アーケードの文具店

女性と通り

あれは去年の秋のことだ。

残業で遅くなった帰り道に、私はアーケードの文具店で、一本の鉛筆を買った。

翌日、その店は壁になっていた。

今でも机の引き出しには、その鉛筆が入っている。

アーケードの文具店の灯り

その日は、夕方まで細かい雨が降っていた。

仕事が片付いたのは、終電の少し前だった。

肩が重く、目の奥に、パソコンの光がまだ残っているような疲れ方をしていた。

駅から自宅までは、普段、大通りを使う。

その日は、なんとなく気が向いて、昔ながらのアーケード商店街を抜けることにした。

シャッターの降りた店が多い、さびれた商店街だ。

昼間でも人通りは少なく、夜は照明がまばらで、少し暗い。

それでも屋根があるから雨の日に濡れずに済むし、大通りより五分近道になる。

月に数度、気が向いたときだけ通る道だった。

入口から出口まで、歩いて三分ほどの短い商店街だ。

金物屋、クリーニング屋。

廃業してシャッターのままの呉服屋と薬局。

だいたいの配置は頭に入っていた。

その夜も、見慣れた風景のはずだった。

アーケードの中ほどまで来たとき、ふと右手に灯りが見えた。

文具店だった。

そこにそんな店があったかどうか、記憶にない。

夜に通ることは滅多になかったし、シャッターが開いていれば気づかなかっただけかもしれない。

そう思った。

小さな間口だった。

木枠のガラスのショーケースが、外にはみ出すように置かれている。

ケースの中に、文房具が並んでいた。

コンパスや分度器、三角定規のセット。

紙製の鉛筆立て。

透明の下敷き。

セルロイドの筆箱。

どれも今では見かけないデザインで、昭和の匂いがした。

ガラスの向こうの黄色い灯りが、アーケードの暗がりに、そこだけ温かく滲んでいた。

雨上がりの濡れた床に、その灯りが細長く伸びている。

自分の足音が、そこで急に、小さくなった気がした。

この商店街の中に、こんなアーケードの文具店があったのか。

疑問よりも先に、懐かしさが胸をいっぱいにした。

子供の頃、学校帰りに寄った文房具屋の匂いが、ふいに鼻の奥によみがえったのだ。

足が、自然と店の中へ向いた。

木の棚と一本十円の鉛筆

店内は狭かった。

木の棚が壁際にぐるりと並び、鉛筆や消しゴム、ノートが整然と陳列されている。

画用紙や絵の具セットも、きちんと積まれていた。

どこかの学校の購買部みたいな、こじんまりとした空間だった。

蛍光灯の光が、わずかに黄色みがかっている。

それが、懐かしさをいっそう増していた。

カウンターの奥に、六十代くらいの男性がいた。

白いシャツの上に割烹着を着て、帳簿のようなものを眺めている。

骨ばった長い指で、ペンの先を帳面の罫線に沿って走らせている。

書いているのは、数字ではなかった。

何か、人の名前のようなものが、細い字でびっしりと並んでいた。

私が入ると顔を上げ、短く言った。

「いらっしゃい」

特に不思議そうな様子もない。

ごく自然な声だった。

私は、棚を見て回った。

鉛筆が、一本ずつ紙の帯を巻かれて並んでいる。

十二色の色鉛筆の箱が積まれていた。

値札を見ると、鉛筆は一本十円だった。

他に客はいない。

店内はしんと静かで、外の音が聞こえなかった。

アーケードに人はほとんどいなかったが、それにしても音が遠すぎた。

少し不思議な感覚がしたが、夜遅くて疲れているせいだろうと思った。

試しに、一本買ってみることにした。

「HBを一本ください」

男性は無言で棚から一本取り、カウンターに置いた。

私が十円玉を出すと、静かに言った。

「ありがとうございます」

それだけだった。

釣り銭のやり取りも、袋に入れることもない。

ただ鉛筆が、カウンターの上に置かれた。

私はそれを手に取り、店を出た。

アーケードを抜けながら、手の中の鉛筆を見た。

木の軸が少し黄みがかっていて、「HB」の刻印がある。

消しゴムのついていない、シンプルな鉛筆だった。

紙の帯には、見慣れないロゴが入っている。

今どきの文具店では、まず見かけないデザインだ。

家に帰ると、鉛筆を机の引き出しにしまった。

それだけのことで、その夜は、特に何も感じなかった。

壁になった間口

翌日の昼休み、同僚と話しているうちに、昨夜のことを話した。

「商店街に古い文具店があってさ、鉛筆を買ったんだ」

「あのアーケードに?そんな店あったっけ」

同僚は首をかしげた。

気になって、昼休みのうちに、確かめに行った。

同僚の三浦も、笑いながら付いてきた。

「どうせ、見間違いだろ。疲れてたんだよ」

「そうかもしれない」

そう答えながら、私は昨夜の灯りの色をはっきり覚えていた。

見間違いにしては、あまりにも細部が鮮やかだった。

その場所には、壁があった。

店があったはずの位置に、ペンキの剥げた古いコンクリートの壁が続いている。

間口も、扉もない。

隣の金物屋の端から、壁は途切れずにつながっていた。

端に、植木鉢がふたつ置かれている。

まるで、最初からそこに店などなかったかのように。

私は、しばらく立ちすくんだ。

それから、壁に手を触れた。

ひんやりして、乾いていた。

古いコンクリートの感触だった。

隣の金物屋のおじさんが、店先から出てきた。

「何かお探しですか」

「ここに、昨日、文具店があったような気がして」

おじさんは、しばらく私の顔を見つめてから、首を振った。

「ここはずっと壁ですよ。私が来る前から」

「以前は、何かあったんでしょうか」

「さあ、知りませんねえ」

夜になってから、もう一度だけ確かめに行った。

仕事帰りのアーケードは、昨夜と同じように暗く、照明がまばらだった。

金物屋のシャッターは降りていた。

その隣の壁は、闇の中でも、はっきりと壁だった。

耳を澄ませたが、店の気配はどこにもない。

聞こえるのは、遠くの大通りを走る車の音だけだった。

私は、もう一度、壁を見た。

どこにも、扉の跡がなかった。

蝶番を外した穴さえ、ない。

最初から、ずっと壁だったとしか見えない状態だった。

紙帯のロゴを探して

その鉛筆は、今も机の引き出しに入っている。

使っていない。

使う気になれない。

捨てることもできない。

手に持つと、少し温かい気がする。

気のせいだと思う。

たぶん、気のせいだ。

先日、ふと思い立って、紙の帯のロゴを調べてみた。

なかなか見つからなかったが、粘って検索を重ねると、同じデザインのものにたどり着いた。

昭和四十年代に製造されていた、廃番品だった。

図書館で、古い住宅地図も探してみた。

昭和四十年代の地図の、その区画には、名前のない小さな四角が描かれているだけだった。

アーケードの文具店という名も、店主の名字も、どこにも載っていない。

職員の女性に尋ねても、首をかしげられるばかりだった。

その週末、私はもう一度アーケードを訪ねた。

壁の前を通り過ぎ、クリーニング屋の店先に腰掛けていた老婦人に声を掛けた。

「このあたりに、昔、文房具屋さんはありませんでしたか」

老婦人は、少し考えてから、ゆっくりうなずいた。

「ありましたよ。あの壁のところ」

「私が小学生の頃、よく鉛筆を買いに行ったわ」

「ご主人は、どんな方でしたか」

「白いシャツに割烹着でね。変わった人でねえ」

老婦人は、遠くを見るような目をした。

「あの子たちはね、みんな十円玉を握りしめて、ガラスのケースにおでこをくっつけてたの」

「ご主人は、買ってくれた子の名前を、帳面に書いていたわねえ」

私は、帳面にびっしり並んでいた細い字の、人の名前のようなものを思い出した。

「あそこはね、十円玉でしか売ってくれなかったのよ」

「釣り銭が出ないようにって」

私は、息を止めた。

十円玉を出したときの、あの静かな「ありがとうございます」を思い出していた。

「そのお店は、いつ頃まで」

老婦人は、首を振った。

「それがね、いつ閉めたのか、誰も覚えてないの。気がついたら、壁になってた」

そう言って、小さく笑った。

老婦人は最後に、ふと思い出したように付け加えた。

「その鉛筆、持ってるなら、削らないほうがいいかもしれないわね」

「どうしてですか」

「さあ。ただ、削った子は、みんなあの店のことを忘れちゃったのよ」

私は礼を言って、その場を離れた。

背中に、誰かの視線を感じたが、振り返らなかった。

家に帰って、財布の中を確かめた。

あの夜、確かに十円玉を一枚、カウンターに置いたはずだった。

だが財布の小銭入れには、同じ年の十円玉が、数え間違えようのないほど、きちんと元の枚数のまま収まっていた。

あの十円玉は、どこから出したものだったのだろう。

その日以来、私は、アーケードを通るときは、いつも大通りを迂回している。

あの黄色い灯りを、もう一度見てしまうのが、怖いのだ。

似た不思議な体験談として、寄り物帳に増える鉛筆の行も読んでみてほしい。

街の記憶を描いた話には、引取り待ちの椅子が増えていくもある。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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