黒目

幼い頃の、いまでも説明のつかない記憶を書き残しておきます。

昭和の終わりごろ、わたしが五つか六つの頃の話です。

当時、家族で住んでいたのは、町はずれの古い文化住宅でした。

二階建ての棟が、横にいくつも連なった造りです。

築四十年は経っていたでしょうか。

廊下はいつも薄暗く、木の床がぎしぎしと鳴りました。

玄関は、棟の住人が共同で使う、土間のような場所でした。

その奥に、各家の引き戸が、横並びに六つほど続いていました。

どの家も、間取りは同じでした。

一階に台所と茶の間、急な階段をのぼると、二階に四畳半が一間。

壁が薄く、隣の家の物音が、筒抜けでした。

夜中に誰かが咳をすれば、それが誰の咳か、すぐにわかりました。

それなのに、共同玄関だけは、いつも、よその家のように静かでした。

水道は外の共同の流しで、夕方になると、誰かが米をとぐ音が響きました。

のんびりした時代でした。

いま思えば、その文化住宅には、少し妙な言い伝えがありました。

建つ前、その土地は、古い産院の跡だったというのです。

戦後すぐに建てられた、小さな産院だったと聞きました。

火事で焼けて、しばらく更地のままだったそうです。

その跡地に、棟割の文化住宅が建てられたのだと。

子どもの頃は、そんな話、気にも留めませんでした。

ただ、夜になると、共同玄関のあたりだけ、やけに空気が湿って感じられました。

古い木と、土の匂いが、いつもかすかに漂っていました。

いま思えば、それは、雨上がりでもないのに、土の匂いだったのです。

幼稚園からは、子どもだけで歩いて帰っていました。

家に帰って母が留守なら、鞄を置いて、そのへんで遊んで待つのが常でした。

その日も、いつものように帰ってきました。

夏の終わりの、蒸し暑い夕方でした。

蜩が、遠くの林で鳴いていました。

幼稚園からの帰り道は、いつもと同じはずでした。

駄菓子屋の前を通り、踏切を渡り、なだらかな坂をのぼります。

その日は、なぜか、近所に人の姿が、まったくありませんでした。

洗濯物は干されたまま、自転車も停まったまま。

それなのに、誰一人、外に出ていないのです。

いま思えば、あれが、最初の異変だったのかもしれません。

共同玄関に近づくと、見慣れないものが置いてありました。

古い乳母車です。

黒っぽい幌のついた、ずいぶん古い型の乳母車でした。

車輪のあたりに、赤い錆が浮いていました。

お客さんでも来ているのかな、と思いました。

うちの棟に、赤ん坊のいる家はなかったはずです。

近所をぐるりと思い返しても、乳母車を使うような家は、一軒もありませんでした。

それに、その乳母車は、ずいぶん古い型でした。

わたしが見たことのある、どの家の乳母車とも、違っていました。

幌の布は色あせて、ところどころ、ほつれていました。

押し手の金具には、緑がかった錆が、厚く浮いていました。

まるで、何十年も、どこかにしまわれていたような乳母車でした。

わたしは乳母車を避けて、自分の家の戸を開けようとしました。

鍵がかかっていました。

母は、まだ帰っていないようでした。

仕方なく、土間に座って待つことにしました。

土間のコンクリートは、夏なのに、ひんやりとしていました。

共同玄関には、いつも、夕方の薄い闇が、先に溜まっていました。

外はまだ明るいのに、ここだけ、夜が一足早く来るのです。

誰かの家から、味噌汁の匂いが、かすかに流れてきました。

どこかで、ラジオの音が、低く鳴っていました。

いつもどおりの、なんでもない夕方のはずでした。

そのとき、乳母車のなかで、何かが動いた気がしました。

あれ、と思って、のぞきこみました。

中には、赤ん坊が寝ていました。

白い産着にくるまれて、すやすやと眠っています。

季節は夏なのに、厚いタオルケットを何枚もかけられていました。

汗ひとつ、かいていません。

妙に、青白い顔でした。

わたしは子どもでしたから、深くは考えませんでした。

ただ、起こしてみたくなったのです。

指で、ほっぺたを、つんとつつきました。

ひんやりと、冷たい肌でした。

つついた指先に、肌の冷たさが、はっきりと伝わってきました。

生きているものの体温では、ありませんでした。

濡れた粘土を、そっと押したような感触でした。

わたしは、指をひっこめました。

その瞬間でした。

赤ん坊が、ゆっくりと目を開けました。

その目を、わたしはいまでも、はっきりと覚えています。

白目が、ありませんでした。

目のふち、いっぱいまで、真っ黒だったのです。

瞳と白目の境が、どこにもありません。

濡れた黒い石を、二つ並べたような目でした。

犬や、鳥の目に、少し似ていました。

こちらを、じっと見ています。

不思議と、怖いとは思いませんでした。

ただ、目をそらすことが、できませんでした。

どのくらい、見つめあっていたでしょう。

五分ほどだった気もしますし、もっと長かった気もします。

蜩の声が、いつのまにか、やんでいました。

あたりは、しんと静まりかえっていました。

自分の心臓の音だけが、耳の奥で鳴っていました。

赤ん坊の黒い目に、薄暗い土間が、まるごと映りこんでいました。

その黒のなかに、自分の小さな顔が、ぽつんと浮かんでいるのが見えました。

のぞきこんでいるのは、わたしのほうなのに。

見られているのは、わたしのほうだ。

幼いながらに、そんな感覚が、背筋を這いのぼってきました。

それでも、目をそらせませんでした。

黒い目の奥に、もうひとつ、別の場所があるような気がしました。

のぞきこめば、そちらへ、引きずりこまれてしまう。

そんな予感に、足の指が、土間をぎゅっと掴みました。

いまにして思えば、あのとき逃げなかったのが、不思議でなりません。

まるで、見つめあうように、誰かに仕向けられていたかのようでした。

背後で、戸の開く音がしました。

振り向くと、斜向かいの家のおばさんが立っていました。

その棟でいちばん年配の、ひとり暮らしの女の人でした。

いつも、子どもたちに飴をくれる、やさしいおばさんでした。

夏祭りには、わたしたちを連れていってくれました。

転ぶと、自分の家に上げて、膝に赤チンを塗ってくれました。

そういう、どこにでもいる、気のいいおばさんでした。

だからこそ、あの夕方の顔が、いまも忘れられないのです。

「どうしたの」

おばさんが、そう声をかけてきました。

わたしは、乳母車のなかを指さしました。

「赤ちゃんがいるの。目が、まっくろ」

おばさんは、乳母車をのぞきこみました。

そして、しばらく、黙っていました。

その横顔を、わたしは見ていました。

おばさんは、笑っているような、泣いているような、変な顔をしていました。

「あらあら」

おばさんが、小さくつぶやきました。

「おばちゃんとこは、子どもがいないからねえ」

その声は、いつものおばさんの声とは、少し違って聞こえました。

わたしは、なぜだか、止めなければいけない気がしました。

「おばさん、その子、よその子だよ」

おばさんは、わたしのほうを見ませんでした。

乳母車のなかの赤ん坊だけを、じっと見つめています。

「いいのよ。この子は、ずっと、ここで待ってたんだから」

「待ってたって、誰を」

「わたしをよ」

おばさんは、そう言って、ふふ、と笑いました。

その笑い方が、わたしの知っているおばさんのものではありませんでした。

「この子は、うちの子にするわ」

おばさんは、乳母車の柄に、両手をかけました。

そして、ゆっくりと、押しはじめました。

錆びた車輪が、きいきいと鳴りました。

赤ん坊の黒い目は、押されていくあいだも、ずっとわたしを見ていました。

首が、ありえない方向に、こちらへ向いていました。

乳母車は前へ進んでいるのに、顔だけが、わたしを向いたままでした。

おばさんは、それに気づいていないようでした。

鼻歌のようなものを、低く、口ずさんでいました。

聞いたことのない、節回しの子守唄でした。

瞬きを、一度もしませんでした。

わたしは、その場から動けませんでした。

乳母車は、薄暗い廊下の奥へ、消えていきました。

きい、きい、という音が、だんだん遠くなりました。

やがて、その音も、聞こえなくなりました。

あとに残ったのは、湿った土の匂いだけでした。

わたしは、しばらく、その場に座りこんでいました。

足が、すくんで動かなかったのです。

気づくと、あたりは、すっかり暗くなっていました。

蜩のかわりに、虫の声が、聞こえはじめていました。

そのあとのことは、よく覚えていません。

たぶん母が帰ってきて、ごはんを食べて、忘れてしまったのだと思います。

子どもの記憶とは、そういうものです。

思い返せば、あの夏のあと、わたしは妙な夢を、何度も見ました。

暗い廊下の奥から、きい、きい、と、車輪の音が近づいてくる夢です。

音はわたしのすぐそばまで来て、ぴたりと止まります。

そして、誰かが、わたしの顔を、じっとのぞきこむのです。

目を開けると、いつも、明け方でした。

その夢も、いつしか見なくなり、わたしはあの夕方のことを、忘れていきました。

この話を思い出したのは、つい最近のことです。

年老いた母と、昔住んでいた文化住宅の話になりました。

わたしは、何気なく、あの乳母車のことを話しました。

目の真っ黒な赤ん坊と、斜向かいのおばさんのことを。

すると、母の話と、どうも食い違うのです。

斜向かいのおばさんが、年配のひとり暮らしだったことは、合っています。

子ども好きなのに、子宝に恵まれなかった人だったことも、合っています。

ところが、です。

母は、こう言うのです。

「あのおばさんね、あのあと、赤ちゃんを授かったのよ」

わたしは、耳を疑いました。

「ふつうの、かわいい女の子だったわよ。よく抱っこさせてもらったもの」

母は、なつかしそうに、そう言いました。

わたしは、母に食い下がりました。

「その前に、乳母車があったでしょう。目の真っ黒な赤ちゃんが乗ってた」

母は、けげんな顔をしました。

「乳母車? さあ……そんなの、あったかしらねえ」

「あったよ。おばさんが、押していったんだ」

「いやだ、あんた、夢でも見たんじゃないの」

母は、本当に、何も覚えていないようでした。

その目に、嘘をついている様子は、ありませんでした。

母は、むしろ、わたしの作り話を心配しているようでした。

「変なこと言うのね。何かの本でも、読んだんじゃないの」

わたしは、それ以上、言い募るのをやめました。

言えば言うほど、自分の記憶のほうが、揺らいでいく気がしたからです。

だからこそ、わたしは、ぞっとしたのです。

では、あの乳母車の赤ん坊は、何だったのでしょう。

あの、目の真っ黒な子は。

おばさんが「うちの子にする」と言って、連れていった、あの子は。

考えれば、考えるほど、わからなくなります。

おばさんが授かった子と、あの黒い目の子は、別なのか。

それとも、同じなのか。

母は、なぜ、乳母車の話だけ、覚えていないのか。

わたしの記憶のほうが、間違っているのでしょうか。

でも、あの目だけは、間違いようがありません。

白目のない、濡れた黒い、二つの目。

あれは、何かを探している目でした。

わたしのなかに、誰かを探していた。

そして、わたしではなかったから、おばさんのほうへ行ったのではないか。

そんなふうに、最近は思うのです。

子のないおばさんが、ずっと、誰かを待っていたように。

あの子もまた、自分を連れていってくれる誰かを、待っていたのかもしれません。

いまでも、ふとした拍子に、思い出します。

とくに、夕方、蜩の声がやんだ瞬間に。

あの子は、おばさんに、何をもらいに来たのでしょう。

そして、ちゃんと、もらって帰れたのでしょうか。

気になって、わたしは先日、その文化住宅のあった場所を訪ねてみました。

建物は、とうに取り壊されていました。

いまは、小さな児童公園になっていました。

砂場と、ブランコと、すべり台が、ぽつんとあるだけです。

片隅に、古い手押しポンプの井戸が、ひとつ残されていました。

使われなくなって、ずいぶん経つようでした。

その取っ手にも、緑がかった錆が、厚く浮いていました。

あの乳母車の金具と、同じ色の錆でした。

わたしは、その井戸を、しばらく見つめていました。

近づいて、のぞきこむ気には、どうしてもなれませんでした。

のぞけば、また、あの黒い目と、目が合ってしまう気がしたからです。

夕方で、子どもの姿は、ありませんでした。

わたしは、かつて共同玄関のあったあたりに、立ってみました。

雨も降っていないのに、土の匂いが、かすかにしました。

あの夕方と、同じ匂いでした。

近所の古い人に、斜向かいのおばさんのことを尋ねてみました。

その人は、少し首をかしげて、こう言いました。

「あのお宅は、ずっと、ご夫婦だけだったよ」

「子どもさん? いなかったはずだけどねえ」

わたしは、それ以上、何も訊けませんでした。

その夜、わたしは久しぶりに、あの車輪の夢を見ました。

きい、きい、と、暗い廊下の奥から、音が近づいてきます。

何十年も止んでいたはずの、あの音でした。

目を覚ますと、やはり、明け方でした。

では、母が抱かせてもらったという、あの女の子は。

あの、目の真っ黒な赤ん坊は。

いったい、どこへ行ってしまったのでしょう。

わかっているのは、ひとつだけです。

あの黒い目が、いまも、わたしのことを覚えているということ。

そして、あの子は、たしかにあの夕方、あの場所にいたということ。

母が覚えていなくても、文化住宅がなくなっても、それだけは、確かなのです。

わたしの記憶のなかにだけ、あの乳母車は、いまも置かれています。

きい、きい、と、車輪を鳴らしながら。

そんな気がして、夕方になると、つい、振り返ってしまうのです。

それを思うと、いまでも、背中がすっと冷たくなるのです。

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