
大学に入学し、少しずつ友人ができ始めたある日のことだった。
夜の九時過ぎ、仲良くなった友人Aから電話がかかってきた。
「今、うちにBとCも来てるんだ。暇なら来ないか?」
Aの住んでいるアパートは、俺の自宅から大学を挟んでちょうど反対側に位置していた。
電車を乗り継いでいかなければならず、距離も時間もそれなりにかかる。
正直、少し面倒に感じた。
けれど、土曜の夜で特に予定もなく、退屈していた俺は、結局Aのアパートへ行くことにした。
※
電車を乗り継ぐために、あるホームで電車を待っていた時のことだ。
ふと周囲を見渡すと、乗客がやけに少ないことに気づいた。
「土曜の夜って、こんなに人が少なかったっけ?」と疑問に思ったが、特に気に留めることもなく、やってきた電車に乗り込んだ。
車内も驚くほど空いていた。
酔っ払いの男女二人が座席に寄りかかって話しているだけで、ほかには誰もいなかった。
俺はそのまま適当な席に座り、携帯をいじって時間を潰していた。
すると次の駅で、その酔っ払いの二人が降りていった。
代わりに乗ってきたのは、俺と同じくらいの年齢の女の子だった。
彼女は俺の向かいの席に静かに腰を下ろした。
最初はあまり気にしていなかったが、ふと顔を上げた瞬間、目が止まった。
……とんでもなく可愛い。
黒髪のセミロングで、落ち着いた雰囲気。
一言でいえば、俺のど真ん中ストライクのタイプだった。
※
女の子と会話をしたことがないわけではない。
けれど、当時の俺は「彼女いない歴=年齢」で、こんなシチュエーションに慣れているはずもない。
内心ドキドキしながらも、どうせ出会いなんてものはドラマの中だけの話だろう、と自分に言い聞かせる。
だが気がつくと、無意識のうちに彼女のことを見つめてしまっていた。
最悪なことに、そのタイミングで彼女と目が合ってしまった。
「やばい、キモいやつだと思われた……!」
俺は慌てて目をそらし、何事もなかったように窓の外を眺めるふりをした。
心臓はバクバク鳴っていた。
目的地の駅までは、まだ5駅もある。
このまま何事もなく過ぎてくれと願っていた、その時だった。
ふいに、クスクスと笑い声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、彼女がこちらを見て笑っていた。
しかも、楽しそうにこう言ってきたのだ。
「なんですかぁ?」
※
頭が真っ白になった。
漫画やドラマでもそうそう見ないような展開に、テンパらないはずがなかった。
けれど、表面上は何とか冷静を装って
「いや……外を見てただけだけど」
と返すと、彼女は笑いながら、さらりとこう言った。
「私のこと見てたよねー」
そのまま、すっと俺の隣に座ってきた。
「……え?」
何が起きているのかわからない。
でも――嬉しかった。心の奥で、叫びたくなるほど嬉しかった。
観念した俺は、正直に告白した。
「……ごめん。見てました」
それを聞いた彼女は、またクスクスと笑った。
それからの15分間、俺たちはいろんな話をした。
名前はアケミちゃんというらしい。
学部は違うが、同じ大学に通っているとのことだった。
声も表情も、可愛くて柔らかかった。
けれど――後から思い返せば、この時のアケミちゃんの言動には、いくつもの「違和感」があった。
※
例えば――
最近話題になった出来事について詳しく話していたかと思えば、突然、何年も前の話を始めたり。
時事ネタには妙に詳しいのに、「この前の地震、怖かったよね」と言ってみると、まるでピンときていないような表情を見せたり。
会話の途中で、同じ話を繰り返したかと思えば、いきなり無表情で黙り込んだり。
……当時の俺は、そんな不自然さにも気づかず、ただ可愛い子と話せる喜びに浮かれていた。
だが、そんな俺にも、ひとつだけ気になることがあった。
アケミちゃんと話している間、どこからともなく
「カチ……カチ……」
と、軽くて硬いプラスチックのような音が断続的に聞こえていたのだ。
車内を見回してみたが、特に音の出所は見当たらない。
アケミちゃんが「どうしたの?」と尋ねてきたが、特に深く考えていなかった俺は
「いや、なんでもない」
と答え、そのまま会話を続けた。
その「音」の意味を、俺が本当に理解するのは、もう少し先のことだった――。
※
アケミちゃんとの会話を続けているうちに、電車は目的地のひとつ手前の駅へと近づいていた。
そのとき、不意にアケミちゃんのバッグの中から携帯の着信音が鳴った。
彼女はバッグを開け、中から携帯を取り出そうとした。
その瞬間だった。
俺の視界に、バッグの中の“異様な物”が映った。
――ボロボロに錆びついた、中華包丁。
しかも、一本ではない。二本。
明らかに、普通の女子大生が持ち歩くような代物ではなかった。
あまりの衝撃に、俺は思考が一瞬止まった。
「なぜ、そんなものを……」
というか、どうして電車の中で平然とそんな凶器を持ち歩いていられるんだ?
目を疑いたくなる光景だった。
アケミちゃんはすぐにバッグを閉じたが、あれは絶対に見間違いではない。
それと同時に、先ほどから聞こえていた「カチ、カチ」という音――
その正体が、どこか遠くにあるのではなく、今まさに“隣に座っている彼女”から発されていたことに、ようやく気がついた。
※
ようやく、俺の中の警戒心が現実を直視し始めていた。
「そもそも……こんな可愛い子が、目が合ったってだけで声をかけてくるなんて、あり得るか?」
「会話していても、なにかおかしい。言動にちぐはぐな部分が多すぎる」
「そして……あの中華包丁」
すべてが繋がったわけではないが、“このまま関わってはいけない”という確信が、強く芽生え始めていた。
そう思った俺は、目的地の駅で降りるのを避けることにした。
ただ、電車が停車した瞬間に降りると、アケミちゃんも一緒に降りてきてしまうかもしれない。
だから俺は、電車のドアが閉まるギリギリのタイミングで降りるという“逃げ”の一手を選んだ。
※
電車が次の駅に到着し、扉が開く。
アケミちゃんは電話をしているふりをしながら、ちらちらと俺の方を見ている。
背筋に冷たいものを感じながらも、俺は精一杯愛想笑いを浮かべ、タイミングをうかがった。
発車ベルが鳴ったその瞬間――
「ごめん、ここで降りるわ」
俺はそれだけ言い残し、ドアが閉まる寸前に車外へ飛び出した。
アケミちゃんは反応する間もなく、そのまま電車は出発していった。
ようやく、ひとまず“難”を逃れた。
※
ホームに一人残された俺は、大きく深呼吸をした。
今の出来事が現実なのかすら疑わしい。
けれど、あの錆びた包丁と、異様なまでの距離感の近さ、あの“音”。
すべては現実だ。
とにかく、Aのアパートに向かおう。
だが、ここからAの家まではまだかなり距離がある。
地元ではない俺にとって、道順もわからない。
また電車に乗れば、次の駅でアケミちゃんが待ち伏せしている可能性もある。
それは最悪の事態だ。
俺は迷わず、Aに電話して住所を聞き、タクシーで向かうことにした。
多少金がかかっても、命には代えられない。
※
Aのアパートに到着すると、BとCがリビングでゲームをしていた。
俺は息を切らせながら玄関に飛び込むなり、大袈裟にこう言った。
「おい、やべぇのに会った! なんか……マジで都会こえぇよ!」
BもCも、「は? 何言ってんだよ(笑)」と笑いながら聞いてくれなかった。
俺は、さっき電車の中で起こった出来事を、一気にまくし立てて説明した。
途中まで冗談っぽく聞いていた3人も、俺の本気の表情に、少しずつ空気を変え始めた。
その時――
「ピンポーン」
チャイムの音が鳴った。
※
時間は、夜の11時を回っていた。
こんな時間に来客などあるはずもない。
Bが冗談めかして口にした。
「……アケミちゃん、じゃないよな?」
その場にいた全員が、一瞬にして凍りついた。
俺は顔面蒼白だった。
Aが「まさか……マジか?」と呟きながら、足音を忍ばせて玄関へと向かった。
そして、ドアスコープを覗き、戻ってきたAがこう言った。
「……すげー可愛い子が、ニコニコしながらドアの前に立ってる」
チャイムは、今も鳴り続けていた。
※
Aの言葉に、その場の空気が一変した。
「……すげー可愛い子が、ニコニコしながらドアの前に立ってる」
誰もが、まさか、とは思いながらも「それは絶対アケミちゃんだ」と直感していた。
ピンポーン、ピンポーン――
チャイムの音は、むしろ先ほどよりもリズミカルに、楽しげに鳴り続けている。
まるで「開けてよ、ねえ開けてよ」とでも言っているようだった。
※
「おい、ふざけんなよ……どこまでつけてきたんだよ、あいつ」
俺はもう、背中から冷や汗が止まらなかった。
AもBもCも、最初は半信半疑だったはずなのに、今は全員が固唾を飲んで、ドアの向こうを警戒していた。
「絶対開けんなよ」と念を押す俺に、Aは無言で頷いた。
アパートの小さな一室は、チャイムの音だけが響いていた。
だがそのとき、不意に“カチ、カチ”という音が、ドアの向こうから聞こえてきた。
――あの音。
電車の中で、確かにアケミちゃんが発していた、包丁がぶつかり合うようなあの音だ。
全員が一斉に顔を見合わせた。
誰かが冗談だと言ってくれないかと、願うような沈黙が続いた。
※
5分ほど経った頃、ようやくチャイムが鳴り止んだ。
誰も動かない。誰も声を出せない。
Aが再びそっとドアスコープを覗きに行き、数十秒して戻ってきた。
「いない……もう、いなくなってる」
だがその言葉が、安心をもたらすものではなかった。
「いない」ということは、今どこにいるのか誰にも分からない、ということだった。
※
その晩、俺たちは誰一人眠れなかった。
電気をつけたまま、カーテンも閉めず、ただじっと朝が来るのを待っていた。
誰かが外を見張って、誰かが廊下の物音に耳を澄ませていた。
アケミちゃんがどこまで俺を追ってきていたのか、なぜアパートの場所が分かったのか。
何より――あの包丁を、なぜ持っていたのか。
疑問は尽きなかった。
※
次の日、俺は最終的に警察へ相談に行くことにした。
交番で事情を説明すると、若い警察官は最初こそ苦笑いだったが、
「凶器のようなものを持っていた」という言葉に真顔になった。
しかし、残念ながら被害は何も起きていない以上、こちらからできることは限られているという。
ただ、「なるべく人目の多い場所にいるように」と忠告された。
それだけだった。
俺は少し落胆しつつも、警察に相談したことで、わずかながら気持ちが落ち着いた。
※
その日の午後、俺は地元に帰るために電車に乗った。
まだ警戒はしていたが、昨日の一件以来、アケミちゃんの姿は見ていない。
静かな車内で、ようやく少しだけ眠気が戻ってきた。
が、目を閉じようとしたそのとき、俺の携帯が震えた。
画面を見ると、知らない番号からの着信。
胸がざわついた。
出るかどうか一瞬迷ったが、結局通話ボタンを押した。
「……あの、昨日はごめんなさい」
女の声だった。
アケミちゃんだった。
※
電話越しに聞こえてきたのは、あの、透き通るような声だった。
「……あの、昨日はごめんなさい」
一瞬で、全身の血が逆流したような感覚に襲われた。
間違いない。アケミちゃんの声だ。
俺は言葉が出ず、ただ沈黙していた。
向こうも、すぐには何も言わなかった。
不自然な間が続く。
※
「……あのね、あなたに謝らなきゃと思って」
「……どうして俺のことを……?」
俺は、ようやく絞り出すようにそう尋ねた。
すると彼女は、小さな声でこう言った。
「会った瞬間、分かったの。あなたが、“あの人”に似てるって」
“あの人”?
「……あの人って?」
「昔、私が……殺された相手」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが壊れた。
頭の奥が一気に冷えていくような、重たい沈黙。
その声は、まるで昔のことを懐かしむように、しかし確かに憎しみを帯びていた。
※
「嘘……だろ?」
震える声でそう呟くと、彼女はふっと笑ったように続けた。
「私ね、あなたのせいで――まだ、ここにいるの」
まるで、この世に“囚われている”とでも言うように。
背後でAたちが不安そうにこちらを見ている。
俺は混乱のまま通話を切った。
※
だが、それからだった。
俺のまわりで、“奇妙な出来事”が次々と起こり始めた。
部屋の電気が夜中に勝手についたり消えたりする。
誰もいないはずの玄関で、たびたび足音がする。
AもBも、「気配」を感じるようになったと言い出した。
気がつくと、皆がアケミちゃんの“呪縛”のなかにいるような、そんな錯覚に囚われていた。
※
ある日、Cが突然、深夜に「外に誰かいる」と言い出した。
全員が息を殺し、ベランダ越しに外を覗く。
すると、街灯の下――アケミちゃんが、あの時と同じ姿で立っていた。
しかもこちらを見上げて、確かに、微笑んでいた。
動けなかった。声も出なかった。
だが次の瞬間、その姿が“スッ”と消えた。
誰もが、「見間違いじゃない」と確信していた。
それはもう、ただのストーカーや偶然などでは、説明がつかないものだった。
※
Aが呟いた。
「……あれってさ、ほんとに“生きてる人間”なのか?」
BもCも、うなずきながらも口を閉ざした。
この恐怖に、言葉はもう通用しないと感じていた。
俺はふと、昔読んだ“地縛霊”や“浮遊霊”という言葉を思い出していた。
彼女は本当に“生きた人間”なのか? それとも――
※
その夜、俺はひとり決意した。
このままではダメだ。
次にまたアケミちゃんが現れたら、逃げずに“話をする”と。
なぜ俺を追うのか、なぜ現れるのか、何を訴えたいのか――
それを知ることだけが、俺たちが解放される唯一の道だと感じていた。
※
それから数日、俺たちは部屋に籠もるようになった。
窓はすべてカーテンで覆い、外の気配を感じないようにしていたが、それでも誰かに“見られている”ような気がしてならなかった。
※
その晩、俺は夢の中で、再び“アケミちゃん”と出会った。
白い服に、濡れたような長い黒髪。
彼女は何も言わず、ただ真っ直ぐ俺を見つめていた。
その目には、怒りでも悲しみでもない、もっと深い“孤独”があった。
俺は震える声で問いかけた。
「……どうして俺を、追うんだ」
すると彼女は、口を開いた。
「私は、あなたじゃなくて――“あの時の彼”に、話をしたかったの」
「……でも、もう届かないから」
「だから、似ているあなたに、私のことを知ってほしかったの」
彼女の声は、まるで深い井戸の底から響いてくるようだった。
※
目を覚ますと、朝だった。
あれが夢だったのか現実だったのか、判然としない。
ただ一つ、確かなのは、俺の中で“彼女を知りたい”という想いが芽生えていたことだった。
※
その日、俺はひとりであの廃屋に向かった。
アケミちゃんと初めて出会った、あの廃墟――
あのときは気づかなかったが、よく見ると、庭の一角に朽ちた祠のようなものがあった。
中を覗くと、白黒の写真が一枚。
そこには、微笑む少女の姿が写っていた。
まさに、あの“アケミちゃん”の面影だった。
そして写真の下には、手書きの小さな紙が添えられていた。
《昭和四十七年 ○月○日 享年十四歳》
胸が締めつけられた。
※
「本当に……幽霊だったんだ」
目の前がゆらぐ。
まるで、彼女の存在が今この場所に“染み込んでいる”かのようだった。
俺は手を合わせ、静かに祈った。
「アケミちゃん……ごめん」
「君のこと、何も知らずに――怖がってばかりで」
「……でも、ちゃんと覚えている。君のことを」
そう呟いたとき、不思議なことが起こった。
吹いてもいなかった風が、祠のまわりだけふわりと流れた。
その瞬間、俺の心のなかに、あの夢で見た“深い孤独”が静かに溶けていくのを感じた。
まるで、彼女が“許してくれた”ような気がした。
※
それから、アケミちゃんの姿はぱったりと現れなくなった。
俺たちの部屋にも、不思議な気配は一切消えていた。
あれは夢だったのか、現実だったのか。
ただ、確かなのは――
俺のなかで、彼女の存在は今も深く、静かに生き続けている。
※
あの祠で手を合わせて以来、アケミちゃんの姿を見ることはなくなった。
部屋に満ちていた重苦しい気配も、まるで潮が引くように消えていった。
ただ一つ、残されたものがあった。
あの時、祠の中に置かれていた少女の写真――
あれを見てから、なぜか俺は、あの顔に見覚えがある気がしてならなかった。
ずっと思い出せなかった。
でも、ある日ふと、昔のアルバムを開いていたとき――
祖父母の古い家で撮られた集合写真の中に、あの顔を見つけた。
そこには若かりし日の祖母、そして隣に写る、笑顔の少女。
それが、アケミちゃんだった。
※
俺はすぐに母に写真を見せ、訊ねた。
「この子、誰かわかる?」
母はしばらく写真を見つめ、そして静かに語り出した。
「……この子ね、アケミちゃん。おばあちゃんの妹だったのよ」
「小さい頃に、事故で亡くなったって聞いたわ」
「おばあちゃん、ずっと後悔してたの。“あの時、手を離さなければ”って」
俺の背中を冷たいものが流れた。
あの少女は、血のつながった親族――
俺に似ている“彼”とは、もしかすると若き日の祖父だったのかもしれない。
いや、それとも――
※
いくつかの偶然、いくつかの縁が重なって、“彼女”は俺の前に現れたのかもしれない。
何十年という時を越えて、ようやく誰かに“覚えていてほしい”と願って。
ようやく誰かに、声をかけてほしかったのかもしれない。
俺は写真を丁寧に額に入れて、机の上に飾った。
そして、そっと語りかける。
「アケミちゃん、君のこと、忘れないよ」
「誰も覚えていなくても、俺がちゃんと覚えている」
「だから、もう――安心して、休んでいいよ」
その夜、ふとした夢の中で、アケミちゃんが立っていた。
白いワンピース姿のまま、やわらかく微笑んでいた。
何も言わず、静かに一度だけ頷いて――
やがて霧のように、溶けていった。
それが、彼女を見た最後だった。
※
人は、死んでも本当に消えてしまうわけじゃない。
誰かがその存在を覚えているかぎり――
想いは、どこかに、きっと残り続ける。
アケミちゃん。
どうか、どうか、安らかに。