やみ駅←きさらぎ駅→かたす駅

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皆さんは、きさらぎ駅という駅をご存じでしょうか。

何年も前に、2chの掲示板で広まった話だそうです。

はすみさんという方が、実在しない駅に迷い込み、その後の消息が分からなくなった、という筋でした。

インターネットで検索すれば、今でも読むことができます。

私がお話しするのは、それとは別の、九州での出来事です。

その話では、電車はトンネルを抜けて、見知らぬ駅に停まります。

私の場合は、少し違いました。

違うのに、思い出すたびに、同じ名前の駅を見たと思ってしまうのです。

今から五年ほど前の、年の暮れのことでした。

雨の鉄橋の手前

その日、私は福岡から久留米へ、電車で向かっていました。

久留米では、知人が駅まで迎えに来てくれる約束でした。

車内は暖房が効いていて、窓は少し曇っていました。

道中は長いので、持っていたペーパーバックを開きました。

英語の小説で、ページをめくる音だけが手元でしていました。

どれくらい読んでいたのか、はっきりとは覚えていません。

ふと顔を上げると、車内の様子がおかしいことに気づきました。

周りのお客さんが、全員眠っていたのです。

向かいの席の男性も、通路側の女性も、首を垂れたままでした。

男性の膝の上の新聞は、日付が読めないほど色褪せていました。

女性の手には、切符が握られたままでした。

一人や二人なら、珍しいことではありません。

けれど、見える限りの全員が、同じ角度で目を閉じていました。

肌で感じる奇妙さ、としか言いようがありません。

暖房の風が、足元だけ妙に冷たく感じられました。

吊り革が、揃って同じ方向に揺れていました。

揺れ方はゆっくりで、電車の動きとは合っていないように見えました。

腕時計を見ると、針は四時十分を指していました。

福岡を出てから、それほど時間が経った気はしません。

声を出して誰かを起こそうか、と考えました。

でも、喉の奥が乾いていて、うまく声が出ませんでした。

音も、いつの間にか遠くなっていました。

走っているはずなのに、車輪の響きが水の底で聞くように鈍いのです。

私は本を閉じて、窓の外を見ました。

ちょうど電車が、古い鉄橋に差しかかるところでした。

錆びた鉄骨が、窓の外を一本ずつ流れていきます。

川面は暗く、細かい雨が落ちているのが見えました。

福岡を出るとき、空は晴れていたはずなのです。

いつ降り出したのか、見当がつきませんでした。

傘を持っていなかったことを、そのとき思い出しました。

鉄橋の途中で、電車が一度だけ大きく揺れました。

ガタン、と鳴って、あとは静かになりました。

鉄橋を渡り切ると、今度は陸橋が現れました。

電車はその下をくぐり、ゆるやかに速度を落としていきます。

そして、見知らぬ駅に滑り込みました。

きさらぎ駅の立て札

普段その路線を使うことがないので、沿線の景色を覚えているわけではありません。

それでも、こんな風景は見たことがない、と思いました。

ホームは二つありました。

その奥に、古い日本建築の駅舎が建っていました。

瓦屋根の低い建物で、軒先に電灯が一つだけ点いていました。

ホームの柱には、小さなプレートが掛かっていました。

そこに、ひらがなで「きさらぎ」と書かれていました。

漢字が一つもない駅名標は、私には初めてでした。

丸みのある文字が、雨に濡れて滲んで見えました。

あの日見たのは、確かにきさらぎ駅の名札だったと思います。

雨は静かに降り続いていました。

風はなく、雨粒はまっすぐ落ちていました。

屋根があるのはホームのごく一部だけです。

そのせいか、傘を差した人が何人も立っていました。

黒や紺の傘ばかりで、色のある傘は一本もありません。

傘の縁から下は暗く、足元は見えませんでした。

みな駅舎の方を向いたまま、動きません。

濡れたコンクリートの匂いが、開いた扉から流れ込んできました。

古い木の匂いも、かすかに混じっていました。

水たまりに、駅舎の電灯が丸く映っています。

雨粒が落ちるたびに、その光が小さく震えました。

不思議なことに、誰も乗り込んでこないのです。

扉は開いていました。

けれど、傘の人たちは一歩も近づいてきませんでした。

そのうちの一人と、目が合ったような気がしました。

傘が少し持ち上がり、口元だけが見えました。

笑っているのか、何か言っているのか、分かりませんでした。

唇は、ゆっくりと同じ形を繰り返していました。

少し離れたところに、大きな立て札がありました。

駅名を書いた、木の看板のようなものです。

中央に、ひらがなで「きさらぎ」とありました。

その右には、一つ前の駅として「やみ」。

左には、一つ後の駅として「かたす」。

どれもひらがなで、同じ筆跡に見えました。

普通なら、電車を間違えたと慌てるところでしょう。

でも、不思議と焦りはありませんでした。

どこか静かな、懐かしいような感じさえしました。

降りてみたい、と私は思いました。

鞄の持ち手を握ったまま、私は腰を浮かせかけました。

扉の外の空気が、頬に触れます。

冷たいのに、人の家の台所のような、生活の温度がありました。

そのとき、ポケットの携帯電話が震えました。

久留米の知人から、到着時刻を尋ねるメッセージでした。

画面の端には、圏外の表示が出ていました。

それなのに、メッセージだけが届いていたのです。

かたす駅まで着かなかった

けれど、久留米には迎えの人が待っています。

降りて確かめている時間は、ありませんでした。

座席に腰を下ろしたまま、窓の外を眺めていました。

やがて扉が閉まり、電車が動き出しました。

傘の人たちの顔は、最後まで見えませんでした。

窓ガラスに、自分の顔が薄く映っていました。

その向こうで、ホームの灯りが小さくなっていきます。

傘の列は、見送るでもなく、やはり動かないままでした。

次の駅は「かたす」のはずです。

私は窓に額を寄せて、その名前を待っていました。

ところが、電車はどこにも停まりませんでした。

長い時間、ただ走り続けました。

窓の外は暗く、雨の筋だけが斜めに流れていました。

気がつくと、車内の音が戻っていました。

アナウンスが流れ、電車は久留米に着きました。

周りの人たちも、もう目を覚ましていました。

伸びをしたり、荷物を網棚から下ろしたりしています。

何事もなかったような、普通の夕方の車内でした。

思い返すと、途中で停まるはずの駅を、いくつも飛ばしたような気がします。

けれど、そのあたりの記憶は曖昧です。

本を読みながら浅く眠り、夢を見たのだろう、と思うことにしました。

座席の下を見ると、床に小さな水たまりができていました。

私の靴の先から、細く伸びていました。

慌てて、ハンカチで拭きました。

迎えに来てくれた知人にも、この話はしませんでした。

車を降りてきた知人は、私の顔を見て、少し首をかしげました。

「ずいぶん濡れてるね」と言われました。

久留米は、その日一滴も降っていなかったそうです。

それなのに、コートの肩だけが、薄く湿っていました。

それから数年が経ちました。

最近になって、インターネットできさらぎ駅の話を見つけました。

読んでいる間、背中がずっと冷えていました。

はすみさんの話とは、違うところが多くあります。

私の駅には、トンネルがありませんでした。

ホームには人がいて、駅舎の向こうには住宅も見えました。

そもそも九州なので、東海地方とは遠く離れています。

それでも、駅名が「きさらぎ」だったことだけは、はっきり覚えています。

しかも、前後の駅の名前までが、あの立て札に並んでいたのです。

調べてみましたが、福岡から久留米の間に、その名前の駅はありません。

時刻表の路線図も、端から端まで指でなぞりました。

地図アプリにも、その駅名は出てきませんでした。

駅舎に似た建物も、沿線には見つかりませんでした。

同じ路線に、乗り直したこともあります。

鉄橋は確かにありましたが、渡った先で停まったのは、ごく普通の駅でした。

雨の日を選んで乗ったこともありました。

そのたびに、車内の人たちは起きていて、本を読んだり携帯電話を見たりしていました。

きさらぎ駅の名札を、もう一度この目で見ることはできていません。

あれは、何かオカルト的な意味のある駅名なのでしょうか。

この世とあの世の接点のようなものが、本当にあるのでしょうか。

もし、あの駅で降りていたらどうなっていたか。

そう考えると、今でもホームの傘の列を思い出します。

扉が開いていたのに、誰も乗ってこなかったことも。

あの人たちは、何を待って立っていたのでしょう。

私には、まだ分かりません。

今でも、福岡から久留米へ向かう電車では、本を開かないことにしています。

眠っている人の多い車両は、なるべく避けます。

窓の外に鉄橋が見えると、無意識に雨の気配を探してしまいます。

年の暮れが近づくたびに、傘の列を思い出します。

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