縁側の風鈴

縁側

実家に帰ったのは、一年以上ぶりのことだった。

三月の連休に入ってすぐ、私は子供を連れて東北の実家へ向かった。夫とは少し前から会話が少なくなっていて、義母に言われたひと言がまだ胸に刺さっていて、正直なところ、どこかへ逃げ出したかっただけなのだと思う。新幹線の中で子供がずっとはしゃいでいても、私はほとんど窓の外を見ていた。春にはまだ遠い、雪の残った田んぼが続いていた。

在来線に乗り換えて一時間ほど揺られて、父が迎えに来てくれた。駅の出口で待っていた父の顔を見たとき、以前より少し痩せたな、と思った。「おばあちゃんが逝ってから、飯が一人だとまずくてな」と笑ってみせたが、笑い方が以前と違った。祖母が亡くなったのは一昨年の秋のことだ。それ以来、父はあの古い家に一人で住んでいる。

家に着くと、懐かしいにおいがした。廊下の木が軋む音、障子越しに見える枯れた庭、仏間からうっすら漂う線香の残り香。全部が子供の頃のままで、その変わらなさが少しだけ泣きたいような気持ちにさせた。仏間には祖母の遺影が飾られていた。白い菊の花が供えられて、祖母はいつもの柔らかい笑顔でこちらを見ていた。私は手を合わせながら、来るのが遅くなってごめん、と心の中で思った。

縁側に、風鈴がまだ吊るされていた。

青いガラスの玉から細い短冊が下がった、小さな風鈴だった。祖母が気に入っていたもので、毎年夏が始まる前に祖母自身が吊るして、秋になったら丁寧に仕舞っていた。それが今、三月の寒い空気の中にぶら下がっていた。「取り外せなくてな」と父が後ろから言った。それ以上の説明はなかった。

夕食の後、子供を寝かしつけたのは九時すぎだった。父も早めに部屋に引き取った。私は昔使っていた六畳の部屋に一人で布団を敷いて横になったが、眠れなかった。

天井の木目をぼんやり眺めながら、頭の中をいろんなことが流れていった。夫に送ったメッセージへの返信がないこと。義母から言われた「あなたって要領が悪いのね」という言葉。自分がこれからどうしたいのか、何が正しいのか、最近ずっとわからなくなっていること。布団の中で膝を抱えていると、遠くで犬が吠えた。それ以外は静かだった。

深夜の一時を回った頃、ふと気がついた。

風鈴が鳴っていた。

チン、と一度だけ、静かに鳴った。間があって、またチン、と鳴った。窓は閉めていた。外で風が吹いている様子もない。私は布団から出て廊下に出た。縁側に近づくにつれて、空気の質が少し変わる感じがした。冷えているのに、どこか柔らかいような。上手く言えないが、そういう感じがした。

縁側の引き戸の前に立つと、風鈴がかすかに揺れていた。外を見ると、庭の木の葉は一枚も動いていない。月明かりが薄く差して、霜の残った地面が白く光っていた。

そのとき、においがした。

石鹸の、少し甘いにおいだった。祖母が使っていた白い固形石鹸のにおいだと、すぐに分かった。入院する前まで使い続けていた、昔ながらの香り。子供の頃、祖母に抱きしめてもらうといつもそのにおいがした。怖いとは思わなかった。ただ、涙が出てきた。泣くつもりなんてなかったのに、気づいたら頬が濡れていた。私は縁側の前に座り込んで、しばらくそのままでいた。

においはやがて消えて、風鈴も動かなくなった。外は相変わらず無風だった。

翌朝、父と二人で朝食を食べた。子供はまだ眠っていた。父は味噌汁をすすりながら、昨夜のことを知らないまま、ぽつりと言った。

「おばあちゃん、最後の方はよくお前の話をしとったぞ」

私は黙って続きを待った。

「あの子は頑張りすぎるから心配だって。大丈夫かって、何度も聞いてきた」

父はそれ以上何も言わなかった。私も何も言えなかった。

帰り支度をしていて、押し入れの奥に自分の古い荷物が積んであるのを見つけた。学生の頃のリュックや、読み終えた文庫本の束。その中に、小さな巾着袋があった。薄い桃色の布で、端がきちんと縫われていた。祖母が縫ってくれたものだと分かった。中を開けると、折り畳んだ小さな紙が一枚入っていた。

開くと、ひらがなで四文字書いてあった。

「だいじょうぶ」

祖母の字だった。ゆっくりと丁寧に書かれた、あの字だった。いつ書かれたのか、なぜここにあったのか、私には分からない。祖母は私のことをそんなに心配していたのか、とも思った。それとも、ずっと前から準備していたのか。考えれば考えるほど、分からなくなる。

帰りの新幹線の中で、後部座席で眠る子供の顔を見ていた。小さくて、まだ柔らかい顔だった。窓の外には早春の景色が続いていた。雪の残った田んぼ、小さな駅のホーム、遠くに見える山の輪郭。なんということもない景色なのに、胸の奥が少しずつほぐれていく気がした。

昨夜の風鈴のことは、誰にも話していない。巾着袋はバッグの内ポケットに入れてある。あの「だいじょうぶ」という四文字が、今も時々頭に浮かぶ。

大丈夫だと、言いたかったのか。それとも、もうずっと前から大丈夫だと、知っていたのか。

どちらにしても、あの夜の縁側のことを、私は長いこと忘れないと思う。

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