
祖母の家の押し入れから、風呂敷包みが出てきました。
中に入っていたのは、祖母の帳面が六冊です。
日付は、どれも日曜日だけでした。
私は十年以上、その祖母と毎週日曜の朝に神社へ行っていました。
帳面には、その日の祈りが書いてありました。
書いてあることを、私はいまも誰にも話していません。
祖母の帳面のことを知っているのは、私だけです。
母にも、夫にも言っていません。
言えば、たぶん笑われます。
笑われることが怖いのではありません。
笑われて、それで終わりになるのが困るのです。
父方の祖母でした。
父は、私が三つのときに事故で帰らぬ人になりました。
祖父はもっと早くに逝っていたそうです。
だから祖母は、私のことを唯一の血縁だと言いました。
その言い方を、母は嫌っていました。
母が祖母の家に上がったことは、一度もありません。
玄関先で私を降ろして、車の中で待っている。
迎えも同じでした。
祖母の家は、木造の平屋でした。
玄関を入ると、土間の奥に台所があります。
台所の窓は、いつも十センチだけ開いていました。
「閉めると、こもるから」
そう言っていました。
冬でも、その十センチは閉まりませんでした。
子どもの頃は、それを大人の事情だと思っていました。
祖母は、私を「みっちゃん」と呼びました。
手が乾いていて、指の関節が少し膨らんでいました。
握られると、少し痛いくらいの力でした。
それでも、私はその手が好きでした。
父の記憶は、ほとんどありません。
写真も、祖母の家には一枚もありませんでした。
仏壇にあったのは、名前を書いた札だけです。
母の家にも、父の写真はありませんでした。
どちらの家にもないというのが、子どもには不思議でした。
一度だけ、母に父の顔を聞いたことがあります。
「忘れた」
それだけでした。
忘れた、という言い方も、あとから考えると妙でした。
日曜の手水舎
神社は、家から歩いて十二分のところにありました。
石段が四十段あって、祖母は数えながら上がります。
雨の日も、雪の日も、休んだことはありません。
父がいなくなった年から、ずっとだそうです。
石段の脇には、椿が植わっていました。
冬になると、花が丸ごと落ちます。
落ちた花は、掃かれずにそのままでした。
祖母は、その上を避けて歩きました。
踏むと縁起が悪いのだと、一度だけ言いました。
椿の落ち方は、確かに他の花と違います。
花びらが散らずに、丸いまま落ちるのです。
石段の途中に、赤いものがいくつも転がっている。
祖母は、それを見ないようにして上がりました。
手水舎で、祖母は必ず左手から清めました。
そのあと右手、それから口。
最後にもう一度、左手だけを洗い直します。
「ばあちゃん、なんで左だけ二回なの」
「そういう決まりなの」
決まり、という言い方をよくする人でした。
祖母は、拝殿の右端にしか立ちませんでした。
真ん中が空いていても、右端です。
「なんでいつも端なの」
「真ん中は、通り道だから」
誰の通り道なのかは、聞きませんでした。
聞いてはいけない気がしたのです。
拝殿の前では、祖母はとても長く祈りました。
二拝して、二度手を打って、それから頭を下げる。
下げたまま、動かなくなります。
私は数を数えて待ちました。
いちばん長いときで、四百まで数えました。
数えているあいだ、私は退屈で、境内をよく見ていました。
社殿の裏に、古い井戸の跡があります。
石の蓋がしてあって、上に小さな石が三つ載っていました。
数はいつも三つでした。
一度、二つになっていた朝があります。
その日は、祖母の祈りがいつもより短く終わりました。
祈り終わると、祖母はゆっくり顔を上げます。
そのときの表情だけ、少し知らない人に見えました。
「何をお祈りしてたの」
毎回、私は聞きました。
祖母は毎回、にっこり笑うだけでした。
一度も、答えてもらえませんでした。
帰り道に、必ずアイスを買ってくれます。
私はそれが楽しみで、答えのない質問をやめませんでした。
鳥居を出るとき、祖母は必ず一度だけ振り返りました。
そして、小さく頭を下げる。
「戻るときも挨拶するの」
「うん」
「じゃあ私も」
そう言って一緒に振り返ろうとすると、祖母は私の肩を押さえました。
「みっちゃんは、いいの」
その手の強さだけ、いつもと違いました。
帰りのアイスは、いつも同じ店で買いました。
祖母は自分の分を買いません。
「甘いものは、もういいの」
そう言って、私が食べ終わるまでベンチに座っています。
食べ終わると、また私の右手を握って歩き出しました。
布団の足元の重み
私は、幼い頃から夜がだめでした。
金縛りは、ほとんど毎晩です。
体が動かなくなって、足元のほうが重くなる。
布団の上に、誰かが座っているような重みでした。
起きられるようになると、重みは消えています。
母に言っても、成長期のものだと言われました。
病院にも二度かかりました。
検査では、どこにも悪いところはありませんでした。
眠るための薬を出されて、それを飲んだ夜がいちばんひどかったです。
動けないのに、意識だけがはっきりしている。
足元の重みが、膝のあたりまで上がってきました。
小学校の高学年になると、布団の中で腕を触られるようになりました。
指の腹でなぞるような触り方です。
中学に入ってからは、腹のあたりを細いもので押されるようになりました。
針の先ほどの太さで、すこしずつ強くなります。
痛いというより、確かめられているようでした。
押される場所は、毎回同じでした。
へその少し右上です。
朝に見ても、痕は何もありません。
ただ、その場所だけ服が当たると気になりました。
中学の制服のスカートを、私はいつも少し下げて履いていました。
眠れないので、学校では机に伏せていました。
そのうち、朝に起きられなくなりました。
中学二年の秋から、私は学校へ行かなくなりました。
食事が喉を通らない時期と、逆に止まらない時期がありました。
体重が何度も上下して、そのたびに母が舌打ちをしました。
母は、私の顔をあまり見ない人でした。
話すときも、台所の流しのほうを向いています。
一度だけ、正面から言われたことがあります。
「あの家に、行くのをやめなさい」
理由は言いませんでした。
私は、行くのをやめませんでした。
母は仕事で帰りが遅く、家ではほとんど話をしません。
祖母だけが、平日の昼に来てくれました。
来ると、私の右手を握って、隣に座っています。
その間だけ、足元は重くなりませんでした。
「ばあちゃんがいると、来ないんだよ」
「そう」
「なんでだろうね」
「さあね」
祖母は、私の手を握り直しました。
握るのは、いつも右手でした。
左手を握られたことは、一度もありません。
そのことに気づいたのは、ずっとあとです。
祖母は、平日は必ず二時に来ました。
来ると、まず台所の窓を十センチだけ開けます。
私の家の窓なのに、自分の家と同じようにしました。
そして、布団の足元のほうに座ります。
足元に座られると、重みが来ない。
私はそのことに、ずいぶん助けられていました。
中学三年の夏には、日曜の神社にも行けなくなりました。
石段を上がる体力が残っていませんでした。
祖母は、それでも一人で行っていたそうです。
近所の人が、そう教えてくれました。
「おばあちゃん、この頃は二時間くらい拝んでるよ」
私は、自分のために祈ってくれているのだと思いました。
近所の人は、こうも言っていました。
「帰りにね、鳥居のとこで何度も振り返るのよ」
「昔からああなの」
私は、年を取ると癖が強くなるのだろうと思いました。
その頃の私は、もう自分の足元のことしか考えられませんでした。
風呂敷の中の帳面
中学を卒業してすぐの春に、祖母は逝きました。
朝、布団の中で冷たくなっていたそうです。
苦しんだ様子はなかったと、母が言いました。
言い方は、事務的でした。
通夜の席で、母は一度も泣きませんでした。
親戚の人が、母に何か言いかけて、やめました。
その場の空気を、私はいまでも覚えています。
祖母の家の親戚は、誰も私に話しかけませんでした。
挨拶はします。
それだけでした。
私は祖母の部屋に入り込んで、しばらく出ませんでした。
祖母の上着を抱えて、匂いを嗅いでいました。
線香と、防虫剤と、少しだけ汗の匂いがしました。
部屋の隅に、日曜だけ使う手提げがありました。
中身は、財布と、小さな手ぬぐいと、鉛筆が一本。
鉛筆は、短くなっていました。
削り方が几帳面で、芯の先が針のようでした。
その鉛筆を、私はしばらく筆箱に入れて持ち歩きました。
それから二週間ほど経った頃です。
足元の重みが、来なくなりました。
最初は、疲れて気づかないだけだと思いました。
一週間、来ませんでした。
二週間、来ませんでした。
腕をなぞられることも、腹を押されることもなくなりました。
夜が静かになって、最初に困ったのは食事でした。
体が急に楽になると、今度は落ち着かないのです。
何かが来る前の、あの張り詰めた感じがない。
ない、ということが不安でした。
人は、ひどいものにも慣れるのだと思います。
友だちの一人に、そのことを話しました。
「おばあちゃんが、全部持って行ってくれたんだよ」
そう言われて、私は電話口で泣きました。
一年経つ頃には、夜が普通になりました。
通信制の高校に入り、体重も戻りました。
バイトを始めて、友だちも増えました。
祖母の家が引き払われることになったのは、その次の春です。
私は荷物の整理に行きました。
もう落ち着いていて、墓参りも毎週行っていました。
押し入れの上の段に、古い風呂敷包みがありました。
結び目が固くて、爪を立てて解きました。
風呂敷は、藤色の木綿でした。
包みの上に、封筒が一つ載っていました。
中身は空で、宛名も何も書かれていません。
封はされていました。
糊の部分だけが、新しい感じがしました。
中に入っていたのが、祖母の帳面です。
表紙に年が書いてあって、いちばん古いのは父がいなくなった年でした。
私は畳に座って、一冊目を開きました。
紙は、罫の入っていない大学ノートです。
表紙の内側に、鉛筆で数字が書いてありました。
一冊目は「一」。
六冊目は「六」。
番号を振る人だったのだと、そのとき思いました。
祖母の帳面の余白
最初の頁は、父のことでした。
事故だと聞かされていたことが、そうではないと書かれていました。
父は、ある朝に家を出たまま戻らなかったのだと、祖母の字で書いてありました。
出て行った理由も書いてありました。
母に、別の人がいたこと。
その人との間に、子どもができていたこと。
私は、そこで手が止まりました。
自分の生まれた年を、何度も数え直しました。
数え直しても、合わないのです。
父が家を出た日と、私が生まれた日。
その間が、どうしても足りません。
足りないことに、私は十六年気づきませんでした。
誰も教えないことは、自分では数えないのです。
次の頁をめくりました。
そこから先は、全部、同じことでした。
『あの子が、うちの子ではないこと』
『あの人の血ではないこと』
『それなのに、この家の墓に入ること』
端から端まで、隙間なく書いてありました。
一頁に一回の日曜。
六冊分の日曜です。
祖母の帳面は、どの冊も同じ書き方で始まっていました。
日付、天気、石段の段数。
四十段と書いてある週と、三十九段と書いてある週があります。
数え間違いなのか、そうでないのかは分かりません。
そのあとに、祈りの文が続きます。
文の終わりは、いつも同じでした。
『どうか、連れて行ってください』
『この家から、消してください』
私が隣で数を数えていた、あの四百の間です。
祖母は、それを祈っていました。
アイスを買ってくれる前の、あの長い時間です。
手水で左手を二度洗う理由も、その帳面に書いてありました。
右手は、私と繋ぐ手。
左手は、頼みごとをする手。
分けているのだ、と書いてありました。
握られたことのない左手の意味を、私はそこで知りました。
三つ数えてから答える集落の話のように、決まりごとには理由があります。
祖母の決まりも、全部に理由がありました。
そして、余白がありました。
どの頁の右下にも、正の字が書かれています。
数はまちまちで、多い週で八本、少ない週で一本。
何の数かは、どこにも書かれていません。
私は五冊目まで見て、気づきました。
正の字の横に、小さく時刻が書いてある頁もありました。
午前十時十二分。
午前十時十四分。
私たちが鳥居を出る時刻です。
祖母は、その二分ほどの間に何度も振り返っていたことになります。
正の字の画数が多い週は、私の夜がひどかった週でした。
帳面の余白には、鳥居を出るときに振り返った回数が記されていたのです。
振り返った数だけ、何かが後ろについてきたのだと思います。
祖母はそれを数えて、家まで連れて帰っていました。
私の右手を握ったまま。
減らない置き薬の包みのように、数の合わないものが家にはあります。
うちの場合は、正の字でした。
六冊の祖母の帳面に記された正の字を、私は一度だけ全部足しました。
合計は、四百を少し超えていました。
私が境内で数えた、あの数と近いのです。
偶然だと思うことにしています。
帳面は、燃やしました。
庭の隅で、六冊とも。
燃やす前に、最後の一冊の最後の頁だけ見ました。
煙が、思ったより白くなりませんでした。
灰が軽くて、風もないのに横へ流れていきます。
流れた先は、いつも同じ方向でした。
神社のある方角です。
そこには、日付だけが書いてありました。
祖母が逝ったあとの日付です。
書けるはずのない日付が、几帳面な字で並んでいました。
最後の頁の日付は、今度の日曜でした。
その下に、一行だけありました。
『まだ、来ていません』
私はいま三十四で、結婚もしています。
夜は、静かなままです。
足元が重くなることも、ありません。
ただ、日曜の朝だけは、少し早く目が覚めます。
目が覚めて、しばらく足元を見てから起きます。
何もありません。
何もないことを、毎週確かめています。