トノサマバッタ

小学生の頃の、ある夏の話です。

今でも、蝉の声を聞くと、あの草むらのことを思い出します。

思い出すたびに、少しだけ、背筋が寒くなるのです。

僕が育ったのは、海に面した、小さな町でした。

夏休みの自由研究に、僕は昆虫採集を選びました。

理由は単純で、いちばん楽ができそうだったからです。

絵日記や工作は苦手でしたが、虫捕りなら、遊びの延長でできると思ったのです。

といっても、毎日、網を持って野山を駆け回って、遊んでいただけなのですが。

町のはずれに、広い緑地公園がありました。

きれいに芝が刈られ、その奥に、背の高い草むらが広がっていました。

大人はあまり近づかない場所で、虫捕りには、うってつけでした。

公園のもっと奥には、灰色の高い塀が、ずっと続いていました。

その向こうに、何があるのかは、知りませんでした。

「あっちは、行っちゃだめだって、父ちゃんが言ってた」

ケンジが、一度だけ、そう言ったことがあります。

でも、その塀の手前の草むらは、僕らの、格好の遊び場でした。

塀の近くほど、なぜか、虫が大きく、たくさんいたのです。

その夏、僕は毎日のように、そこへ通っていました。

仲のよかった、タカシとケンジも、いつも一緒でした。

三人で、朝から夕方まで、汗だくになって、虫を追いかけました。

カブトムシや、クワガタ。

タマムシに、オニヤンマ。

僕らは、捕まえた虫の数を競い合って、毎日、飽きもせず通いました。

その公園が、なぜ、あんなに虫が多かったのか。

当時の僕らは、考えもしませんでした。

麦わら帽子の下で、首筋を、汗がだらだらと流れました。

草いきれの匂いと、遠くで鳴る、防災無線のチャイム。

あの夏の風景は、今でも、はっきりと目に浮かびます。

最初に、おかしいな、と思ったのは、蝉の声でした。

あれほど蝉が鳴いているのに、あの草むらの一角だけ、なぜか静かなのです。

木はたくさんあるのに、その周りだけ、蝉が寄りつかない。

子どもながらに、少しだけ、不思議に思いました。

蝉だけではありません。

その一角には、鳥も、あまり来ませんでした。

あれほど、餌になりそうな虫がいるのに、です。

空だけが、やけに広く、静かに感じられました。

次に気づいたのは、池の水です。

公園の奥に、小さな池がありました。

木陰にあるのに、その水は、なぜか、いつも生ぬるいのです。

手を入れると、お風呂の残り湯のような、嫌な温かさがありました。

「なんで、あったかいんだろう」

友達にそう言っても、「気のせいだろ」と、笑われるだけでした。

でも、僕は知っていました。

その池のまわりの草だけが、やけに背が高く、色が濃かったことを。

まるで、何かを、たっぷりと吸って育ったように。

それだけでは、ありませんでした。

その池には、いつも、アメンボもメダカも、いませんでした。

生ぬるい水の中は、ただ、しんと静まりかえっていました。

今にして思えば、生き物が、寄りつかなかったのです。

けれど当時の僕らは、そんなことよりも、大きな虫を捕まえることに、夢中でした。

そして、あの日のことです。

僕は、その草むらで、とんでもないものを捕まえました。

一匹の、トノサマバッタでした。

ただし、普通のバッタではありません。

体長が、なんと、十三・五センチもあったのです。

手のひらに載せると、指からはみ出すほどの、大きさでした。

翅を広げると、まるで小鳥のようでした。

色も、少し変でした。

普通のトノサマバッタより、ずっと、くすんだ緑色をしていたのです。

まるで、古い苔のような、色でした。

タカシが、恐る恐る、それを覗き込んで言いました。

「なあ……これ、ほんとにバッタか」

ケンジは、一歩下がって、黙っていました。

捕まえたとき、そのバッタは、妙に、動きが鈍かったのを覚えています。

逃げようともせず、ただ、僕の手の中で、じっとしていました。

手のひらに伝わってくる感触も、変でした。

バッタなのに、なぜか、しっとりと湿っていて、生ぬるいのです。

あの、池の水と、同じ温度でした。

じっとしているバッタを、僕は、虫かごに入れました。

かごの中で、そのバッタは、翅を震わせることも、跳ねることも、しませんでした。

ただ、大きな複眼で、こちらを、じっと見ているようでした。

その晩、僕は、なかなか寝つけませんでした。

暗い部屋で、虫かごのほうから、かさり、と音がした気がしたのです。

けれど、朝、確かめると、バッタは、かごの隅で、動かなくなっていました。

僕は、少しほっとして、それを、標本にしたのでした。

今思えば、あのバッタは、生まれた時から、どこか、おかしかったのです。

あんなに大きく育つには、普通ではない、何かが必要でした。

そして、その何かは、あの草むら全体に、満ちていたのです。

帰り道、そのかごが、やけに重く感じられたのを、覚えています。

今思えば、その時点で、気づくべきだったのかもしれません。

僕は、大興奮でした。

こんなすごいものを捕まえたのは、生まれて初めてだったからです。

さっそく標本にして、夏休みの宿題として、学校に提出しました。

家に持ち帰ると、母が、ぎょっとした顔をしました。

「どこで、こんなの捕まえたの」

「公園だよ」と答えると、母は、それ以上、何も聞きませんでした。

ただ、その夜、両親が、台所で、何やら小声で話していたのを、覚えています。

次の日には、その標本の噂が、学校中に広まっていました。

展示された理科室は、昼休みになると、見物の生徒で、ぎゅうぎゅう詰めでした。

「すげえ、こんなでかいバッタ、見たことない」

「どこで捕まえたんだよ」

みんなが、口々にそう言いました。

僕は、得意げに答えました。

「町の、緑地公園の草むらだよ」

すると、それを聞いていた理科の先生の顔色が、さっと変わったのです。

「……どこの公園だって」

先生は、もう一度、僕に、そう聞き返しました。

そのときの、先生の真剣な目を、僕は今でも、忘れられません。

その日の授業は、途中で、急に自習になりました。

先生が、慌てて職員室へ、向かったからです。

廊下を、早足で歩く、大人たちの足音。

何かが、静かに、動き始めていました。

けれど、教室の僕らは、まだ、何も知りませんでした。

僕は、ちょっとした、ヒーローでした。

ところが、です。

たった二日で、その標本は、理科室から撤去されてしまいました。

そして、学校は、全校生徒に、一枚のプリントを配りました。

そこには、こう書かれていました。

「理科室に展示されていた標本のバッタは、トノサマバッタではなく、外国産のバッタであることが判明しました」

「日本の生き物ではないので、気にしないように」

担任の先生も、その日は、どこか様子が変でした。

いつもは冗談ばかり言う先生が、その日だけは、笑いませんでした。

「あのバッタのことは、もう、忘れなさい」

そう、静かに言うだけでした。

子どもだった僕は、その文章を、素直に信じました。

外国のバッタが、まぎれこんだんだな、と。

でも、今にして思えば、あれは、あまりに不自然な説明でした。

外国産のバッタが、どうして、あんな内陸の草むらに、いたというのでしょう。

それに、たった二日で撤去する理由も、ありませんでした。

何より、あのプリントの、そっけない言い回し。

あれは、生徒を安心させるためではなく、何かを、隠すための文章でした。

その日の放課後、僕は両親と一緒に、校長室に呼ばれました。

校長室には、先生ではない、知らない大人が、数人いました。

みんな、きっちりとしたスーツを着ていました。

僕には分からない、難しい話が、続きました。

「生活指導の方針が」とか、「今後の対応について」とか。

両親は、何度も頭を下げ、書類に、判子を押していました。

子ども心にも、「怒られているんだ」ということだけは、分かりました。

でも、僕は、何も悪いことをした覚えが、ありませんでした。

ただ、大きな虫を、捕まえただけなのに。

帰り道、両親は、ひとことも喋りませんでした。

「あのバッタ、どうしたの」

僕が聞いても、母は、「もう捕っちゃだめよ」と言うだけでした。

父の横顔は、見たことがないほど、こわばっていました。

その日を境に、両親は、僕を、あの緑地公園へ、二度と行かせませんでした。

「あそこは、もう立ち入り禁止になったから」

母は、そう言いました。

実際、しばらくすると、公園の入り口には、高いフェンスが張られました。

僕らの、あの遊び場は、ある日突然、消えてしまったのです。

タカシもケンジも、なぜだか、その話を、二度としなくなりました。

それから、十数年が経ちました。

僕は、すっかり大人になりました。

ある日、実家で、なにげなく、あの夏のことを思い出しました。

そして、両親に、聞いてみたのです。

「昔さ、僕がでっかいバッタ捕まえて、学校で騒ぎになったの、覚えてる」

父と母は、一瞬、顔を見合わせました。

それから、母が、重い口を開きました。

母の話しぶりは、まるで、ずっと言えずにいたことを、打ち明けるようでした。

あの標本を、学校は、外部の機関に、調べてもらったのだそうです。

だから、たった二日で、撤去されたのです。

検査の結果は、両親にだけ、そっと知らされました。

それが、何を意味するのか。

当時の両親には、あまりに、重すぎる知らせでした。

あのバッタの、正式な記録が、残っているというのです。

名前は、トノサマバッタ。

大きさは、十三・五センチ。

そして、捕まえた場所は——。

母は、そこで、一度、言葉を切りました。

僕は、なぜか、聞いてはいけないような気がして、唾を飲み込みました。

母は、少し言いよどんでから、続けました。

「あんたが虫を捕ってた、あの緑地公園ね」

「あそこは、原子力発電所の、すぐ隣にある公園だったのよ」

その言葉を聞いた瞬間、僕の頭に、あの灰色の高い塀が、よみがえりました。

公園の奥に、どこまでも続いていた、あの塀。

「あっちは、行っちゃだめ」と言われていた、塀の向こう。

あれが、そうだったのです。

僕らが虫を追いかけていたのは、その、すぐ足元だったのです。

素足で、あの生ぬるい池に入り、汗を拭った、あの場所が。

その一言で、僕の中の、すべてが、つながりました。

蝉の鳴かない、静かな草むら。

木陰なのに、生ぬるかった、池の水。

やけに背の高い、色の濃い草。

すべての違和感に、たった一つの答えが、あったのです。

生き物が寄りつかない、静かな一角。

生ぬるい水。

異常に、大きく育ったもの。

それらは、偶然では、ありませんでした。

そして、異常なほど、大きく育ったバッタ。

あのプリントの一文が、今も、頭から離れません。

「日本の生き物ではないので、気にしないように」

担任の先生も、その日は、どこか様子が変でした。

いつもは冗談ばかり言う先生が、その日だけは、笑いませんでした。

「あのバッタのことは、もう、忘れなさい」

そう、静かに言うだけでした。

あれは、外国のバッタだから、という意味では、なかったのです。

日本の、普通の生き物では、あり得ない大きさ。

だから、あんなふうに、片づけるしかなかったのです。

僕が、あの草むらで、来る日も来る日も遊んでいた、あの夏。

手のひらに載せた、あの生ぬるいバッタ。

素足で入った、あの生ぬるい池。

今の僕は、あの夏を、もう、無邪気には思い出せません。

あの生ぬるい感触が、今も、手のひらに残っている気がします。

標本にしたバッタを、素手で、何度も触ったこと。

喉が渇いて、あの池の水で、手や顔を洗ったこと。

そういう、一つひとつが、今になって、ぞっとするほど、恐ろしいのです。

当時、大人たちが、あれほど深刻な顔をしていた理由が、ようやく分かりました。

彼らは、僕らを、守ろうとしていたのです。

だから、あんなに慌てて、標本を撤去したのです。

だから、あんなに、そっけないプリントで、幕引きを図ったのです。

あの頃は、そういう場所の安全は、絶対だと、誰もが信じていました。

だからこそ、こんな話は、表沙汰にできなかったのでしょう。

大きすぎるバッタは、あってはならない、ものでした。

「気にしないように」という言葉は、裏を返せば、

「気にすれば、恐ろしくて、たまらなくなる」ということでした。

けれど、守れたかどうかは、誰にも、分かりません。

あれから、僕は、幸い、大きな病気もせず、大人になりました。

けれど、健康診断のたびに、あの夏のことが、頭をよぎります。

タカシとは、中学で別々になり、ケンジは、遠くの町へ引っ越しました。

二人が、今、元気にしているのかどうか。

僕は、知りません。

そして、あのバッタが、なぜ、あれほど大きく育ったのか。

本当のところは、今も、誰も、説明してくれないのです。

そして、ときどき、考えるのです。

あの草むらで遊んでいたのは、僕だけでは、なかったということを。

あの夏、一緒に虫を追いかけた友達は、今、どうしているだろう、と。

それを確かめる勇気は、まだ、僕にはありません。

あの緑地公園は、今は、もうありません。

数年前に、更地になり、立ち入りができなくなったと聞きました。

あの静かな草むらも、生ぬるい池も、すべて、地図から消えてしまいました。

まるで、最初から、なかったことにするように。

それでも、僕の記憶の中では、あの夏は、今も、鮮やかに続いています。

じりじりと照りつける、太陽。

むせ返るような、草いきれ。

そして、手のひらの上で、じっとこちらを見ていた、あの大きなバッタ。

あれは、僕らに、何を、伝えようとしていたのでしょうか。

あの鈍い動きは、もしかしたら、助けを求めていたのかもしれません。

それとも、ただ、そこにいた、というだけのことだったのでしょうか。

考えれば考えるほど、僕は、あの夏の草むらへ、引き戻されていくのです。

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