リゾートバイト(中編)

女性

次の日、殆ど誰も口を利かないまま朝を迎えた。沈黙の中、急に携帯のアラームが鳴った。いつも俺達が起きる時間だった。

覚の体がビクッとなり、相当怯えているのが窺えた。覚は根が凄く優しいやつだから、前の晩、俺に言ったんだ。

「ごめんな。俺なんかより修の方が全然怖い思いしたよな。それなのに俺がこんなんでごめん。助けに行かなくて本当ごめん」

その時は本当に嬉しくて目頭が熱くなったけど、でもなぜか俺は覚のその言葉に引っかかるものを感じた。

覚は俺達が立てる音の一つ一つに反応したり、俺の足の傷を食い入るようにじっと見つめたり、明らかに様子がおかしかった。

樹も普段と違う覚を見て、多少ビビリながらも心配したのだろう。

「おい、大丈夫か? 寝てないから頭おかしくなってんのか?」

と軽口を叩きながら覚の肩を掴んだ。すると覚は急に、

「うるさいっ!」

と叫び、樹の腕を凄い勢いで振り払った。

樹と俺は一瞬沈黙した。

俺「おい、どうしたんだよ?」

樹は急の出来事に驚き、声を出せずにいた。

「大丈夫かだって? 大丈夫なわけねーだろ? 俺も修も死ぬような思いしてんだよ。何にもわかってねーくせに心配したふりすんな!」

樹を睨み付けながらそう叫んだ。

何を言っているんだろうと思った。覚の死ぬ思いって何だ? 俺の話を聞いて恐怖していた訳じゃないのか?

樹と覚は仲間内でも特に仲が良かったのだが、その関係も樹が覚をいじる感じで、どんな悪ふざけにも覚は怒らず調子を合わせていた。

だから覚が樹に声を荒げる場面など見たことがなかったし、もちろん当の本人もそんな経験はなかったと思う。樹はこれも見たことないくらいに動揺していた。

俺は疑問に思ったことを覚に問いかけた。

「死ぬ思いってなんだ? お前ずっと下にいたろ?」

「いたよ。ずっと下から見てた」

そして少し黙ってから下を向いて言った。

「今も見てる」

今も? 何を? 俺は訳が解らない。全然解らないのだが、よくある話で覚の気が狂ったのだと思った。何かに取り憑かれたんだと。

そんな思いを他所に、覚は震える口調で、でもしっかりと喋り始めた。

「あの時、俺は下にいたけど、でもずっと見てたんだ」

「階段を昇って行く俺だよな?」

「違うんだ…。いや、初めはそうだったんだけど。修が階段を昇り切ったくらいから、見え出したんだ」

「…何が」

本当はこの時、俺の心の中は聞きたくないという気持ちが大半を占めていた。でも覚は、もうこれ以上一人で抱えきれないという表情だった。

昨晩、俺の話を最後までちゃんと聞いてくれた樹と覚。あれで自分がどれだけ救われたかを考えると、俺には聞かなくてはならない義務があるように思えた。

「何が、見えたんだ?」

覚はまた少し黙り込み、覚悟したように言った。

「影…だと思う」

「影?」

「うん。初めは修の影だと思っていたんだ。お前の周りを…動き回る影が…3つ…いや4つくらい見えた」

全身にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。どうかこれが覚の冗談であってくれと思った。しかし、今目の前にいる覚はとてもじゃないが冗談を言っているように見えなかった。

「あそこには、俺しかいなかった」

「わかってる」

「そもそも、あの場所に人が4、5人も入って動き回れるはずない」

あの階段は人が一人通れるほどの幅しかなかった。

「わかってる。あれは人じゃない。それに、どう考えても人じゃ無理だ」

覚はぽつりと言った。

「どういうこと?」

「壁に張りついてた。蜘蛛みたいに。壁とか天井に張りついてたんだ。それで、もぞもぞ動いてて、それで、それで…」

自分の見た光景を思い出したのか、覚の呼吸が荒くなる。

「落ち着け!深呼吸しろ。な? 大丈夫だ、みんないる」

覚は暫く興奮状態だったが、落ち着きを取り戻してまた話し始めた。

「…あれは人じゃない。いや、元から人じゃないんだけど、形も人じゃない。いや、人の形はしてるんだけど、違うんだ」

覚が何を言いたいのか何となく解った俺は、

「人間の形をしたなにかが、壁に張りついてたってことか?」

と聞いた。

覚は黙って頷いた。

心臓の鼓動が激しくなった。咄嗟に覚が見たのは影じゃないと思った。影が壁や天井を動き回るのは不自然だ。仮にそれが影だったとしても、確実にそこに何かがいたから影ができたんだ。それくらい馬鹿の俺でも解る。

ということは、俺は自分の周りで這い回る何かに気付かず、しかも腐った残飯をモリモリと食べていたということなのか?

あの音は…? あのガリガリと壁を引っ掻く音は、壁やドアの向こう側からではなく、俺のいる側のすぐ傍で鳴っていたということか? あの呼吸音も?

恐怖のあまり頭がクラクラした。

そんな俺の様子を知ってか知らずか、覚は傍に立っていた樹に向き直り、

「ごめん、さっきは取り乱して。悪かった」

と謝った。

「いや、大丈夫…こっちこそごめんな」

樹もすかさず謝った。

その後、何となく気まずい雰囲気だったが、俺は平静を保つのに必死だった。無意味に深呼吸を繰り返した。そんな中、樹が口を開いた。

「お前さ、さっき今も見てるっていったけど」

覚は樹が言い終わらない内に答えた。

「ああ、ごめん。あれはちょっと、錯乱してたんだわ。ははっ、ごめん、今は大丈夫」

嘘だ。覚の笑顔は、完全に作り笑いだった。明らかに無理した笑顔で、目はどこか違うところを見ているようだった。

樹と俺はそれ以上聞かなかった。臆病者だと思われても仕方ない。だけど怖くて聞けなかったんだ。

少しの沈黙の後、広間の方から美咲ちゃんが朝飯の時間だと俺達を呼んだ。3人で話している間に結構な時間が過ぎていたらしい。

正直、食欲などある筈もなく。だが不審に思われるのは嫌だったし、行くしかないと思った。

俺はのっそりと立ち上がり、二人に言った。

俺「なるべく早いほうがいいよな。朝飯食い終わったら言おう」

樹「そうだな」

覚「俺、飯いいや。樹さ、ノートPCもってきてたよな? ちょっと、貸してくれないか?」

樹「いいけど、朝飯食えよ」

覚「ちょっと調べたいことがあるんだ。あんまり時間もないし、悪いけど二人でいってきて」

俺「了解。美咲ちゃんに頼んでおにぎり作ってもらってきてやるよ」

覚「うん、ありがと」

樹「パソコンは俺のカバンの中に入ってる。ネットも繋がるから」

そう言って俺達はそのまま広間に向かった。

広間に着くと、女将さんが俺らを見て、そしてゆっくりと俺の足元をみて、満面の笑顔で聞いてきたんだ。

「おはよう、よく眠れた?」と。

そんな言葉、初日以来だったし、昨日のこともあったから凄く不気味だった。ビビった俺は直立不動になってしまったが、樹が、

「はい。すみません遅れて」

と返事をしながら、俺のケツをパンと叩いた。体がスっと動いた。いつも人一倍ビビっていた樹に助け舟を出してもらうとは思わなかった。

そして覚が体調不良のためまだ部屋で寝ていることを伝え、美咲ちゃんにおにぎりを作ってもらえるよう頼んだ。

「あ、いいですよ。それより覚くん、今日は寝てたほうがいいんじゃ」

美咲ちゃんは心配そうにそう言った。樹と俺は、得に何も言わず席に付いた。「もう辞めるから大丈夫」とは言えないからな。

朝飯を食っている間、女将さんはずっとニコニコしながら俺を見ていた。箸が完全に止まっていた。「俺、ときどき飯」みたいな。

美咲ちゃんも旦那さんもその異様な様子に気付いたのか、チラチラ俺と女将さんを見ていた。樹は言うまでもなく、凝固。

凄まじく気分の悪くなった俺達は朝飯を早々に切り上げ、部屋に覚を呼びに行った。

部屋に戻る途中、覚の話し声が聞こえてきた。どうやらどこかに電話をしているようだった。俺達は電話中に声をかける訳にもいかなかったので、部屋に入り座って電話が終わるのを待った。

「はい、どうしても今日がいいんです。…はい、ありがとうございます!はい、はい、必ず伺いますのでよろしくお願いします」

そう言って電話を切った。

どうやら覚は、ここから帰ってすぐどこかへ行く予定を立てたらしい。俺も樹も別に詮索するつもりはなかった。何も聞かず、すぐに覚を連れて広間に向かった。

広間に戻ると、美咲ちゃんが朝飯の片付けをしていた。女将さんは居なかった。

俺はふと、盆に飯を乗せて2階への階段に消えて行ったあの女将さんの後姿を思い浮かべた。

きっとあの時に持って行った飯は、あの残飯の上に積み重ねてあったんだろう。そうして何日も何日も繰り返して、あの山ができたんだろうな。

『一体あれは何のためなんだ?』

俺の頭に疑問が過った。

しかし、そんなこと考えるまでもないとすぐに思い直した。俺は今日で辞めるんだ。ここともおさらばするんだ。すぐに忘れられる。忘れなきゃいけない。心の中で自分に言い聞かせた。

樹が女将さんの居場所を美咲ちゃんに尋ねた。

「女将さんならきっと、お花に水やりですね。すぐ戻ってきますよ」

そう言って美咲ちゃんは、覚の方を見て、

「覚くん、すぐおにぎり作るからまっててね」

と笑顔で台所に引っ込んだ。

ああ、美咲ちゃん…何もなければきっと俺は美咲ちゃんとひと夏のあばん(略)

俺達は女将さんが戻って来るのを待った。

暫くすると女将さんは戻って来て、仕事もせずに広間に座り込む俺達を見て「どうしたのあんたたち?」とキョトンとした顔をした。

俺は覚悟を決めて切り出した。

「女将さん、お話があるんですけど、ちょっといいですか?」

「なんだい? 深刻な顔して」

女将さんも俺達の前に座った。

「勝手を承知で言います。俺達、今日でここを辞めさせてもらいたいんです」

樹と覚もすぐ後に「お願いします」と言って頭を下げた。

女将さんは表情ひとつ変えずに暫く黙っていた。まるで予想していたかのような表情だった。

長い、長い沈黙の後、

「そうかい。わかった、ほんとにもうしょうがない子たちだよ」

と言って笑った。

そして給料の話、引き上げる際の部屋の掃除などの話を一方的に喋り、用意が出来たら声をかけるようにと俺達に言った。

拍子抜けするくらいにすんなり話が通ったことに、俺達は安堵していた。だけど、心のどこかで何かおかしいと思う気持ちもあった筈だ。

話が決まったからには俺達は即行動した。荷物は前の晩の内にまとめてある。あとは部屋の掃除をするだけで良かった。

バイトを始めてから、仕事が終われば近くの海で遊んだり、疲れている日には戻ってすぐに爆睡だったので、部屋にいる時間はあまりなかったように思う。だから男3人の部屋と言えど、元からそんなに汚れている訳でもなかった。

そんなこんなで、一時間ほどの掃除をすれば部屋も大分綺麗になった。準備が出来たということで俺達は広間に戻り、女将さん達に挨拶をすることにした。

広間に戻ると女将さんと旦那さん、そして悲しそうな顔をした美咲ちゃんが座っていた。

俺達は3人並んで正座し、

「短い間ですが、お世話になりました。勝手言ってすみません。ありがとうございました」

と言って頭を下げた。

すると女将さんが腰を上げて俺達に近寄り、

「こっちこそ、短い間だったけどありがとうね。これ、少ないけど…」

そう言って茶封筒を3つ、そして小さな巾着袋を3つ手渡してきた。茶封筒は思ったよりズッシリしていて、巾着袋は凄く軽かった。

そして後ろから美咲ちゃんが、

「元気でね」

と言って少し泣きそうな顔をしながら言うんだ。そして「みんなの分も作ったから」と、3人分のおにぎりを渡してくれた。

『おいおい止めてくれ。泣いちゃうよ俺!』そう思ってあんまり美咲ちゃんの顔を見られなかった。

前日死にそうな思いをしたのにと思うだろ? だけど、実際凄く世話になった人との別れの時には、そういうの無しになるものなんだわ。

挨拶も済んで、俺達は帰ることになった。

来る時は近くのバス停までバスを使ったのだが、帰りはタクシーにした。旦那さんが車で駅まで送ってくれるという話も出たのだが、覚が断った。

タクシーが到着すると、女将さん達は車まで見送りに来てくれた。周りから見れば何となく感動的な別れに見えただろうが、実際、俺達は逃げ出す真っ最中だったんだよな。

タクシーに乗り込む前に、俺は振り返った。辛うじて見えた2階への階段の扉が、目を凝らすとほんの少し開いているような気がして、思わず顔を背けた。

そして3人とも乗り込み、行き先を告げるとすぐ車が動き出した。

旅館から少し離れると、急に覚が運転手に行き先を変更するよう言ったんだ。運転手に何かメモみたいなものを渡して、ここに行ってくれと。

運転手はメモを見て怪訝な顔をして聞いてきた。

「大丈夫? 結構かかるよ?」

「大丈夫です」

覚はそう答えると、後部座席でキョトンとしている樹と俺に向かって

「行かなきゃいけないとこがある。お前らも一緒に」と言った。

俺と樹は顔を見合わせた。考えてることは一緒だったと思う。

『どこへ行くんだ』

だが、朝の錯乱した様子を見た後だったので、正直気が引けて何も聞けなかった。

暫く走っていると運転手さんが聞いてきた。

「後ろ走ってる車、お客さんたちの知り合いじゃない?」

『え?』と思い振り返ると、軽トラックが一台後ろにぴったりくっついて走っていた。そして中から手を振っていたのは、旦那さんだった。

俺達は何か忘れ物でもしたのかと思い、車を停めてもらえるよう頼んだ。道の端に車が止まると、旦那さんもそのまますぐ後ろに軽トラを停めた。そして出て来ると俺達のところに来て、

「そのまま帰ったら駄目だ」

と言った。覚は暗い表情で応じる。

「帰りませんよ。こんな状態で帰れるはずないですから」

「え、どういうこと?」

何が何やら解らなかったので素直に質問した。

すると旦那さんは俺の方を向き、真っ直ぐ目を見つめて言った。

「おめぇ、あそこ行ったな?」

心臓がドクンッと鳴った。

『なんで知ってんの』

この時は本気で怖かった。霊的なものではなく、何と言うか大変なことをしてしまったという思いが凄かった。俺は「はい」と答えるだけで精一杯だった。

すると旦那さんは溜め息をひとつ吐くと言った。

「このまま帰ったら完全に持ってかれちまう。なぁんであんなとこ行ったんだかな。まあ、元はと言えば俺がちゃんと言わんかったのが悪いんだけどよ」

おい、持ってかれるってなんだ。勘弁してくれよ。もう終わった筈だろ?

不安になって樹を見た。樹は驚くような目で俺を見ていた。更に不安になって覚を見た。すると覚は言うんだ。

「大丈夫。これから御祓いに行こう。そのためにもう向こうに話してあるから」

信じられなかった。憑かれていたってことか? 何だよ、俺死ぬのか? この流れは死ぬんだよな? なんであんなとこ行ったんだって? 行くなと思うならはじめから言ってくれ。

あまりの恐怖で、自分の責任を誰か他の人に転嫁しようとしていた。

呆然としている俺を横目に、旦那さんと覚は話を進めた。

「御祓いだって?」

「はい」

「おめぇ、見えてんのか」

覚は黙り込む。

樹「おい、見えてるって…」

覚「ごめん。今はまだ聞かないでくれ」

俺は思わず覚に掴みかかった。

「いい加減にしろよ。さっきから何なんだよ!」

旦那さんが割って入る。

「おいおい止めとけ。おめぇら、逆にコイツに感謝しなきゃならねぇぞ」

樹「でも、言えないってことないんじゃないすか?」

旦「おめぇらはまだ見えてないんだ。一番危ないのはコイツなんだよ」

俺と樹は揃って覚を見た。覚は、暗い表情のままだった。

「どうして覚なんですか? 実際にあそこに行ったのは俺です」

「わかってるさ。でもおめぇは見えてないんだろ?」

「さっきから見えてるとか見えてないとか、なんなんですか?」

「知らん」

「はぁ?」

トンチンカンなことを言う旦那さんに対して俺はイラっとした。

「真っ黒だってことだけだな、俺の知ってるのは。だがなぁ…」

そう言って旦那さんは覚を見る。

「御祓いに行ったところで、なんもなりゃせんと思うぞ」

覚は、疑いの目を旦那さんに向けて聞いた。

「どうしてですか?」

「前にもそういうことがあったからだな。でも、詳しくは言えん」

「行ってみなくちゃわからないですよね?」

「それは、そうだな」

「だったら」

「それで駄目だったら、どうするつもりなんだ?」

また黙り込む覚。

「見えてからは、とんでもなく早いぞ」

早いという言葉が何のことを言っているのか俺にはさっぱり解らなかった。

だが、旦那さんがそう言った後、覚は崩れ落ちるようにして泣き出したんだ。声にならない泣き声だった。俺と樹は、傍で立ち尽くすだけで何もできなかった。

俺達の異様な雰囲気を感じ取ったのか、タクシーの窓を開けて中から運転手が話しかけてきた。「お客さんたち大丈夫ですか?」

俺達3人は何も答えられない。覚に限っては道路に伏せて泣いている始末だ。すると旦那さんが運転手に向かってこう言った。

「あぁ、すまんね。呼び出しておいて申し訳ないんだが、こいつらはここで降ろしてもらえるか?」

運転手は「え? でも…」と言い俺達を交互に見た。

その場を無視して旦那さんは覚に話しかける。

「俺がなんでおめぇらを追いかけてきたかわかるか? 事の発端を知る人がいる。その人のとこに連れてってやる。もう話はしてある。すぐ来いとのことだ。時間がねぇ。俺を信じろ」

肩を震わせ泣いていた覚は、精一杯だったんだろうな、顔をしわくちゃにして声を詰まらせながら言った。

「おねが…っ…します…」

呼吸ができていなかった。男泣きでも何でもない、泣きじゃくる赤ん坊を見ているようだった。

昨日の今日だが、覚は一人で、何かもの凄い大きなものを抱え込んでいたんだと思った。あんなに泣いた覚を見たのは、後にも先にもこの時だけだ。

覚のその声を聞いた俺は、運転手に言った。

「すいません。ここで降ります。いくらですか?」

その後、俺達は旦那さんの軽トラに乗り込んだ。と言っても、俺と樹は後の荷台な訳で。乗り心地は史上最悪だった。

旦那さんは俺達が荷台に乗っているにも関わらず、有り得ないほどスピードを出した。樹から女々しい悲鳴を聞いたが、スルーした。

どれくらい走ったのか分からない。あまり長くなかったんじゃないかな。まあ正直、それどころじゃないほど尾てい骨が痛くて覚えていないだけなんだが。

着いた場所は、普通の一軒家だった。横に小さな鳥居が立っていて石段が奥の方に続いていた。

俺達の通されたのはその家の方で、旦那さんは呼び鈴を鳴らして待っている間、俺達に「聞かれたことにだけ答えろ」と言った。

少し待つと、家から一人の女の人が出てきた。年は20代くらいの普通の人なんだけど、額の真ん中に大きなホクロがあったのが凄く印象的だった。

その女の人に案内されて通されたのは家の一角にある座敷だった。そこには一人の坊さんと、おっさん、じいさんの三人が座っていた。

俺達が部屋に入るなり、おっさんが眉をひそめ「禍々しい」と呟いた。

「座れ」

旦那さんの掛け声で俺達は、坊さんたちが並んで座っている丁度向かい側に3人並んで座った。そして旦那さんが覚の隣に座った。

するとじいさんは口を開いた。

「旦那、この子ら3人で全部かね?」

「えぇ、そうなんですわ。この覚って奴は、もう見えてしまってるんですわ」

旦那さんがそう言った瞬間、おっさんとじいさんは顔を見合わせた。

すると坊さん-離塵さんという名前だと後で教えてもらった-が口を開いた。

「旦那さん、堂に行ったというのは彼ですか?」

「いえ。実際行ったのはこの修って奴で」

「ふむ」

「覚は下から覗いていただけらしいんです」

「そうですか」

そして少し黙ったあと離塵さんは覚に聞いたんだ。

「あなたは、この様な経験は初めてですか?」

覚が聞き返す。

「この様な経験?」

「そうです。この様に、見えてはいけないものが見たりする体験です」

「…はい。初めてです」

「そうですか。不思議なこともあるものです」

「…俺…」

覚が何か喋ろうとしていた。そこにいた全員が覚を見た。

離塵「はい」

覚「俺…死ぬんでしょうか?」

そう言った覚の腕は、正座した膝の上で突っ張っているのに、ガクガクと震えていた。すると離塵さんは静かに一言一言を区切るように答えた。

「はい。このままいけば。確実に」

覚は言葉を失った。震えが急に止まって、畳を一点食い入るように見つめだした。それを見た樹が口を挟んだ。

「…死ぬって」

「持って行かれるという意味です」

意味を説明されたところで俺達はわからない。何に何を持って行かれるのか。更に離塵さんは続けた。

「話がわからないのは当然です。修くんは、堂へ行った時に何か違和感を感じませんでしたか?」

離塵さんが堂といっているのは、どうやらあの旅館の2階の場所らしかった。それで俺は答えた。

「音が聞こえました。あと、変な呼吸音が。2階の扉にはお札の様なものが沢山貼ってありました」

「そうですか。気づいているかも知れませんがあそこには、人ではないものがおります」

あまり驚かなかった。事実、俺もそう思っていたからだ。

「修くんはあの場所で、その人ではないものの存在を耳で感じた。本来ならば人には感じられないものなのです。誰にも気づかれず、ひっそりとそこにいるものなのです」

そう言うと、離塵さんはゆっくりと立ち上がった。

「覚くん、今は見えていますか?」

「いえ。ただ音が、さっきから壁を引っかく音が凄くて」

「ここには入れないということです。幾重にも結界を張っておきました。その結界を必死に破ろうとしているのですね。しかし、皆さんがいつまでもここに留まることは出来ないのです。

今からここを出て、隠堂(オンドウ)へ行きます。覚くん、ここから出ればまたあのものたちが現れます。また苦しい思いをすると思います。

でも必ず助けますから、気をしっかり持って付いて来てください」

覚はカクカクと首を縦に振っていた。

そうして、離塵さんに連れられて俺達はその家を出てすぐ隣の鳥居をくぐり、石段を登った。民宿の旦那さんは家を出るまで一緒だったが、おっさんたちと何やら話をした後、離塵さんに頭を下げて行ってしまった。

知っている人がいなくなって一気に心細くなった俺達は、3人で寄り添うように歩いた。特に覚は、目を左右に動かしながら背中を丸めて歩いていて、明らかに憔悴しきっていた。だから俺達はできる限り、覚を真ん中にして二人で守るように歩いた。

石段を登り終わる頃、大きな寺が見えてきた。だが離塵さんはそこには向かわず、俺達を連れて寺を右に回り奥へと進んだ。そこにはもう一つ鳥居があり、更に石段が続いていた。

鳥居をくぐる前に離塵さんが覚に聞いた。

「覚くん、今はどんな感じですか」

「二本足で立っています。ずっとこっちを見ながら、付いてきてます」

「そうですか。もう立ちましたか。よっぽど覚くんに見つけてもらえたのが嬉しかったんですね。ではもう時間がない。急がなくてはなりません」

そして石段を上り終えると、さっきの寺とは比べ物にならない位小さな小屋がそこにあり、離塵さんはその小屋の裏へ回り、俺達も後に続いた。

離塵さんは、この小屋に一晩篭もり、憑きモノを祓うのだと言った。そして、中には明りが一切ないこと、夜が明けるまでは言葉を発っしてはならないこと俺達に言い聞かせた。

「もちろん、携帯電話も駄目です。明りを発するものは全て。食ったり寝たりすることもなりません」

どうしても用を足したくなった場合はこの袋を使用するようにと、布の袋を渡された。

その後、俺達に、竹の筒みたいなものに入った水を一口ずつ飲ませ、自分も口に含むと俺達に吹きかけてきた。そして小さな小屋の中に入るように言った。

俺達は順番に入ろうとしたんだが、覚が入る瞬間、口元を押さえて外に飛び出して吐いたんだ。離塵さんが慌てた様子で聞いてきた。

「あなたたち、堂に行ったのは今日ではないですよね?」

「昨日です」と俺が答える。

「おかしい。一時的ではあるが身を清めたはずなのに、隠堂に入れないとは」

言ってる意味がよく分からなかった。すると離塵さんは覚のヒップバッグに目をつけ、

「こちらに滞在する間、誰かから何かを受け取りましたか?」

俺は特に思い浮かばず、だが樹が言ったんだ。

「今日、給料もらいましたけど」

当たり前すぎて忘れてた。そういえば給料も貰いものだなって妙に感心したりして。

俺「あ、あと巾着袋も」

樹「おにぎりも。もらい物に入るなら」

給料を貰った時に女将さんにもらった小さな袋を思い出した。そして美咲ちゃんには朝、おにぎりを作って貰ったんだった。

離塵さんはそれを聞くと、覚に話しかけた。

「覚くん、それのどれか一つを今、持っていますか?」

「おにぎりはデカイ鞄の方に入れてありますけど、給料と袋は、今持ってます」

覚はそう言ってバッグからその二つを取り出した。離塵さんは、まず巾着袋を開けた。そして一言「これは…」と俺達に見えるように袋の口を広げた。

中を覗き込んで俺達は息を呑んだ。

そこには、大量の爪の欠片が詰まっていた。俺の足に張り付いていたものと一緒だった。見覚えのある、赤と黒ずんだものだった。

覚は、また吐いた。俺も吐いた。周辺が汚物の臭いで一杯になったが、離塵さんは眉ひとつ動かさない。

離塵さんは、覚の持ち物を全て預かると言い、俺達2人も持ち物を全て出すように言った。

俺は、携帯と財布を離塵さんに手渡し、旅行鞄の方に入っている巾着袋を処分してもらえるよう頼んだ。離塵さんは頷き、再度覚に竹筒の水を飲ませ、吹きかけた。

そして俺達3人が隠堂の中に入ると、

離塵「この扉を開けてはなりません。皆、本堂のほうにおります。明日の朝まで、誰もここに来ることはありません。そして、壁の向こうのものと会話をしてはなりません。

この隠堂の中でも言葉を発してはなりません。居場所を教えてはなりません。これらをくれぐれもお守りいただけますよう、お願いします」

そう言って俺達の顔を見渡した。俺達は頷くしかなかった。この時既に言葉を発してはならない気がして、怖くて何も言えなかったんだ。

離塵さんは俺達の様子を確認すると、扉を閉め、そのまま何も言わず行ってしまった。隠堂の中はひんやりしていた。実際ここで飲まず食わずでやっていけるのかと不安だったが、これなら一晩くらいは持ちそうだと思った。

建物自体はかなり古く、壁には所々に隙間があった。といってもけっこう小さいものだけど。まだ昼時ということもあり、外の光がその隙間から入り、樹と覚の顔もしっかり確認できた。

顔を見合わせても何も喋ることができないという状況は、生まれて初めてだった。

「大丈夫だ」という意味を込めて俺が頷くと、樹も覚も頷き返してくれた。

暫くすると、顔を見合わせる回数も少なくなり、終いにはお互い別々の方向を向いていた。

喋りたくても喋れないもどかしさの中、あとどれくらいの時間が残っているのか見当も付かない俺達は、ただただ呆然とその場にいることしかできなかったんだ。

途方もない時間が過ぎていると感じているのに、まだ外は明るかった。

すると樹がゴソゴソと音を立て出した。何をしているのかと思い、あまり大きな音を出す前に止めさせようと思って樹の方に向き直ると、樹は手に持った紙とペンを俺達に見せた。

こいつは、離塵さんの言うことを聞かずに密かにペンを隠し持っていたのだ。そして紙は、板ガムの包み紙だった。まあメモ用紙なんて持っているはずない俺達なので、きっとそれしか思い浮かばなかったんだろう。

『こいつ何やってんだよ』

一瞬そう思った俺だが、意思の疎通ができないこの状況で極限に心細くなっていた所為もあり、樹の取った行動に何も言う事が出来なかった。

寧ろひとつの光というか、上手く説明できないんだが、とにかく凄く安心したのを覚えてる。

樹はまず自分で紙に文字を書き、俺に渡してきた。

『みんな大丈夫か?』

俺は樹からペンを受け取り、なるべく小さく、スペースを空けるようにして書き込んだ。

『俺は今のところ大丈夫、覚は?』

そして覚に紙とペンを一緒に手渡した。

『俺も今は平気。何も見えないし聞こえない』

そして樹に紙とペンが戻った。こんな感じで、俺達の筆談が始まったんだ。

樹『ガム残り4枚。外紙と銀紙で8枚。小さく文字書こう』

俺『OK。夜になったらできなくなるから今のうちに喋る』

覚『わかった』

樹『今何時くらい?』

俺『わからん』

覚『5時くらい?』

樹『ここ来たの1時くらいだった』

俺『なら4時くらいか』

覚『まだ3時間か』

樹『長いな』

こんな感じで他愛もない話をして1枚目が終わった。すると樹が書いてきた。

樹『修、文字でかい』

俺は謝る仕草を見せた。すると樹は俺にペンを渡してきたので、

俺『腹減った』

と書き込み覚に渡した。

そして覚が何も書かずに樹に紙を渡した。

すると樹は

樹『俺も』

と書いて俺に渡してきた。

あれだけ心細かったのに、いざ話すとなるとみんな何も出てこなかった。俺は、日が沈む前に言っておかなければならないことを書いた。

俺『何があっても、最後までがんばろうな』

覚『うん』

樹『俺、叫んだらどうしよう』

俺『なにか口に突っ込んどけ』

覚『突っ込むものなんてないよ』

樹『服脱いでおくか』

俺『てか、何も起きない、そう信じよう』

覚は俺の書いた言葉にはノーコメントだった。俺も書いたあと、自分で何を言ってるんだろうと思った。

離塵さんは、何も起きないとは一言も言っていなかった。寧ろ、これから何が起こるのかを予想しているような口ぶりで俺達にいくつも忠告をしたんだ。

そう考えると俺達は、一刻も早く時間が過ぎてくれることを願っている一方で、本当は夜を迎えるのが凄く怖かったんだ。

夜だけじゃない、その瞬間でさえ、本当は怖くてしょうがなかった。唯一の救いが、互いの存在を目視できるということだっただけで。

俺の一言で空気が一気に重くなってしまった。俺はこの空気をどうにかしようと、覚の持っていた紙とペンをもらい、

俺『何か喋れ時間もったいない』

と書いて樹に渡した。他人任せもいいとこ。樹は一瞬困惑したが、少し考えて書き出し、俺に渡してきた。

樹『じゃあ、帰ったら何するか』

俺『いいね。俺はまずツタヤだな』

覚『なんでツタヤ』

俺『DVD返すの忘れてた』

樹『うそ!どんだけ延泊?』

まあ、嘘だった。どうにかして気を紛らわせたかったからなんでもいいやって適当に書いた。結果、雰囲気はほんの少しだが和み、樹も覚もそれぞれ帰ったら何をするかを書いた。

少しずつだが、ゆっくりと俺達は静かな時間を過ごした。そして残りの紙も少なくなった頃、覚はある言葉を紙に書いた。

『俺は離塵さんに言われたことを必ず守る。死にたくない』

俺も樹も、最後の言葉を見つめてた。俺は「死にたくない」なんて言葉、生まれてこの方本気で言ったことなんかない。きっと樹もそうだろう。

死ぬなんて考えていなかったからだ。

死を間近に感じたことがないからだ。

それを、今目の前で心の底から言う覚がいる。その事実が凄く衝撃的だった。

俺は覚の目をしっかりと見つめ、頷いた。

その後は特に何も話さなかったが、不思議と孤独感はなかった。

お互いの存在を感じながら、日が暮れるのを感じていた。

隠堂の外では蝉が鳴いていた。なにか違和感を感じた。蝉の声に混じって他の音が聞こえるんだ。耳を凝らすと、段々その音がはっきりと聞こえるようになった。

俺は考えるより先に確信した。あの呼吸音だって。

覚を見た。薄暗くて分かりづらかったが、覚に気づいている気配はなかった。覚には聞こえないのか?そういえば覚って呼吸音について言ってたっけ?もしかしてあれは聞いたことがないのか?

頭の中で色々な考えが浮かんだ。すると硬直する俺の様子に気づいた覚が、周りをキョロキョロと見回し始めた。

この状況の中で、神経が過敏にならないはずがなかった。俺の異変にすぐ気づいたんだ。

すると、覚の視線が一点に止まった。俺の肩越しをまっすぐ見つめていた。白目が一気にデカくなり、大きく見開いているのがわかった。

樹も覚の様子に気が付き、覚の見ている方を見ていたが何も見つけられないようだった。俺は怖くて振り返れなかった。

それでも、あの呼吸音だけは耳に入ってくる。ソレがすぐそこにいることがわかった。動かず、ただそこで「ヒューッヒュー」といっていた。

暫く硬直状態が続くと、今度は俺達のいる隠堂の周りを、ズリズリとなにか引きずるような音が聞こえ始めた。樹はこの音が聞こえたらしく、急に俺の腕を掴んできた。

その音は、隠堂の周りをぐるぐると回り、次第に呼吸音が「きゅっ…きゅえっ…」っていう何か得体の知れない音を挟むようになった。

俺には音だけしか聞こえないが、ソレがゆっくりと隠堂の周りを徘徊していることは分かった。

樹の腕から心臓の音が伝わってくるのを感じた。覚を確認する余裕がなかったが、固まってたんだと思う。全員、微動だにしなかった。

俺は恐怖から逃れるために、耳を塞いで目を瞑っていた。頼むから消えてくれと、心の中でずっと願っていた。

どれくらい時間が経ったかわからない。ほんの数分だったかも知れないし、そうでないかも知れない。目を開けて周りを見回すと、隠堂の中は真っ暗で、ほぼ何も見えない状態だった。

そしてさっきまでのあの音は、消えていた。恐怖の波が去ったのか、それともまだ周りにいるのか、判断がつかず動けなかった。そして目の前に広がる深い闇が、また別の恐怖を連れて来たんだ。

目を凝らすが何も見えない。「いるか」「大丈夫か」の掛け声さえ出せない。

ただ樹はずっと俺の腕を握ってたので、そこにいるのが分かった。俺はこの時猛烈に覚が心配になった。覚は明らかに何かを見ていた。

暗がりの中で、覚を必死に探すが見えない。

俺は、樹に掴まれた腕を自分の左手に持ち直し、樹を連れて覚のいた方へソロソロと歩き出した。なるべく音を立てないように、そして樹を驚かせないように。

暗すぎて意思の疎通ができないんだ。誰かがパニックになったら終わりだと思った。

どこにいるか全くわからないので、左手に樹の腕を握ったまま、右手を手前に伸ばして左右にゆっくり振りながら進んだ。すると指先が急に固いものに当たり、心臓がボンっと音を立てた。

手に触れたそれは、手触りから壁だということがわかった。おかしい、覚のいた方角に歩いてきたのに覚がいない。

俺は焦った。更に壁を折り返してゆっくりと進んだ。だがまた壁に行き着いた。途方に暮れて泣きそうになった。「覚どこだ」の一言を何度も飲み込んだ。

どうしていいかわからなくなり、その場に立ち尽くしたまま樹の腕を強く握った。すると、今度は樹が俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出したんだ。

まず、樹は壁際まで行くと、掴んだ俺の腕を壁に触らせた。そしてそのままゆっくりと壁沿いを移動し、角に着いたら進路を変えてまた壁沿いに歩く。

そうやっていくうちに、前を歩く樹がぱたりと止まった。そして、俺の腕をぐいっと引っ張ると、何か暖かいものに触れさせた。それは、小刻みに震える人の感触だった。

覚を見つけたと思った。でもすぐ後に、(これは本当に覚なのか)という疑問が芽生えた。よく考えたら樹もそうだ。ずっと近くにいたが、実際俺の腕を掴んでいるのは樹なのか?

俺は暗闇のせいで、完全に疑心暗鬼に陥っていた。

俺が無言でいると、樹はまた俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出した。俺はゆっくりとついていった。すると、ほんの僅かだが、視界に光が見えるようになった。

不思議に思っていると、部屋にある隙間から少しだけ月の明かりが入ってきているのが目に入った。樹はそこへ俺達を連れて行こうとしているのだと思った。

何故気付かなかったのか、今、思っても不思議なんだ。暗闇に目が慣れるというのを聞いたことがあったけど、恐怖に呑まれてそれどころじゃなかった。ほんとにそこは真っ暗だったんだ。

とにかく、その時俺はその光を見て心の底から救われた気持ちになった。そして樹に感謝した。後から聞いたんだが、

樹「俺は見えもしなかったし、聞こえもしなかった。なんか引きずってる音は聞こえたんだけどな。でもそのおかげで、お前達よりは余裕があったのかも」と言っていた。大した奴だって思った。

光の下に来ると、樹の反対側の手に覚の腕が握られているのが見えた。月明かりで見えた覚の顔は、汗と涙でぐっしょり濡れていた。何があったのか、何を見たのか、聞くまでもなかった。

夜は昼と違って、凄く静かで、遠くで鈴虫が鳴いていた。

俺達は暫くそこでじっとしていた。恥ずかしながら、3人で互いに手を取り合う格好で座った。ちょうど円陣を組む感じで。

あの状態が一番安心できる形だったんだと思う。そして何より、例え僅かな光でも、相手の姿がそこに確認できるだけで別次元のように感じられたんだ。

暫くそうしていると、とうとう予想していたことが起きた。

樹が催したのだ。生理現象だから絶対に避けられないと思っていた。樹は自分のズボンのポケットから離塵さんに貰った布の袋をゴソゴソと取り出すと、立ち上がって俺達から少し離れた。

静寂の中、樹の出す音が響き渡る。なんか、まぬけな音に若干気が抜けて、俺も覚も顔を見合わせてニヤっとした。

その瞬間だった。

「覚くん」

一瞬にして体に緊張が走る。

するとまた聞こえた。俺達が隠堂に入った扉のすぐ外側からだった。

「覚くん」

俺達は声の主が誰か一瞬で分かった。今朝も聞いた、美咲ちゃんの声だ。

「覚くんおにぎり作ってきたよ」

こちらの様子を伺うように、少し間を空けながら喋りかけてくる。抑揚がなく、ボカロの声のようだった。覚の手にぐっと力が入るのが分かった。

「覚くん」

暫くの沈黙の後、突然関を切ったように続いた。

「覚くんおにぎり作ってきたよ」「いらっしゃいませぇ」「おにぎり作ってきたよ」「覚くん」「いらっしゃいませぇ」「おにぎり作ってきたよ」「いらっしゃいませぇ」

「覚くん」

尋常じゃないと思った。美咲ちゃんの声なのに、すげー恐かった。扉の外にいるのは、絶対に美咲ちゃんじゃないと思った。

気付くと樹が俺達の側に戻り、俺と覚の腕を掴んだ。力が入ってたから、こいつにも聞こえてるんだと思った。俺達は3人で、隠堂の扉の方を見つめたまま動けなかった。その間もその声は繰り返し続く。

「いらっしゃいませぇ」

「覚くん」

「おにぎり作ってきたよ」

そしてとうとう、扉がガタガタと音を出して揺れ始めた。

おい、ちょ、待て。

扉の向こうのヤツは扉をこじ開けて入ってくるつもりなんだと思った。俺は扉が開いたらどうするかを咄嗟に考えた。

『全速力で逃げる、離塵さんたちは本堂にいるって言ってたからそこまで逃げて…おい本堂ってどこだ』とか。もうここからどうやって逃げるかしか考えてなかった。

やがてそいつは、ガンガンと扉に体当たりするような音を立てだした。そしてそのまま少しずつ、隠堂の壁に沿って左に移動し始めたんだ。一定時間そうした後にまた左に移動する。その繰り返しだった。

『何してるんだ』

不思議に思っていると、俺はあることに気づいた。俺達のいる壁際には隙間が開いている。そしてそいつは今そこにゆっくりと向かっている。

『もし隙間から中が見えたら』

『もし中からアイツの姿が見えたら』

そう考えると居ても立ってもいられなくなり、俺は2人を連れて急いで部屋の中央に移動した。

移動している。ゆっくりと、でも確実に。

心臓の音さえ止まれと思った。ヤツに気づかれたくない。いや、ここにいることはもう気づかれているのかもしれないけど。恐怖で歯がガチガチといい始めた俺は、自分の指を思いっきり噛んだ。

そして俺は、隙間のある場所に差し掛かったそいつを見た。見えたんだ。月の光に照らされたそいつの顔を、今まで音でしか感じられなかったそいつの姿を。真っ黒い顔に、細長い白目だけが妙に浮き上がっていた。

そして体当たりだと思っていたあの音は、そいつが頭を壁に打ち付けている音だと知った。そいつの顔が、一瞬壁の隙間から消える。外でのけぞっているんだろう。そしてその後すぐ、もの凄い勢いで壁にぶち当たるんだ。

壁にぶち当たる瞬間も、白目をむき出しにしてるそいつから、俺は目が離せなくなった。金縛りとは違うんだ、体ブルブル震えてたし。

ただ見たことのない光景に、意識を奪われていただけなのかも知れないな。

あの勢いで頭を壁にぶつけながら、それでも繰り返し覚の名を呼び続けるそいつは、完全に生きた人間とはかけ離れた存在だった。

結局、そいつは俺達が見えていなかったのか、隙間の場所で暫く頭を打ち付けた後、更にまた左へ左へと移動して行った。

俺の頭の中で、残像が音とシンクロし、そいつが外で頭を打ち付けている姿が鮮明に思い浮かんだ。

正直なところ、そいつがどれくらいそこに居たのかを俺は全く覚えていない。残像と現実の区別がつけられない状態だったんだ。

後から聞いた話だと、そいつがいなくなって静まりかえった後、3人ともずっと黙っていたらしい。

樹は警戒していたから。

覚は恐怖のため動けなかったから。

そして俺は残像の中で延長戦が繰り広げられていたから。

それで樹が俺を光の場所へ連れていこうと腕を掴んだ時、体の硬直が半端なくて一瞬死んだと思ったらしい。本気で死後硬直だと思ったんだって。

覚は覚で、恐怖で歯を食いしばりすぎて、歯茎から血を流してた。樹だけは、やっぱり姿を見ていなかった。

あと、そいつはそこから遠ざかって行く時カラスのように「ア゛ーっア゛ー」と奇声を発していたらしい。その声は、樹だけが聞いていたんだけど。

その二度の襲来によって、その後の俺達の緊張の糸が緩むことはなかった。ただ、神経を張り巡らせている分体がついていかなかった。

みんな首を項垂れて、目を合わせることは一切無かった。覚は、催したものをそのまま垂れ流していたが、樹と俺はそれを何とも思わなかった。

あんなに夜が長いと思ったのは生まれて初めてだ。憔悴しきった顔を見たのも、見せたのも、もちろん人でないものの姿を見たのも。悪い夢のようで、でも何もかも鮮明に覚えている。

隠堂の隙間から光が差し込んできて、夜が明けたと分かっても、俺達は顔を上げられずそこに座っていた。

雀の鳴き声も、遠くから聞こえる民家の生活音も、すべてが心臓に突き刺さる。ここから出て生きていけるのか、本気でそう思ったくらいだ。

強い太陽の光が屋内に入りこんできた頃、遠くからこっちに近づいてくる足音が聞こえた。俺達は自然と身構える。足音はすぐ近くまで来ると、隠堂の裏へ回り入り口の前で止まった。

息を呑んでいると、ガタガタっと音がして扉がゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは、離塵さんだった。離塵さんは俺達の姿を見つけると、一瞬泣きそうな顔をして、

「よく、頑張ってくれました」

と言った。

あの時の離塵さんの目は、俺一生忘れないと思う。本当に本当に優しい目だった。

俺は、不覚にも腰を抜かしていた。離塵さんは、俺達の汗と尿まみれの隠堂の中に迷わず入って来て、そして俺達の肩を一人一人抱いた。離塵さんの僧衣から、なんか懐かしい線香の香りがして、

『ああ、俺達、生きてる』

と心の底から思った。そこで俺、子供のように泣いた。

暫くしても立ち上がれない俺を見て、離塵さんはおっさんを呼んできてくれた。そして2人に肩を抱えられながら、前日に居た一軒家に向かった。

途中、行く時に見た大きな寺の横を通ったんだ。その時、俺達3人は叫び声を聞いた。低く、そして急に高くなって叫ぶ人の声だった。

家の玄関に着くと耳元で樹が囁いた。

「さっきのあれ、女将さんの声じゃね?」

まさかと思ったが、確かに女将さんの声に聞こえなくもなかった。だが俺はそれどころじゃないほど疲れていたわけで。

早く家に上げて欲しかったんだが、玄関に出てきた女の人が「すぐお風呂入って」と言う。ま、しょうがない。だって俺達自分でも驚くほど臭かったしね。

そして俺達は、3人仲良く風呂に入った。怖かったから、いきなり一人になる勇気はさすがになかった。風呂を上がると見覚えのある座敷に通され、そこに3枚の布団が敷いてあった。

「まず寝ろ」ということらしい。

ここは安全だという気持ちが自分の中にあったし、極限に疲れていたせいもあった。というか、理屈よりまず先に体が動いて、俺達は布団に顔を埋めてそのまま泥のように眠った。

そういえば、隠堂から出る時、俺は覚に聞いたんだ。

「覚、もう、見えないよな?」

すると覚は、確かな口調で答えた。

「ああ、見えない。助かったんだ。ありがとう」

俺はその一言を聞いて、覚が小便を垂らしたことは内緒にしておいてやろうと思った。俺達は助かったんだ。その事実だけで、十分だった。

目を覚ました俺達は、事の真相を離塵さんに聞かされることになる。そして、人間の本当の怖さと、信念の強さがもたらした怪奇的な現実を知るんだ。

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