入った六人の、そのときの年です。
※
気になったのは、その並びの下に、線が一本引いてあることでした。
合計を出すときの線です。
けれど、合計は書いてありません。
足すのをやめたのか、書いてから消したのか。
鉛筆ですから、消したのなら、跡は残らないでしょう。
私は、自分で足してみました。
その数字を、ここには書きません。
書かないほうがよい気がするからです。
※
土地の決まりごとを書き残す側の話として、土間の履物の向きの話と、出るときに物を一つ残す家の話も、あわせてお読みいただけたらと思います。
手帳に書き写したあの一行を、私はまだ、消していません。
鉛筆で書いたのが、少し、心残りです。