不思議な話 霧の磯の白い犬

月明かりの浜辺と漁師

これは、私が去年の十一月に体験した不思議な話である。

釣りを覚えたのは、父の影響だった。

父は寡黙な人で、休日になると私を連れて、北の半島の磯に通った。

父が逝って十年になるが、形見の磯竿は今も私の車の中にある。

竿を握ると、隣でリールを巻いていた父の手つきの癖まで、思い出すことができる。

四十を過ぎた女が一人で夜の磯に立つというと、たいてい怪訝な顔をされる。

けれど私にとって釣りは、父と話す時間の続きのようなものだった。

通っているのは、半島の北の端にある「犬戻り」と呼ばれる磯である。

自宅からは、車で二時間半かかる。

高速を降りると、道は海沿いの一本道になる。

トンネルを三つ抜けるたびに、窓から入る空気の匂いが変わっていく。

最後のトンネルを出た瞬間に開ける湾の色を見るために、通っているようなところもある。

地形図にも載っている、正式な地名だ。

岬の付け根が深くえぐれていて、満潮になると磯が陸から切り離される。

昔、猟師の犬がこの磯で主人の帰りを待ち続けたから犬戻り、と聞いたことがある。

柳田國男の本には、犬が人の魂を導くという話がいくつも出てくる。

『遠野物語』の犬は山の異界の番人だが、海辺の犬の伝承は、もう少し優しい。

溺れかけた者を浜へ押し戻す犬、時化の前に吠えて知らせる犬。

山の犬が境界の外を守るものなら、海の犬は、境界の内側へ人を連れ戻す側なのだ。

そんなことを考えながら竿を出すのが、私の釣りだった。

磯への渡しを頼んでいるのは、浜で渡船屋を営む亀井さんという老人である。

八十に近いはずだが、艫に立つ姿は若い者より安定している。

船は古い和船で、機関の音に合わせて床板がことことと鳴る。

亀井さんは口数の少ない人だが、潮と天気の話だけは、驚くほど丁寧にしてくれる。

初めて渡してもらった日、亀井さんは私の竿を見て、少しだけ目を細めた。

「ええ竿や。大事に使うとる竿は、見たらわかる」

それから私は、月に二度ほど、亀井さんの船で犬戻りに渡るようになった。

浜には食堂が一軒だけあって、釣りの帰りに寄るのが習いになった。

名物は、その日の漁で残った魚で作るあら汁である。

冷えた体には、これが何よりも効く。

おかみさんは六十がらみの、よく笑う人だ。

「あんた、また犬戻りかい。物好きだねえ」

「あそこ、型のいい黒鯛が出るんです」

「うちの人も昔よく行ったよ。霧の日だけはやめときな、って言ってたけど」

霧の日だけは。

その言い方が、妙に耳に残った。

浜の桟橋の付け根には、古い石の犬が一体、海に向いて座っている。

高さは膝ほどで、潮風に丸く溶けて、目鼻はもうほとんどない。

首のところに、赤い紐で小さな鈴が結んであった。

誰が彫ったものか、聞いたことはなかった。

漁村の路傍に地蔵が立つのはよく見るが、犬の石像というのは珍しい。

犬を供養する塚や碑が各地にあることは、民俗の本で読んで知っていた。

けれどこの浜のそれについて、深く考えたことはなかった。

石はあれほど古いのに、鈴だけが新しい。

初めて見たときから、それが少しだけ気になっていた。

十一月の半ば、私はその年最後のつもりで犬戻りに渡った。

その日は朝から、空が妙に白っぽかった。

天気図に崩れはなく、予報はどこも晴れの凪だった。

午後三時の渡しで、迎えは日没の三十分後と決めてあった。

「今日は凪や。けど、暗うなる前には支度しときや」

「夕方から冷えるで。早う上がりたなったら、磯の上で旗ふってくれたらええ」

「ありがとうございます。日没までには片付けます」

亀井さんはそう言って、船を返していった。

風はなく、海は油を流したように静かだった。

磯の匂いが、いつもより濃い気がした。

海藻と、塩と、その下に沈んでいる何か古いものの匂い。

竿を出して一時間ほどは、何事もなかった。

撒き餌を打つと、足元の磯だまりで小魚が銀色に散った。

黒鯛のあたりが二度あって、一枚は型も良かった。

竿先から指に伝わるあの感触は、何年やっても飽きることがない。

最初に気づいたのは、沖の色だった。

水平線のあたりが、妙に白い。

風もないのに、その白さが、見ているあいだに厚みを増していく。

海霧だ、と思った。

この季節にしては早いが、ないことではない。

念のため荷物をまとめながら、私は携帯のラジオをつけた。

漁業無線の気象通報を聞くためだ。

ラジオは、ざらざらと砂を噛むような音しか出さなかった。

周波数を変えても同じだった。

ふいに、時報の声が一瞬だけ通った。

「午後九時をお知らせします」

思わず時計を見た。

四時十五分だった。

時報は、それきり砂の音に戻った。

どこか遠い局の放送を拾ったのだろう、と思うことにした。

ただ、時報というものは、どこの局でも同じ時刻に鳴るはずだった。

混信だろう、と自分に言い聞かせた。

電波というものは、霧の出る日には妙な飛び方をする。

そう説明をつけた矢先、背後の磯の高みで、ちりん、と音がした。

鈴の音だった。

振り返ったが、黒い岩が重なっているだけだった。

耳の奥で血の巡る音が聞こえるほど、磯は静かだった。

誰かの仕掛けの鈴が、岩にでも引っかかっているのだろう。

そう考えて、私はまた沖を向いた。

三つ目の異変は、潮だった。

足元の磯だまりが、見ているそばから膨らんでいく。

潮位表では、満潮まであと三時間はあるはずだった。

それなのに、さっきまで乾いていた岩が、もう黒く濡れている。

釣りを長くやっていれば、潮が読みと違う日くらいはある。

そのときの私は、まだそう思おうとしていた。

けれど、理屈に合わないことが、もう三つ重なっていた。

私は竿をたたんだ。

沖を見ると、白い壁はもう、湾の入り口まで来ていた。

霧は、音もなく来た。

それまで私は、霧というものを景色の一部だと思っていた。

その夜の霧は、質量を持っていた。

頬に触れる感触が、濡れた布のように重い。

最初に対岸の灯が消え、次に沖の養殖棚の浮きが消えた。

自分の吐く息と、霧との境目が、わからなくなった。

五メートル先の岩が、薄い紙を一枚隔てたように滲んだ。

迎えの船は来ない、とすぐに悟った。

この視界では、亀井さんは船を出せない。

ならば歩いて戻るしかないが、犬戻りの磯は、潮が満ちれば渡れない。

私は荷物を背負い、記憶を頼りに陸側へ歩き出した。

数分で、自分がどちらを向いているのかわからなくなった。

波の音が、前からも後ろからも聞こえる。

霧が音の方向を狂わせるのだ、と頭では理解していた。

理解と恐怖は、別の場所に棲んでいる。

試しに、声を出してみた。

「誰か、いますか」

自分の声が、一メートル先で霧に吸われて消えた。

心臓の音が、耳のすぐ後ろで鳴っていた。

足元で、磯だまりの水が私の靴を越えた。

冷たさが、足首から骨に沁みた。

喉の奥が乾いて、舌が上顎に貼りついた。

そのとき、霧の奥で、ちりん、と鳴った。

さっきと同じ、あの鈴の音。

音のした方に目を凝らすと、白いものが立っていた。

犬だった。

中型の、和犬のような立ち姿の、白い犬。

左の耳の先が、欠けていた。

犬はこちらを見て、一度だけ、低く吠えた。

威嚇ではなかった。

来い、と言われたのだと、なぜか迷いなくわかった。

犬は歩き出し、数歩ごとに振り返った。

私はついていった。

他にすがるものが、何もなかったからだ。

犬の白さだけが、霧の中で輪郭を保っていた。

不思議なことに、その白さは、霧の白さと混ざらなかった。

指先の感覚が薄れて、私は竿のケースの紐を何度も握り直した。

歩きながら、おかしい、と思った。

これだけの霧の中にいて、犬の毛は少しも濡れていない。

私の髪も上着も、霧を吸って重くなっているのに。

それに、犬の足音がしない。

砂利を踏む私の靴音だけが、霧の中に響いていた。

岩場を越え、犬は左へ左へと私を導いた。

私の記憶では、陸へ戻る道は右のはずだった。

一瞬、足が止まった。

犬も止まり、静かにこちらを見た。

黒い目の奥に、責めるような色は何もなかった。

私は犬を信じることにした。

後で知ったことだが、私が戻ろうとしていた右手の浅瀬は、あの時刻、もう腰の深さまで沈んでいたそうだ。

どれほど歩いたのか、よくわからない。

時計を見る余裕は、もうなかった。

やがて足元に、踏み固められた細い道が現れた。

崖の中腹を巻く、古い杣道だった。

草の匂いがして、ようやく波の音が背中側にまとまった。

振り返ると、渡ってきた磯はもう、白一色の底に沈んでいた。

犬は道の先に座って、私を待っていた。

「ありがとう」

声をかけながら、私は反射的に足元を見た。

杣道の入り口は、崖から染み出した水で、砂が薄く濡れていた。

濡れた砂の上に、足跡は私のものしか無かった。

背中を、冷たいものがゆっくり這い上がった。

犬を見た。

犬は、もう私を見ていなかった。

海のほうへ顔を向け、ちりん、と一度鈴を鳴らし、霧の中へ歩いて消えた。

白い毛並みが霧に溶ける、その境目を、私は最後まで見分けられなかった。

杣道は、浜の墓地の裏手に出た。

食堂の灯が見えたとき、膝から力が抜けて、私はしばらく立てなかった。

戸を開けると、おかみさんと亀井さんが、同時に振り向いた。

「あんた、磯に残っとったんか」

亀井さんの顔色が変わっていた。

「霧で船が出せんで、今しがた消防に電話しよう言うとったとこや」

「この霧は、読めんかった。すまんことした」

「いいえ。私が長居をしたんです」

おかみさんが、何も言わずにあら汁をよそってくれた。

椀を持つ手が、まだ少し震えていた。

私は熱い茶をもらい、震えが収まってから、順番に話した。

早すぎた潮のこと、九時の時報のこと、鈴の音のこと、白い犬のこと。

左の耳が欠けていた、と言ったとき、亀井さんの湯呑みが、ことりと音を立てて止まった。

おかみさんが、小さな声で言った。

「シロだ」

「シロ……?」

「亀井さんとこの先代の犬よ。亀井さんのお父つぁんの船に、いっつも乗っとった」

亀井さんは、しばらく黙っていた。

それから湯呑みを置いて、ぽつりぽつりと話しはじめた。

十年前の十一月、先代は犬戻りの沖で時化に巻かれた。

船は浅瀬に乗り上げ、先代は海に投げ出された。

シロは迷わず飛び込み、先代の袖を咥えて、岩まで押し戻したという。

先代は、助かった。

シロは、戻らなかった。

「三日後にな、犬戻りの磯に打ち上がっとった。左の耳の欠けた、白い犬や」

「親父がそれはもう泣いてな。桟橋のとこに、石の犬を立てたんや」

「親父はそれから、霧の出そうな日には、絶対に客を渡さんようになった」

「わしが渡しを継いでからも、それだけは守っとる」

桟橋の、あの石。

「鈴は」

と、私は聞いた。

「石の犬の首の、あの鈴は、どなたが替えているんですか」

亀井さんとおかみさんは、顔を見合わせた。

「さあ……古うなったら誰ぞが替えとるんやろ。わしは替えたことないで」

「うちでもないよ。気がついたら新しゅうなっとるんだよね、あれ」

店の中が、少しのあいだ、静かになった。

ストーブの上で、薬缶だけが低く鳴っていた。

窓の外では、晴れはじめた霧が、月の光を薄く透かしていた。

あの白さの中に、まだ何かが歩いている気がして、私はしばらく目を離せなかった。

後日、私は図書館で郷土資料を繰ってみた。

犬戻りという地名は、江戸期の絵図にはもう見えるという。

猟師の犬の話より、ずっと古い。

由来は、その先へは辿れなかった。

土地の名前というものは、いつも由来より長生きをする。

もしかするとあの磯では、シロよりも前から、白いものが人を導いていたのかもしれない。

帰り際、私は桟橋の石の犬の前に立った。

霧はもう晴れて、月が出ていた。

丸く溶けた石の頭を、私はそっと撫でた。

首の鈴に触れると、ちりん、と鳴った。

霧の中で聞いたのと、寸分違わぬ音だった。

私が父の形見の竿で釣りを続けるように、あの犬も、先代から受け継いだ仕事を続けているのかもしれない。

霧の日に磯へ残った迂闊な客を、境界の内側へ連れ戻すという仕事を。

翌年から、私は犬戻りに渡るたび、石の犬に小さな煮干しを供えることにしている。

亀井さんは何も言わないが、迎えの船の上からそれを見て、少しだけ笑う。

ただ、ひとつだけ、誰にも言っていないことがある。

あの夜、杣道で別れる間際、犬が一度だけ、私の手の甲の匂いを嗅いだ。

鼻先は、冬の石のように冷たかった。

生きているものの温度では、なかった。

それでも怖いとは思わなかったのだから、不思議なものだ。

その冷たさを、私の右手は、十一月が来るたびに思い出す。

供えた煮干しは、翌朝にはかならず無くなっている。

あの浜には、猫の一匹もいないのだけれど。

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