幽霊ってさ、通り魔みたいに理不尽な存在だと思うんだ

霊というものが、どんなものか、その時まで、わたしは、知らなかった。

いまは、こう思う。

あれは、通り魔のように、理不尽な存在だ、と。

十年ほど前、わたしは、当てもなく、日本中を、ひとりで歩き回っていた。

仕事を辞めたばかりで、行き先も、帰る場所も、決めていなかった。

その日も、海沿いの、小さな町に、降り立った。

そのころのわたしは、自分の人生に、すっかり、疲れていた。

勤めていた会社で、心を、すり減らし、逃げるように、辞めた。

あてのない旅は、その、傷をなめるような、ものだった。

夜は、安い宿に泊まり、昼は、ただ、知らない土地を、歩いた。

その町に、特別な理由が、あったわけでは、ない。

ただ、列車が、そこで、止まったから、降りた。それだけだった。

潮の匂いが、強い町だった。

古い、瓦屋根の家が、海風に、黒ずんでいた。

漁港の近くの食堂で、地物の刺身定食を、腹いっぱい、食べた。

そして、腹ごなしに、郊外の、広い県道沿いを、歩いていた。

異変は、突然だった。

歩いていると、急に、激しい眩暈に、襲われた。

立っていられず、その場に、しゃがみ込んだ。

吐き気と、腹痛が、同時に、押し寄せてきた。

額から、脂汗が、噴き出した。

わたしは、ガードレールに、すがるようにして、道端に、倒れ込んだ。

幸い、近くの住人らしい人が、気づいて、駆け寄ってくれた。

「大丈夫ですか。救急車、呼びますね」

その声を、遠くに聞きながら、わたしは、地面に、頬をつけて、横たわっていた。

アスファルトの、ざらりとした冷たさだけが、やけに、はっきりと、感じられた。

いま思えば、あの食あたりの苦しみは、尋常では、なかった。

ただの、刺身に、あたっただけ。

そう、診断は、された。

けれど、あれほどの、眩暈と、吐き気を、わたしは、後にも先にも、経験したことが、ない。

まるで、何かに、地面へと、引きずり倒されたような。

そんな、感覚だった。

いま思えば、あの瞬間こそが、あの女が、わたしに、取り憑いた、その時だったのかもしれない。

退院してから、わたしは、あの日のことを、何度も、思い返した。

刺身定食を、食べた、あの食堂。

県道を、歩いていた、あの時間。

倒れる、直前に、何か、見なかったか。

記憶を、たどってみても、あの女の姿は、倒れたあとに、しか、現れない。

まるで、わたしが、地に伏した、その瞬間に。

どこからか、ふっと、湧いて出たように。

どのくらい、そうしていたのか、覚えていない。

気づくと、わたしの周りには、いつのまにか、野次馬が、集まっていた。

道端で、見知らぬ男が、倒れている。

それは、まあ、人目を、引く光景だっただろう。

わたしは、恥ずかしさと、同時に、何か、言いようのない違和感を、覚えた。

救急隊が、わたしを、担架に乗せた。

運ばれる、その途中。

わたしは、横目で、ちらりと、野次馬の人たちを、見た。

その中に、ひとりだけ、雰囲気の、おかしな人が、いた。

見た目は、どこにでもいそうな、五十がらみの、女だった。

くしゃくしゃの、パーマ頭。

けれど、何か、変なのだ。

頭が、異様に、大きかった。

身体と比べて、四頭身ほどに、しか、見えない。

そして、その女は、大きく見開いた目で、まっすぐに、わたしを、凝視していた。

表情は、まったく、なかった。

わたしは、近くの、大きな病院に、運ばれた。

診断は、ただの、食あたりだった。

胃の洗浄をされ、点滴を、打たれた。

ひと晩、苦しんだが、翌日には、だいぶ、楽になった。

翌朝、連絡を受けた父が、車で、迎えに来てくれた。

病室で、点滴を受けながら、わたしは、看護師に、訊いた。

「あの……外に、女の人が、立っていませんでしたか」

看護師は、きょとんとした顔で、答えた。

「女の人ですか。いえ、誰も、いませんでしたよ」

わたしは、それ以上、何も、言えなかった。

自分にだけ、見えているのだ、と、そのとき、悟った。

夜、暗い病室で、わたしは、なかなか、眠れなかった。

窓の外の、暗がりを、見るのが、こわかった。

父の運転する車の、助手席に、乗り込んだとき。

わたしは、ようやく、人心地が、ついた。

迎えに来た父は、やつれたわたしの顔を見て、心配そうに、言った。

「ひどい顔だな。ちゃんと、飯は、食ってるのか」

わたしは、曖昧に、うなずいた。

病院の門に立つ女のことは、口に、出せなかった。

言えば、頭が、おかしくなったと、思われる。

そう思うと、ますます、こわくなった。

わたしは、シートに、深く、身を沈めて、目を、つぶった。

けれど、瞼の裏にも、あの、見開いた目が、焼きついて、離れなかった。

遠ざかっていく、病院を、ぼんやりと、眺めていた。

そのときだ。

病院の、門の前に。

あの、女が、立っていた。

くしゃくしゃのパーマ頭。

四頭身の、大きな頭。

見開いた目で、じっと、こちらを、見ている。

昨日、道端にいた、あの女に、間違いなかった。

なぜ、ここに。

わたしは、ぞっとして、目を、そらした。

父には、何も、言えなかった。

それから、だった。

わたしは、あの女を、いろいろな場所で、見かけるように、なった。

最初に、旅先で、見たのは、それから、三日後だった。

隣の県の、城跡を、ひとりで、歩いていた。

観光客は、まばらだった。

石垣の、向こう。

枯れた、堀のほとりに、あの女が、立っていた。

四頭身の、大きな頭を、こちらに、向けて。

わたしは、息を、のんだ。

次の瞬間、目を、こらすと、もう、そこには、誰も、いなかった。

旅を、続けても。

地元に、戻っても。

駅の、雑踏の中。

商店街の、人ごみの向こう。

必ず、あの、四頭身の女が、いた。

そして、いつも、無表情で、わたしを、見ていた。

それから、女は、頻繁に、現れるように、なった。

デパートの、エスカレーターの、下り口。

夜の、コンビニの、ガラスの、向こう。

通勤電車の、隣のホーム。

いつも、人ごみの、すこし、向こう側に。

群衆に、まぎれるように、けれど、確かに、そこに、いた。

そして、必ず、無表情で、わたしだけを、見ていた。

周りの誰も、その女に、気づいていないようだった。

あるとき、わたしは、ひとつ、試してみたことが、ある。

いつものように、駅のホームの、向こう側に、女を、見つけた。

わたしは、思いきって、その女のほうへ、歩み寄ってみた。

階段を、駆け下り、人ごみを、かき分けて。

近づけば、その正体が、わかるかもしれない。

そう、思ったのだ。

けれど。

近づこうとすると、女は、ふっと、人波の中に、紛れて、消えた。

そして、ふと、別の方向を見ると。

また、同じ距離だけ、離れた場所に、立っているのだ。

最初は、本当に、こわかった。

半年ほど、わたしは、ひとりで、耐えた。

けれど、限界が、来た。

わたしは、地元の、古い寺の、住職を、訪ねた。

事情を話すと、住職は、静かに、うなずいた。

「なるほど。よほど、強い、念ですな」

住職は、長い時間をかけて、丁寧に、お経を、あげてくれた。

そのあいだ、わたしは、心が、少し、軽くなった気が、した。

けれど、寺を出て、駅に着いたとき。

改札の、向こうに、あの女が、立っていた。

何も、変わっていなかった。

わたしは、近所の寺の、住職に、お経を、あげてもらった。

霊能者を名乗る人にも、何人か、祈祷を、頼んだ。

けれど、何の、効き目も、なかった。

住職は、ともかく。

霊能者などというのは、たぶん、ほとんどが、いんちきなのだろう。

わたしは、藁にもすがる思いで、霊能者を、頼った。

何人かに、会った。

ある男は、わたしの背中に手をかざして、もっともらしく、言った。

「ああ、見えます。女の霊が、あなたに、強い恨みを」

そして、高額な、壺や、札を、勧めてきた。

わたしは、断って、その場を、後にした。

恨み、などと、いう感じは、しなかったからだ。

あの女の目には、恨みも、悲しみも、何も、なかった。

祈祷を頼んだ霊能者の、ひとりが、別れぎわに、妙なことを、言った。

「あれは、祓うものじゃ、ない」

「あれは、ただ、見ているだけだ。あんたを、見届けるまで」

見届ける、とは、何を。

訊き返したが、その男は、それ以上は、答えなかった。

いまでも、その言葉が、ときどき、夜中に、よみがえる。

ただ、見ている。それだけ、だった。

何度、試しても、同じだった。

わたしと、女のあいだの距離は、いつも、ぴたりと、同じ。

歩幅にして、五十歩ほど。

五十メートルほどの、距離が、保たれていた。

近づけば、遠ざかる。

離れれば、いつのまにか、また、現れる。

見えない、糸で、つながれているように。

その距離だけは、けっして、縮まらなかった。

だからこそ、こわかった。

あの女のせいで、わたしの生活は、すっかり、変わった。

人ごみが、こわくなった。

駅も、商店街も、できるだけ、避けるように、なった。

友人と会っても、つい、相手の、肩ごしの、向こうを、見てしまう。

「どうした。後ろに、何か、あるのか」

そう、訊かれて、わたしは、慌てて、首を振る。

こんなこと、誰に、話せるだろう。

話したところで、信じて、もらえるはずも、ない。

いまでも、わたしは、あの女を、見る。

遠くの、人ごみの中に。

ふと、あの、奇怪な女の姿を、見つけてしまう。

何が、こわいかって。

あの女の、何を、考えているのか、まったく読めない、あの表情だ。

生きている、人間の、ものとは、思えない。

いまでは、わたしは、あの女が、現れても。

前ほど、取り乱しは、しなくなった。

慣れた、というのとは、違う。

ただ、あきらめた、のだ。

祓えないものは、祓えない。

だったら、共に、生きていくしか、ない。

いまの仕事の、同僚にも、誰にも、この話は、していない。

ただ、休憩時間に、窓際に立つのを、わたしは、避けている。

ガラスに、外の景色が、映るからだ。

その、景色の、ずっと、奥に。

いつか、あの女が、映り込んでいるのを、見つけてしまいそうで。

それが、こわい。

だから、わたしは、いつも、壁を、背にして、座る。

一度だけ、写真に、撮ろうと、したことが、ある。

人ごみの向こうに、女を見つけた瞬間。

わたしは、携帯電話を、かまえて、シャッターを、切った。

あとで、確認すると。

そこには、ただの、雑踏が、写っているだけだった。

女の姿は、どこにも、なかった。

わたしの目にだけ、あの女は、見えている。

あるとき、思いきって、あの、海沿いの町に、もう一度、行ってみた。

わたしが、倒れた、あの県道。

あのとき、助けてくれた住人を、探して、礼を、言いたかった。

そして、できれば、あの女のことも、訊いてみたかった。

近所の、古い雑貨屋で、わたしは、店番の老婆に、尋ねた。

「この辺りで、頭の、やけに大きい、女の人を、見ませんか」

老婆は、しばらく、わたしの顔を、見ていた。

そして、低い声で、言った。

「あんた、あの人に、見込まれたねえ」

それだけ言うと、老婆は、奥へ、引っ込んで、二度と、出てこなかった。

その事実が、何よりも、わたしを、孤独にした。

友人に、一度だけ、すべてを、打ち明けたことが、ある。

酒の席で、酔った勢いで、つい、口を、滑らせた。

友人は、笑って、こう言った。

「疲れてるんだよ、おまえ。一度、病院で、診てもらえ」

わたしは、それきり、誰にも、話すのを、やめた。

きっと、彼の言うとおり、なのだろう。

そう、思おうとした。

でも、それなら、なぜ、写真には、写らないあの女が。

いつも、寸分たがわず、同じ距離に、立っているのか。

そう、思うように、なった。

ただ、ひとつだけ、わかったことが、ある。

あの女は、けっして、近づいては、こない。

いつも、ずっと、遠くから、見ている。

根拠は、ないけれど。

ある一定の、距離より、内側には、入ってこられないのではないか、と、思う。

あれ以来、五十メートルより内側で、あの女を見たことは、一度もない。

オチが、なくて、すまない。

でも、霊というのは、実際、こういうものなのだと、思う。

理不尽で。

理由も、わからず。

あの女が、いったい、何者なのか。

生きているころに、わたしと、何か、関わりが、あったのか。

それとも、ただ、倒れたわたしに、たまたま、取り憑いただけなのか。

わたしには、知る、すべもない。

霊というのは、物語のように、わかりやすい、恨みや、未練を、持っているとは、限らない。

理由もなく、ただ、そこに、在る。

あの海沿いの町の、潮の匂いを、いまも、ときどき、思い出す。

あれが、わたしの、ふつうの人生の、最後の匂いだった気が、する。

あの定食を、食べなければ。あの県道を、歩かなければ。

そう、悔やんでも、もう、遅い。

理不尽というのは、こういうことを、言うのだろう。

それが、いちばん、こわいのだと、いまは、思う。

そして、簡単には、祓われても、くれない。

見込まれた、とは、どういう意味なのか。

わたしには、わからない。

あれから、その町には、二度と、行っていない。

あの女が、なぜ、わたしを、選んだのか。

なぜ、近づいては、こないのか。

何を、待っているのか。

何ひとつ、わからないままだ。

そんな話だ。

この話を、信じてくれと、言うつもりは、ない。

気のせいだと、笑ってくれて、かまわない。

むしろ、そう思える、あなたが、うらやましい。

いまも、ふと、人ごみに、目を、やる。

すると、五十メートルほど、向こうに。

あの、四頭身の女が、立っている。

見開いた目で、無表情に、わたしを、見ている。

何年経っても、女は、歳を、とらない。

夜、ひとりで、部屋にいると。

窓の外の、街灯の下に、あの女が、立っていないか。

つい、確かめて、しまう。

幸い、家の中にまでは、入ってこない。

窓の外の、ちょうど、五十メートルほどの、電柱の、陰。

そこが、いつもの、定位置だった。

あのときのままの、姿で、ただ、わたしを、見続けている。

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