さくら池
僕が小学校の頃の話。通学路から少し外れたところに、さくら池というかなり大きな農業用水池があった。
僕たちが住んでいた団地はさくら池の先にあったから、下校途中に通学路を迂回し、そのさくら池のほとりを通って帰るのが常だった。
大人たちに見つかり学校に通報されると、当然叱られる。昼でも暗い竹やぶを抜け、赤土むき出しの切通しをくぐり、池の土手の未舗装の道を行くそのルートは人通りもなく、色々な意味でやばい感じがしたけど、またそれが魅力だった。
5年生の秋口の頃、そんな僕たちの学校に奇妙な噂が広まった。日が暮れてからその近道を歩いていると、さくら池の真ん中辺りに火の玉が浮かぶというものだった。
いつの間にか「その火の玉を見つめてはいけない」という警告も加わっていた。その警告の出所は、地元の生徒のおじいちゃんやおばあちゃんらしい。
親の代に越してきた僕ら団地の住人には、今ひとつピンと来なかったが、地元の生徒は近づかなくなった。きっと僕らの知らない古い言い伝えでもあったのかもしれない。
僕自身、その火の玉をはっきり見る事はなかった。確かに、下校が遅くなった時に夕暮れの土手から暗い湖面を見下ろすと、真ん中あたりに薄ぼんやりと白い霧のようなものが見えた気がしたことはあったけど、はっきりとは確認していない。
やっぱり、それを見つめることは怖くてできなかった。
ある朝、同じクラスで同じ棟の5階に住むシゲルを誘うと、シゲルの母さんが彼は具合が悪くて学校を休むからと言った。
放課後、シゲルに宿題のプリントを届けると、シゲル本人がドアに姿を現した。目が血走っていた。
とても具合が悪そうに見えたので、僕はすぐに帰ろうとしたが、シゲルに引き止められた。彼のベットに並んで腰を下ろし、シゲルの話を聞いた。夕べから眠っていないこと。
そして、シゲルはさくら池の火の玉を見つめてしまったらしいこと。すると、薄ぼんやりした火の玉が、はっきりと形を取り始め、ドッジボール大の球形の発光体になって、甲高い金属音をさせつつシゲルに向かって飛んで来たらしい。
足がすくんで逃げられないシゲルの1メートルほど前方に空中静止した火の玉は、白い光を放っていた。
それは実は透明な物体で、その中に気味悪く痩せた小人がしゃがんでいた。
更に目の前に近づくとその小人が立ち上がり、シゲルに向かって切れ目だけの口をしきりに動かし、何かを語りかけてきたという。
しかし、周りに響くのは例の聞いた事もない金属音だけで、そいつの声は聞き取れず、しばらくして火の玉は池の対岸の方まで飛んで行き、ようやく見えなくなったという。
シゲルは怯えて、最後に「どこにも行きたくない」と言った。僕も心底恐ろしくなり、シゲルのかあさんが帰って来たのを良いことに、そそくさとシゲルの家を立ち去った。
それから二週間もしないうちにシゲルの家族がいなくなった。学校では急な家庭の事情で済まされた。団地では、多分夜逃げだということで落ち着いた。
奇妙な事があった。当の夜逃げした夜、シゲルの母さんが団地のベランダから外に向かって、シゲルの名前を何回も呼ぶ声を聞いた人が、たくさんいた事だ。
僕はそれ以来、さくら池には近づいていない。