十三段目

階段と幽霊の出現

築四十五年の木造アパートに住み始めたのは、大学院に進学した年の春だった。

家賃三万二千円、六畳一間、風呂なし、トイレ共同。駅から徒歩十八分。不動産屋の若い担当者が「味がありますよ」と苦笑いしながら紹介してくれた物件だった。味というか、ただ古いだけだ。でも研究室に近くて安かったから、それでよかった。

二階建てで、私の部屋は二〇三号室。外階段を上って廊下の突き当たりにある。

階段は十二段。

これは引っ越した初日に数えた。子供の頃からの癖で、新しい場所の階段は必ず数える。上りは十二段、踊り場はなく、上りきったところが二階の廊下。下りも十二段。何度数えても十二段。当たり前だ。階段の段数なんて変わるはずがない。

異変が起きたのは、住み始めて半年が過ぎた十月のことだった。

論文の締め切りが近くて、毎晩研究室に遅くまで残っていた。帰宅は日付が変わってからが当たり前だった。その夜も午前一時を過ぎていた。

自転車を停めて、外階段に足をかけた。鉄製の階段は夜になると冷たくて、靴底からその冷気が伝わってくる。

一、二、三、四。

いつもの癖で数える。手すりのペンキが剥がれている場所を、指先が辿る。

五、六、七、八。

空気が冷たかった。十月にしては冷えすぎていた。吐く息が白い。

九、十、十一、十二。

——十三。

足が、もう一段踏んだ。

体が止まった。十二段で終わるはずの階段が、もう一段あった。右足が段の上に乗っている。確かな感触がある。

顔を上げると、見たことのない踊り場があった。

踊り場は畳一枚分ほどの広さで、右側に壁、左側に手すり、正面にドアがあった。ドアは木製で、ペンキが何度も塗り重ねられたような厚い質感をしている。色は暗い緑。ドアノブは真鍮で、長年の手垢で黒ずんでいた。

ドアは三センチほど開いていた。

隙間から光が漏れている。暖かい色の光だった。

私は後ずさりしようとした。だが、足が動かなかった。正確に言えば、足は動くのに、階段が一段目に戻ってしまうのだ。十二段目を降りようとすると、足が十三段目に着く。振り返っても、下りの階段は見えなかった。上ってきたはずの階段が、その先だけ暗闇に消えている。

ドアの隙間から、音がした。

紙をめくる音だった。誰かが本を読んでいる。

私は深呼吸をして、ドアを押した。

部屋は六畳一間だった。私の部屋と同じ間取り。同じ位置に窓があり、同じ場所に台所がある。

ただし、すべてが左右反転していた。

窓は右側にあるはずなのに左側にある。台所のシンクが逆。本棚の位置が逆。鏡に映したように、すべてが裏返っている。

そして部屋の真ん中に、机があった。

机の上にはスタンドライトが点いていて、ノートが開いてある。椅子には誰も座っていなかった。だが、ノートのページが今まさにめくれたような角度で止まっていた。

私は机に近づいた。

ノートを覗き込んで、息が止まった。

私の字だった。私の筆跡で、私の論文の下書きが書かれている。ただし、文章がところどころ違っていた。同じテーマ、同じ構成、でも結論が逆だった。私が「肯定できる」と書いた箇所が、「肯定できない」になっている。

ページの端に、赤いペンで走り書きがしてあった。

「こっちが正しい」

部屋を出た。

ドアを閉めた瞬間、足元に階段があった。十二段の、いつもの階段。降りて、上り直した。十二段。踊り場はない。二階の廊下がそのまま続いている。

自分の部屋に入って、鍵をかけた。電気をつけた。

何も変わっていない。机の上にはスタンドライト、開いたノート。今朝出かける前に書きかけた論文の下書き。

ただ、マグカップの位置が違った。

私はいつも右手で持つから、マグカップは机の右側に置く。それが左側にあった。

棚の本を確認した。背表紙のタイトルは正しい。写真立ての向きも正しい。カーテンの開き方も——いや、待て。私はカーテンを右から開ける癖がある。今、カーテンは左から開いている。

小さなことだった。マグカップと、カーテン。それだけだった。

翌朝、階段を降りた。十二段。

研究室に行き、論文を書いた。夜、帰宅した。階段を上った。十二段。

三日間、何も起きなかった。十三段目の夜は夢だったのだと思うことにした。疲れていたのだ。論文のストレスで、おかしなものを見たのだ。

四日目の夜、午前二時に帰宅した。

一、二、三。

数えながら上る。手すりのペンキの剥がれた場所。七段目の少し軋む音。

十、十一、十二。

——十三。

また、あった。踊り場。暗い緑のドア。

今度は隙間が五センチに広がっていた。

中から、声が聞こえた。

私の声だった。

何か読み上げている。論文の一節だった。私がまだ書いていない、結論部分の文章を。

私はドアを開けなかった。目を閉じて、十二段目まで下りた。下りられた。もう一度上った。十二段。踊り場はない。

部屋に入って、すぐにノートを確認した。

論文の下書き。私が書きかけて止めていたページの続きに、見覚えのない文章が書き足されていた。私の字で。赤いペンで。

「もう少しで完成する。あと三回来れば」

三回。何が三回なのか。

私はそのページを破って捨てた。

その後、私は夜遅くに帰るのをやめた。暗くなる前にアパートに戻り、明るいうちに階段を上った。十二段。昼間は必ず十二段だった。

十一月の終わりにアパートを出た。別の部屋が見つかったからだ。引っ越しの日、最後に階段を下りた。昼間の、明るい階段。十二段。

不動産屋に鍵を返すとき、何気なく聞いた。

「あの階段、十二段ですよね」

担当者は首をかしげた。パソコンで図面を確認して言った。

「十四段ですね。踊り場があるので」

私は黙った。

踊り場なんてなかった。半年間、毎日上り下りした。十二段。踊り場はない。確かに数えた。

担当者がモニターを回してくれた。建築図面が映っている。確かに、踊り場のある十四段の階段が描かれていた。

では、私が半年間上っていたあの十二段の階段は、何だったのか。

消えた二段は、どこに行ったのか。

あるいは——十三段目に現れたあの一段は、消えた二段のうちの、一段目だったのか。

もう一段、踏んでいたら。

あの部屋の椅子に座っていたのは、誰だったのだろう。

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