高校時代の同級生に、澪さんという人がいました。
今でも、彼女のことを思い出すと、背中がすっと冷たくなります。
私が通っていたのは、山あいにある古い県立高校でした。
校舎は築五十年を超える木造で、廊下を歩くたびに、床板が低く軋みました。
雨の日には、木と埃の入り混じった、独特の匂いが漂う校舎でした。
校舎の裏手には、小さな古い祠がありました。
誰が祀ったのかも分からない、苔むした石の祠です。
生徒のあいだでは、「あの祠に願をかけると、叶う」という噂がありました。
ただし、人を呪う願いも、同じように叶うのだと。
今にして思えば、その噂は、ただの噂では、なかったのかもしれません。
地元では、そこそこの進学校として知られていました。
二年生のときの担任は、現代文を受け持つ女の先生でした。
担任は、二年から卒業までの二年間、ずっと同じでした。
仮に、K先生としておきます。
K先生は、成績のいい生徒には、驚くほど優しい人でした。
けれど、成績の悪い生徒には、氷のように冷たい人でした。
いわゆる、学歴だけを物差しにする、えこひいきの先生だったのです。
成績のふるわなかった私も、ずいぶんと嫌味を言われました。
けれど、その矛先が誰よりも向いていたのが、澪さんでした。
澪さんは、クラスでいちばん成績が悪い子でした。
でも、性格は誰よりも明るく、真面目で、いつもにこにこ笑っている子でした。
困っている子がいれば、真っ先に手を差し伸べる。
そういう人でした。
クラスの誰からも、好かれていました。
その人柄が、かえってK先生の癇に障ったのだと思います。
澪さんは、無視や、嫌味や、こまごまとした嫌がらせを、いつも受けていました。
テストが返却される日は、とくにひどいものでした。
K先生は、点数の低い順に、名前を読み上げるのです。
「はい、最下位。またあなたね」
そう言って、澪さんの答案を、指先でつまむように返しました。
まるで、汚いものにでも触れるかのように。
それでも澪さんは、「ありがとうございます」と、頭を下げるのでした。
その律儀さが、私には、痛々しくて見ていられませんでした。
一度だけ、私は放課後に、澪さんに聞いたことがあります。
「どうして、言い返さないの。あんなの、ひどすぎるよ」
澪さんは、少し考えてから、こう答えました。
「言い返しても、意味がないから」
「それに、ちゃんと、別のかたちで返るから」
その「別のかたち」が何なのか、当時の私は、深く考えませんでした。
※
弓道部に入っていた澪さんに、K先生はこう言ったことがあります。
「教室が、なんだか埃くさいわね」
「澪さん、あなたの道具のせいじゃないの」
「手を洗ってきなさい。ほら、早く」
みんなの前で、そう言って追い出したこともありました。
廊下に立たされた澪さんの後ろ姿を、私は今でも覚えています。
窓の外の、灰色の空を、じっと見上げていました。
冬の廊下は、底冷えがして、澪さんの吐く息が、白く揺れていました。
ある日の、現代文の授業でのことです。
生徒に短い作文を書かせて、それを本人に朗読させる、という授業でした。
優等生の、ありふれた作文を、K先生は大げさに褒めました。
そして、澪さんの番になりました。
澪さんの作文は、亡くなったお祖母さんのことを綴った、心のこもった文章でした。
私は、隣の席で、少し涙ぐんだのを覚えています。
ところがK先生は、鼻で笑って言いました。
「こんな幼稚な文章、聞くだけ時間の無駄ね」
そう言うと、澪さんの原稿用紙を取り上げました。
そして、目の前で、びりびりと破いたのです。
破いた紙を、澪さんの机に、ばらばらと撒いて。
「書き直し。紙がもったいないわ」と、言い放ちました。
さすがに、何人かが抗議しました。
でもK先生は、何事もなかったように、授業を続けました。
授業のあと、私は友達と、澪さんを気遣いました。
けれど澪さんは、破れた原稿用紙を静かに拾いながら、こう言うだけでした。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
にこにこ笑って、そう繰り返すのです。
そのときからでしょうか。
私は、澪さんの、ある小さな癖に気づくようになりました。
K先生に何か言われるたび、澪さんは、口の中で、何かを小さく唱えるのです。
唇だけが、かすかに動く。
声は、まったく聞こえない。
何を唱えているのか、私には分かりませんでした。
ただ、澪さんが唇を動かすと、教室の空気が、ほんの少し、重くなる気がしました。
気のせいだと、自分に言い聞かせていました。
けれど、隣の席にいた私だけは、はっきりと感じていたのです。
澪さんの周りだけ、季節が違うような、ひやりとした冷たさを。
その頃から、K先生の周りで、小さな不運が続くようになりました。
大切にしていた万年筆を、なくしたり。
車のタイヤが、立て続けにパンクしたり。
階段で足を滑らせて、手首を痛めたり。
チョークを持つ手を痛めたK先生は、しばらく板書ができませんでした。
それでも、澪さんへの態度は、変わりませんでした。
むしろ、苛立ちをぶつけるように、嫌がらせは激しくなっていきました。
そのたびに、澪さんの唇は、静かに動きました。
はじめは、ただの偶然だと思っていました。
そして、澪さんの微笑みが、少しずつ、変わっていきました。
前は、困ったような、優しい笑顔でした。
けれど、いつからか、どこか遠くを見るような、静かな微笑みになっていったのです。
嫌がらせを受けても、澪さんはもう、傷ついた顔をしなくなりました。
ただ、うっすらと、微笑むだけ。
その顔が、私は少しだけ、怖くなりました。
卒業が近づいたある日、私は勇気を出して、澪さんに聞いてみました。
「澪さん、いつも何を、唱えてるの」
澪さんは、少し驚いた顔をして、それから、いつものように微笑みました。
「気づいてたんだ」
「なんでもないよ。おまじないみたいなもの」
それ以上は、教えてくれませんでした。
ただ、その日の帰り道、澪さんは、ぽつりとこう言いました。
「悪いことをする人には、ちゃんと、悪いことが返るんだよ」
「私は、その手伝いをしてるだけ」
夕暮れの通学路で、その言葉だけが、やけに冷たく響きました。
その頃、K先生が飼っていた小鳥が、突然死んだという話も、耳にしました。
朝、鳥籠を覗くと、冷たくなっていたのだそうです。
K先生は、しばらく元気がありませんでした。
けれど、その落ち込みが癒えると、また澪さんへの嫌がらせが、始まるのでした。
まるで、悪意を注げば注ぐほど、自分の身に、何かが返ってくる。
そんな見えない天秤が、そこにあるかのようでした。
※
そうして、私たちは卒業を迎えました。
卒業して一年ほど経った頃、クラス会が開かれることになりました。
会場は、駅前の、古い料理屋の二階でした。
K先生も、招かれて来ていました。
クラスの多くは、都会の有名大学に進んでいました。
K先生は、席の端から順に、一人ひとりの近況を聞いていきました。
そして、有名大学に進んだ子を、これでもかと褒めちぎりました。
澪さんは、家庭の事情で進学できず、地元で働いていました。
澪さんの番になっても、K先生は、あからさまに素通りしました。
見かねた誰かが、冗談めかして言いました。
「先生、澪さんのこと、忘れてますよ」
するとK先生は、こう言い放ったのです。
「あら、そんな子いたかしら」
「まさか、あの落ちこぼれのこと」
「進学もできない子なんて、覚えてないわ」
場が、凍りつきました。
澪さんは、下を向いて、唇を噛んでいました。
なんとか取り繕って、クラス会はお開きになりました。
けれど、あの場の空気は、最後まで元には戻りませんでした。
K先生だけが、何事もなかったように、上機嫌で酒を飲んでいました。
私は、澪さんの様子が気がかりで、何度も、その横顔を盗み見ました。
澪さんは、俯いたまま、身じろぎ一つ、しませんでした。
ただ、テーブルの下で、その両手が、固く握りしめられていたのを、私は見てしまったのです。
帰り際、私は澪さんに声をかけました。
「澪さん、大丈夫。あんな先生の言うこと、気にしないで」
澪さんは、顔を上げて、こう言いました。
「ありがとう。でも、もう大丈夫」
「もう、そろそろだから」
「そろそろって、何が」
私が聞くと、澪さんは、ただ静かに微笑みました。
「あなたも、先生の嫌がらせに、よく耐えたね」
「でも、もう大丈夫。ぜんぶ、返すから」
その言葉の意味が、そのときの私には、分かりませんでした。
私たちは、その夜、駅で別れました。
※
それから、一週間も経たないうちのことです。
K先生が、亡くなりました。
死因は、脳の血管の病気だったそうです。
発見されたときには、もう手遅れだったと聞きました。
お通夜に、澪さんの姿がありました。
線香の煙が、まっすぐに立ちのぼる、静かな夜でした。
参列した誰もが、K先生の突然の死に、言葉を失っていました。
焼香をあげる澪さんは、うっすらと、微笑んでいるように見えました。
そして、それだけでは、終わりませんでした。
K先生の一人娘さんが、母親の死のショックから、体調を崩したそうです。
そして、後を追うように、亡くなったと聞きました。
娘さんは、K先生とは離れて暮らしていたと聞きました。
母親の嫌がらせのことなど、何も知らなかったはずです。
それなのに、なぜ、その子にまで。
考えれば考えるほど、私の背筋は、冷たくなっていきました。
悪意は、放った本人だけでなく、その血のつながる者にまで及ぶのか。
そう思うと、私は、しばらく眠れませんでした。
私は、あの夜の澪さんの言葉を、思い出さずにはいられませんでした。
あのクラス会の帰り道に聞いた、静かな声を。
背筋を、冷たいものが、すっと伝いました。
偶然だと、思いたい自分がいました。
けれど、心のどこかで、そうではないと、分かってもいたのです。
「ぜんぶ、返すから」
あの、静かな声を。
※
それから、何年もの月日が流れました。
私は、地元の役所で働くようになりました。
ある日、窓口に、懐かしい顔が現れました。
澪さんでした。
あれから、もう十年近くが、経っていました。
それでも、その顔を見た瞬間、私の胸は、ざわりと騒ぎました。
澪さんは、私に気づくと、あの頃と同じ笑顔で、軽く会釈をしました。
澪さんも、隣町の役場で、公務員として働いているとのことでした。
仕事の帰り、私たちは、駅前の喫茶店で、少し話をしました。
昔話をするうちに、澪さんが、ふと、こう切り出しました。
窓の外は、いつの間にか、雨が降り出していました。
店内には、私たちのほかに、客はいませんでした。
古いレコードの音楽が、低く流れていました。
「こんなこと言ったら、引かれるかもしれないけど」
「あなたには、教えてあげる」
そして、澪さんは、静かに言いました。
「私ね、向けられた悪意を、そっくりそのまま、相手に返せるみたいなの」
私は、言葉を失いました。
澪さんの話では、こうでした。
向けられた悪意を、澪さんは、まるで水を溜めるように、体の中に溜め込めるのだそうです。
そして、望んだときに、それを相手へ、そっくり返すことができる。
軽い嫌がらせを、その場ですぐ返せば、相手には、ちょっとした不運が返っていく。
万年筆の紛失も、パンクも、手首の怪我も、そうだったのかと、私はようやく腑に落ちました。
軽い嫌がらせなら、相手には、死なない程度の災いが返っていく。
けれど澪さんは、あの二年間ずっと、K先生の悪意を、溜め込んでいたのだそうです。
そして、卒業のあの日。
溜め込んだすべてを、「一気に、返っていけ」と、念じたのだそうです。
「まさか、亡くなるとは思わなかったけどね」
「娘さんにまで、返っていくとも、思わなかった」
そう言って、澪さんは、また、うっすらと微笑みました。
湯気の立つコーヒーの向こうで、その微笑みだけが、昔と同じでした。
店の時計の、秒針の音だけが、やけに大きく聞こえました。
私は、何と答えればいいのか、分かりませんでした。
怖い、とも言えず。
そう、と相槌を打つことも、できませんでした。
ただ、澪さんが、あの二年間、どれほどの悪意を、たった一人で受け止めていたのかを思うと、
それを責める気持ちには、どうしても、なれなかったのです。
私は、冷めていくカップを、握りしめることしかできませんでした。
別れ際、澪さんは、こう言いました。
伝票を手に立ち上がった澪さんの手首に、私は、ふと目を留めました。
そこには、細い数珠のようなものが、巻かれていました。
「これ」と私が視線を向けると、澪さんは、静かに笑いました。
「もう、溜め込まないようにね。お守りみたいなもの」
「だからね、人の嫌がることは、絶対にしちゃだめ」
「返ってくるから。いつか、必ず」
あれから、私は、自分の子どもたちにも、そう教えています。
人の嫌がることは、絶対にしてはいけない、と。
ただ、一つだけ、今も気になっていることがあります。
喫茶店を出るとき、澪さんは、私にこう言い添えたのです。
「あなたは、優しいから、大丈夫」
そう言って、澪さんは、傘もささずに、雨の中へ歩いていきました。
その後ろ姿は、高校の頃と、少しも変わっていませんでした。
けれど、私はもう、あの微笑みの奥にあるものを、知ってしまいました。
では、優しくない人は、どうなるのでしょう。
その答えを、私はまだ、知りません。
そして、知らないままで、いたいと思っています。
ただ、これだけは、はっきりと言えます。
人に向けた悪意は、消えてなくなりはしません。
それは、どこかに静かに溜まって、いつか、放った本人のもとへ帰っていく。
澪さんは、その道理を、目に見えるかたちにできる人だっただけなのだと、私は思います。
だから私は、今日も自分に言い聞かせています。
誰かの心を、軽んじてはいけない。
その一つひとつが、いつか、自分に返ってくるのだから。