人面犬

もう十年以上前になるが、九月の初めに、東北のある県まで旅をしたことがある。

ひとり旅のついでに、遠い親戚の家へ、顔を出すことになった。

母方の、そのまた縁つづきという、ずいぶん遠い親戚だ。

僕自身は、その家の人たちと、会うのは初めてだった。

駅からバスに揺られ、さらに二十分ほど歩いた先に、その家はあった。

見わたすかぎり田んぼと山ばかりの、静かな土地だった。

稲穂が、九月のやわらかい風に、いっせいに頭を垂れていた。

都会の暮らしに疲れていた僕には、その景色が、やけにしみた。

ここには、時間が、ゆっくり流れているようだった。

まさか、あんなものを見ることになるとは、そのときは思いもしなかった。

その家には、従姉妹夫婦と、その小さな子ども、それから旦那さんのご両親が、同居していた。

三世代がひとつ屋根の下に暮らす、大きな農家だった。

僕は、玄関先で、ひとりひとりに、ぎこちなく挨拶をした。

土地の言葉は、正直、半分ほどしか聞き取れなかった。

それでも、みんな、人なつこい笑顔で迎えてくれた。

「遠いところ、よう来たなあ」と、従姉妹のご主人が、太い手で僕の背中を叩いた。

家のなかは、古い木と、味噌の、なつかしい匂いがした。

縁側からは、黄金色の田んぼが、どこまでも見わたせた。

従姉妹の子どもは、まだ三つか四つで、僕を見ると、母親のうしろに隠れた。

けれど、しばらくすると、こっそり近づいてきて、僕の袖を引っぱった。

「おじちゃん、だあれ」

あどけない声に、僕の緊張も、すっかりほどけていった。

そんな、どこにでもある、あたたかい家だった。

最初は、少し緊張していた。

けれど、旦那さんのお父さんと話すうちに、その気持ちは、すぐにほぐれていった。

お父さんは、熱帯魚を飼うのが趣味なのだという。

僕もちょうど、家で小さな水槽をいくつか持っていた。

「あんた、魚やるのかい」

お父さんは、それを聞いて、急に目を輝かせた。

「そりゃあ、話が合うわ」

座敷には、よく手入れされた大きな水槽が、いくつも並んでいた。

水草のあいだを、色とりどりの魚が、ゆっくりと泳いでいる。

ネオンテトラや、グッピーや、名前も知らない魚たちが、光を反射してきらめいていた。

「この水槽はな、もう十年、いじり続けとるんだ」

お父さんは、水槽をながめながら、目を細めた。

「生きものはな、手をかけてやった分だけ、ちゃんと応えてくれる」

「魚も、犬も、鶏も、みな同じよ」

お父さんは、そう言って、大きくうなずいた。

「命は、粗末にしちゃならん。それが、この土地の教えだ」

僕は、そのときは、ただの、やさしい言葉として聞いていた。

けれど、あとになって、その言葉の重さが、じわりとわかった気がした。

命を粗末にしない、というのは、ただ、かわいがることだけを言うのではない。

この土地では、それ以上の、別の意味を持っているのかもしれなかった。

その言葉を、僕は、なぜか今でも、はっきりと覚えている。

僕たちは、水温のことや、餌のことで、しばらく夢中になって話しこんだ。

お父さんは、根っからの、生きもの好きの人に見えた。

だからこそ、あとで見た光景が、いっそう信じがたかったのだ。

すっかり打ち解けたころ、お父さんが、思い立ったように言った。

「そうだ、畑から野菜を取ってくるから、持って帰りな」

僕は、それなら手伝います、と言って、お父さんについていくことにした。

お父さんは、土間の隅から、草刈り用の鎌を一本、手に取った。

「裏の畑まで、ちょっと歩くぞ」

草刈り鎌は、よく研がれていて、刃が鈍く光っていた。

畑仕事の道具にすぎないはずのそれが、なぜか、少しだけ目を引いた。

僕は、その光る刃から、なんとなく、目をそらした。

家の裏手には、なだらかな畑がひろがっていた。

その畑へ向かう途中に、古びた小さな小屋が、ぽつんと建っていた。

板張りの、物置のような小屋だ。

近づくと、なかから、かすかに獣くさい匂いがした。

藁と、乳のような、あたたかい匂いが、まじっている。

その前まで来ると、お父さんが、ふと足を止めた。

それまで軽かったお父さんの足どりが、そこだけ、少し慎重になった。

僕は、なんとなく、その変化に気づいた。

「ちょっと待ってな」

そう言って、小屋の戸のすきまを、そっとのぞきこんだ。

僕も、なんとなく、その後ろから、肩ごしにのぞいてみた。

小屋のなかには、大きな段ボール箱が置かれていた。

箱の底には、古い布が、ていねいに敷きつめられている。

その上に、茶色い雑種らしい母犬が、丸くなって寝そべっていた。

母犬のまわりでは、小さな塊が三つ、もぞもぞと動いている。

母犬は、僕たちに気づいても、警戒するでもなく、ただ静かに横たわっていた。

その黒々とした目が、じっと、こちらを見ていた。

どうやら、生まれたばかりの子犬のようだった。

「ああ、やっぱり生まれとったか」

お父さんは、目を細めて、うれしそうな顔をした。

「何日か前から、腹が大きかったんだ」

その口ぶりは、まるで孫の誕生を喜ぶような、やさしいものだった。

「おお、生まれたか」

お父さんが、目を細めて、うれしそうに言った。

三匹の子犬は、どれも母犬とよく似た、茶色い毛をしていた。

目もまだ開いていない。

手のひらに乗るほどの、小さな、あたたかそうな塊だった。

僕は、思わず頬をゆるめて、その様子を見ていた。

すると、母犬が、ふいに低く鳴いた。

そして、僕たちの見ている前で、もう一匹、生まれてきたのだ。

母犬が、体を、ぶるりと震わせた。

新しい命が、この世に出てくる、その瞬間だった。

僕は、思わず、固唾をのんで見守った。

「まだ、おったか」

お父さんが、小さくつぶやいた。

母犬は、その新しい子犬を、ていねいに舐めはじめた。

僕は、その四匹目を見て、あれ、と思った。

最初は、光のかげんかと思った。

けれど、そうではなかった。

四匹目だけ、ほかの三匹と、様子がちがっていた。

体は、黒っぽい毛におおわれている。

けれど、頭のあたりだけ、毛がなかった。

つるりとした、薄い肌色をしている。

母犬に舐められて、その子犬が、ゆっくりと、こちらを向いた。

僕は、息を、のんだ。

顔が、犬のものではなかった。

のっぺりとした、平たい、人のような顔だったのだ。

目も、鼻も、口も、どこか人間のそれに似た配置で、ついていた。

それは、赤ん坊の顔を、そのまま小さくしたようにも見えた。

見てはいけないものを見ている。

そういう感覚が、腹の底から、せり上がってきた。

ほかの三匹は、あいかわらず、母犬の腹に、無心に顔をうずめている。

けれど、その四匹目だけは、ほかの兄弟のほうを、見向きもしなかった。

ただ、まっすぐに、この僕のほうだけを、じっと見ていた。

まるで、僕に、何かを伝えようとするかのように。

その口が、かすかに、動いた。

口の動きが、犬の、あくびや、乳を探すしぐさとは、まるでちがっていた。

何かを、言おうとしている。

そう思えて、僕の背すじを、冷たいものが走った。

「……さん」

子犬の口から、そんな音が、もれた気がした。

僕は、金しばりにあったように、その場から動けなかった。

空耳だと、思いたかった。

生まれたばかりの子犬が、言葉を発するはずがない。

けれど、その音は、たしかに、人の声のように聞こえたのだ。

次の瞬間だった。

お父さんの手が、すっと伸びて、その子犬を箱からつまみ上げた。

迷いのない、慣れた手つきだった。

子犬が、最後まで、その音を言い終える前に。

お父さんは、それを片手に、無言で小屋を出た。

その一瞬、僕は、お父さんの手のなかを見た。

黒い体が、まだ、かすかに動いていた。

さっきまでの、あの、やわらかな笑顔は、その顔から消えていた。

かわりにあったのは、能面のような、静かな無表情だった。

そして、そのまま、畑のほうへ歩いていった。

僕は、ただ、突っ立っているしかなかった。

何が起きたのか、うまく飲みこめなかった。

畑の隅には、ゴミを焼くためらしい、古いドラム缶が置かれていた。

お父さんは、その前で、しばらく背を向けて、何かをしていた。

やがて、小屋から古い新聞紙や雑誌を運んできて、ドラム缶のなかに入れた。

白い煙が、ひとすじ、秋の空へのぼっていった。

紙の焦げる、つんとした匂いが、風に乗って流れてきた。

それ以外には、何の匂いも、しなかった。

ただ、乾いた紙が、ぱちぱちと爆ぜる音だけが、静かな畑に響いていた。

僕は、その乾いた音を、これ以上、一秒たりとも聞いていたくなかった。

僕は、それを、たしかめる勇気もなかった。

ドラム缶のなかを、のぞくことは、どうしてもできなかった。

のぞいてしまえば、後戻りできない気がしたのだ。

戻ってきたお父さんの手は、もう、からっぽだった。

その手を、お父さんは、作業着の裾で、無言でぬぐった。

何ごともなかったかのような、静かな仕草だった。

あの四匹目の子犬は、どこにもいなくなっていた。

「わりぃなあ」

お父さんは、僕のほうを見ずに、ぽつりと言った。

「家のもんには、だまっといてくれや」

その声は、さっきまでの、あの明るい声とは、別のもののようだった。

ふりむいたお父さんの顔は、もう、いつもの穏やかな顔に戻っていた。

それが、かえって、こわかった。

低く、静かで、有無を言わせない響きがあった。

僕は、何も聞けなかった。

ただ、うなずくことしか、できなかった。

それから僕たちは、何ごともなかったように、畑で野菜を収穫した。

お父さんは、きゅうりや茄子を、次々ともいで、袋に詰めてくれた。

手つきは、いつのまにか、また穏やかなものに戻っていた。

畑には、秋の虫の声だけが、静かに満ちていた。

その晩は、ごちそうになった。

食卓は、にぎやかで、あたたかかった。

従姉妹夫婦も、その子どもも、みんな屈託なく笑っていた。

あの小屋のことを知っているのは、僕とお父さんの、二人だけだった。

食卓のお父さんは、僕の茶碗に、しきりに料理をよそってくれた。

「たんと食え、たんと食え」と、上機嫌だった。

従姉妹の子どもが、僕にまとわりついて、はしゃいでいた。

あたたかい、しあわせな家族の風景だった。

ふと、お父さんと目が合った。

お父さんは、ほんの少しだけ、口の端を上げてみせた。

それは、笑顔ではなかった。

二人だけの秘密を、確かめ合うような、そんな目配せだった。

だからこそ、あの小屋の出来事が、まるで自分の見た悪い夢のように思えた。

布団に入っても、なかなか寝つけなかった。

目を閉じると、あの、人のような顔が、こちらを向く。

そして、「さん」という、あの、消え入るような声が、耳の奥でよみがえるのだ。

僕は、何度も寝返りを打ちながら、朝が来るのを待った。

お父さんは、食卓でも、いつもの気のいい人に戻っていた。

僕は、笑いながら、けれど、どこか上の空だった。

翌朝、僕は、たくさんの野菜と、土産を持たされて、その家を後にした。

バス停まで、お父さんが、見送りに来てくれた。

別れぎわ、お父さんは、僕の目を見て、もう一度だけ、言った。

「ゆうべのことは、忘れてくれや」

僕は、うなずいた。

けれど、忘れられるわけが、なかった。

最後まで、あのことは、誰にも、何も言わなかった。

あれから、もう何年も経つ。

あの子犬のことは、たぶん、ただの奇形だったのだろう。

そう思うようにしている。

生きものには、まれに、そういうことがあるものだ。

けれど、正直に言えば、ときどき、別の考えが頭をよぎる。

あれは、件だったのではないか、と。

人の顔を持って生まれ、ひとこと告げると、すぐにいなくなる。

そういう言い伝えの生きものが、この国には、昔からいる。

件は、生まれてすぐに、この先に起こる災いを告げ、そして、いなくなるという。

その予言は、決して外れない。

だから昔の人は、件が生まれると、そのひとことを、恐れながらも聞いたのだそうだ。

けれど、なかには、あえてその声を聞くまいとした土地も、あったと聞く。

聞いてしまえば、その災いから、逃れられなくなるからだ。

だから、生まれたその声を、聞く前に断つ。

それが、いちばんの厄よけになるのだと、そう伝える土地もあったという。

件は牛から生まれるというから、犬なら、話がちがうのかもしれない。

それでも、あのお父さんの、慣れた手つきが、どうしても忘れられないのだ。

あれは、初めて見るものに、うろたえる手つきではなかった。

何度も、そうしてきた者の、迷いのない手つきだった。

つまり、あの土地では、ああいうことが、これまでにも、あったということだ。

そして、そのたびに、家のなかの誰にも、告げられずにきたのだろう。

あのお父さんだけが、ひとりで、それを引き受けてきたのかもしれない。

あれが初めてではない、という手つきだった。

そして、今でも、ひとつだけ、考えてしまうことがある。

あの子犬が、最後まで言い終えていたら。

「さん」の続きに、いったい、何を告げようとしていたのだろう。

さん、で始まる言葉を、僕は、ときどき、指を折って数えてしまう。

それが、地名なのか、人の名か、それとも、まったく別の何かなのか。

考えはじめると、背すじが、すっと寒くなる。

あの子犬が、ただの奇形であったなら、それでいい。

けれど、もし、そうでなかったなら。

あのお父さんは、僕を、あの災いから、遠ざけてくれたのかもしれない。

言い終える前に、あの声を、断ってくれたのかもしれない。

だとすれば、あの迷いのない手つきは、むしろ、やさしさだったのだ。

今の僕には、そう思えてならない。

それでも、感謝すべきなのか、恐れるべきなのか、いまだにわからない。

ただ、あの静かな土地にだけは、あれ以来、一度も足を向けられずにいる。

それを聞かずにすんだことを、僕は、幸運だったと思うべきなのだろう。

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