霊というものが、どんなものか、その時まで、わたしは、知らなかった。
いまは、こう思う。
あれは、通り魔のように、理不尽な存在だ、と。
※
十年ほど前、わたしは、当てもなく、日本中を、ひとりで歩き回っていた。
仕事を辞めたばかりで、行き先も、帰る場所も、決めていなかった。
その日も、海沿いの、小さな町に、降り立った。
そのころのわたしは、自分の人生に、すっかり、疲れていた。
勤めていた会社で、心を、すり減らし、逃げるように、辞めた。
あてのない旅は、その、傷をなめるような、ものだった。
夜は、安い宿に泊まり、昼は、ただ、知らない土地を、歩いた。
その町に、特別な理由が、あったわけでは、ない。
ただ、列車が、そこで、止まったから、降りた。それだけだった。
潮の匂いが、強い町だった。
古い、瓦屋根の家が、海風に、黒ずんでいた。
漁港の近くの食堂で、地物の刺身定食を、腹いっぱい、食べた。
そして、腹ごなしに、郊外の、広い県道沿いを、歩いていた。
※
異変は、突然だった。
歩いていると、急に、激しい眩暈に、襲われた。
立っていられず、その場に、しゃがみ込んだ。
吐き気と、腹痛が、同時に、押し寄せてきた。
額から、脂汗が、噴き出した。
わたしは、ガードレールに、すがるようにして、道端に、倒れ込んだ。
※
幸い、近くの住人らしい人が、気づいて、駆け寄ってくれた。
「大丈夫ですか。救急車、呼びますね」
その声を、遠くに聞きながら、わたしは、地面に、頬をつけて、横たわっていた。
アスファルトの、ざらりとした冷たさだけが、やけに、はっきりと、感じられた。
いま思えば、あの食あたりの苦しみは、尋常では、なかった。
ただの、刺身に、あたっただけ。
そう、診断は、された。
けれど、あれほどの、眩暈と、吐き気を、わたしは、後にも先にも、経験したことが、ない。
まるで、何かに、地面へと、引きずり倒されたような。
そんな、感覚だった。
いま思えば、あの瞬間こそが、あの女が、わたしに、取り憑いた、その時だったのかもしれない。
退院してから、わたしは、あの日のことを、何度も、思い返した。
刺身定食を、食べた、あの食堂。
県道を、歩いていた、あの時間。
倒れる、直前に、何か、見なかったか。
記憶を、たどってみても、あの女の姿は、倒れたあとに、しか、現れない。
まるで、わたしが、地に伏した、その瞬間に。
どこからか、ふっと、湧いて出たように。
※
どのくらい、そうしていたのか、覚えていない。
気づくと、わたしの周りには、いつのまにか、野次馬が、集まっていた。
道端で、見知らぬ男が、倒れている。
それは、まあ、人目を、引く光景だっただろう。
わたしは、恥ずかしさと、同時に、何か、言いようのない違和感を、覚えた。
※
救急隊が、わたしを、担架に乗せた。
運ばれる、その途中。
わたしは、横目で、ちらりと、野次馬の人たちを、見た。
その中に、ひとりだけ、雰囲気の、おかしな人が、いた。
※
見た目は、どこにでもいそうな、五十がらみの、女だった。
くしゃくしゃの、パーマ頭。
けれど、何か、変なのだ。
頭が、異様に、大きかった。
身体と比べて、四頭身ほどに、しか、見えない。
そして、その女は、大きく見開いた目で、まっすぐに、わたしを、凝視していた。
表情は、まったく、なかった。
※
わたしは、近くの、大きな病院に、運ばれた。
診断は、ただの、食あたりだった。
胃の洗浄をされ、点滴を、打たれた。
ひと晩、苦しんだが、翌日には、だいぶ、楽になった。
翌朝、連絡を受けた父が、車で、迎えに来てくれた。
病室で、点滴を受けながら、わたしは、看護師に、訊いた。
「あの……外に、女の人が、立っていませんでしたか」
看護師は、きょとんとした顔で、答えた。
「女の人ですか。いえ、誰も、いませんでしたよ」
わたしは、それ以上、何も、言えなかった。
自分にだけ、見えているのだ、と、そのとき、悟った。
夜、暗い病室で、わたしは、なかなか、眠れなかった。
窓の外の、暗がりを、見るのが、こわかった。
※
父の運転する車の、助手席に、乗り込んだとき。
わたしは、ようやく、人心地が、ついた。
迎えに来た父は、やつれたわたしの顔を見て、心配そうに、言った。
「ひどい顔だな。ちゃんと、飯は、食ってるのか」
わたしは、曖昧に、うなずいた。
病院の門に立つ女のことは、口に、出せなかった。
言えば、頭が、おかしくなったと、思われる。
そう思うと、ますます、こわくなった。
わたしは、シートに、深く、身を沈めて、目を、つぶった。
けれど、瞼の裏にも、あの、見開いた目が、焼きついて、離れなかった。
遠ざかっていく、病院を、ぼんやりと、眺めていた。
そのときだ。
病院の、門の前に。
あの、女が、立っていた。
※
くしゃくしゃのパーマ頭。
四頭身の、大きな頭。
見開いた目で、じっと、こちらを、見ている。
昨日、道端にいた、あの女に、間違いなかった。
なぜ、ここに。
わたしは、ぞっとして、目を、そらした。
父には、何も、言えなかった。
※
それから、だった。
わたしは、あの女を、いろいろな場所で、見かけるように、なった。
最初に、旅先で、見たのは、それから、三日後だった。
隣の県の、城跡を、ひとりで、歩いていた。
観光客は、まばらだった。
石垣の、向こう。
枯れた、堀のほとりに、あの女が、立っていた。
四頭身の、大きな頭を、こちらに、向けて。
わたしは、息を、のんだ。
次の瞬間、目を、こらすと、もう、そこには、誰も、いなかった。
旅を、続けても。
地元に、戻っても。
駅の、雑踏の中。
商店街の、人ごみの向こう。
必ず、あの、四頭身の女が、いた。
そして、いつも、無表情で、わたしを、見ていた。
それから、女は、頻繁に、現れるように、なった。
デパートの、エスカレーターの、下り口。
夜の、コンビニの、ガラスの、向こう。
通勤電車の、隣のホーム。
いつも、人ごみの、すこし、向こう側に。
群衆に、まぎれるように、けれど、確かに、そこに、いた。
そして、必ず、無表情で、わたしだけを、見ていた。
周りの誰も、その女に、気づいていないようだった。
あるとき、わたしは、ひとつ、試してみたことが、ある。
いつものように、駅のホームの、向こう側に、女を、見つけた。
わたしは、思いきって、その女のほうへ、歩み寄ってみた。
階段を、駆け下り、人ごみを、かき分けて。
近づけば、その正体が、わかるかもしれない。
そう、思ったのだ。
けれど。
近づこうとすると、女は、ふっと、人波の中に、紛れて、消えた。
そして、ふと、別の方向を見ると。
また、同じ距離だけ、離れた場所に、立っているのだ。
※
最初は、本当に、こわかった。
半年ほど、わたしは、ひとりで、耐えた。
けれど、限界が、来た。
わたしは、地元の、古い寺の、住職を、訪ねた。
事情を話すと、住職は、静かに、うなずいた。
「なるほど。よほど、強い、念ですな」
住職は、長い時間をかけて、丁寧に、お経を、あげてくれた。
そのあいだ、わたしは、心が、少し、軽くなった気が、した。
けれど、寺を出て、駅に着いたとき。
改札の、向こうに、あの女が、立っていた。
何も、変わっていなかった。
わたしは、近所の寺の、住職に、お経を、あげてもらった。
霊能者を名乗る人にも、何人か、祈祷を、頼んだ。
けれど、何の、効き目も、なかった。
住職は、ともかく。
霊能者などというのは、たぶん、ほとんどが、いんちきなのだろう。
わたしは、藁にもすがる思いで、霊能者を、頼った。
何人かに、会った。
ある男は、わたしの背中に手をかざして、もっともらしく、言った。
「ああ、見えます。女の霊が、あなたに、強い恨みを」
そして、高額な、壺や、札を、勧めてきた。
わたしは、断って、その場を、後にした。
恨み、などと、いう感じは、しなかったからだ。
あの女の目には、恨みも、悲しみも、何も、なかった。
祈祷を頼んだ霊能者の、ひとりが、別れぎわに、妙なことを、言った。
「あれは、祓うものじゃ、ない」
「あれは、ただ、見ているだけだ。あんたを、見届けるまで」
見届ける、とは、何を。
訊き返したが、その男は、それ以上は、答えなかった。
いまでも、その言葉が、ときどき、夜中に、よみがえる。
ただ、見ている。それだけ、だった。
何度、試しても、同じだった。
わたしと、女のあいだの距離は、いつも、ぴたりと、同じ。
歩幅にして、五十歩ほど。
五十メートルほどの、距離が、保たれていた。
近づけば、遠ざかる。
離れれば、いつのまにか、また、現れる。
見えない、糸で、つながれているように。
その距離だけは、けっして、縮まらなかった。
だからこそ、こわかった。
あの女のせいで、わたしの生活は、すっかり、変わった。
人ごみが、こわくなった。
駅も、商店街も、できるだけ、避けるように、なった。
友人と会っても、つい、相手の、肩ごしの、向こうを、見てしまう。
「どうした。後ろに、何か、あるのか」
そう、訊かれて、わたしは、慌てて、首を振る。
こんなこと、誰に、話せるだろう。
話したところで、信じて、もらえるはずも、ない。
※
いまでも、わたしは、あの女を、見る。
遠くの、人ごみの中に。
ふと、あの、奇怪な女の姿を、見つけてしまう。
何が、こわいかって。
あの女の、何を、考えているのか、まったく読めない、あの表情だ。
生きている、人間の、ものとは、思えない。
いまでは、わたしは、あの女が、現れても。
前ほど、取り乱しは、しなくなった。
慣れた、というのとは、違う。
ただ、あきらめた、のだ。
祓えないものは、祓えない。
だったら、共に、生きていくしか、ない。
いまの仕事の、同僚にも、誰にも、この話は、していない。
ただ、休憩時間に、窓際に立つのを、わたしは、避けている。
ガラスに、外の景色が、映るからだ。
その、景色の、ずっと、奥に。
いつか、あの女が、映り込んでいるのを、見つけてしまいそうで。
それが、こわい。
だから、わたしは、いつも、壁を、背にして、座る。
一度だけ、写真に、撮ろうと、したことが、ある。
人ごみの向こうに、女を見つけた瞬間。
わたしは、携帯電話を、かまえて、シャッターを、切った。
あとで、確認すると。
そこには、ただの、雑踏が、写っているだけだった。
女の姿は、どこにも、なかった。
わたしの目にだけ、あの女は、見えている。
あるとき、思いきって、あの、海沿いの町に、もう一度、行ってみた。
わたしが、倒れた、あの県道。
あのとき、助けてくれた住人を、探して、礼を、言いたかった。
そして、できれば、あの女のことも、訊いてみたかった。
近所の、古い雑貨屋で、わたしは、店番の老婆に、尋ねた。
「この辺りで、頭の、やけに大きい、女の人を、見ませんか」
老婆は、しばらく、わたしの顔を、見ていた。
そして、低い声で、言った。
「あんた、あの人に、見込まれたねえ」
それだけ言うと、老婆は、奥へ、引っ込んで、二度と、出てこなかった。
その事実が、何よりも、わたしを、孤独にした。
友人に、一度だけ、すべてを、打ち明けたことが、ある。
酒の席で、酔った勢いで、つい、口を、滑らせた。
友人は、笑って、こう言った。
「疲れてるんだよ、おまえ。一度、病院で、診てもらえ」
わたしは、それきり、誰にも、話すのを、やめた。
きっと、彼の言うとおり、なのだろう。
そう、思おうとした。
でも、それなら、なぜ、写真には、写らないあの女が。
いつも、寸分たがわず、同じ距離に、立っているのか。
そう、思うように、なった。
※
ただ、ひとつだけ、わかったことが、ある。
あの女は、けっして、近づいては、こない。
いつも、ずっと、遠くから、見ている。
根拠は、ないけれど。
ある一定の、距離より、内側には、入ってこられないのではないか、と、思う。
あれ以来、五十メートルより内側で、あの女を見たことは、一度もない。
※
オチが、なくて、すまない。
でも、霊というのは、実際、こういうものなのだと、思う。
理不尽で。
理由も、わからず。
あの女が、いったい、何者なのか。
生きているころに、わたしと、何か、関わりが、あったのか。
それとも、ただ、倒れたわたしに、たまたま、取り憑いただけなのか。
わたしには、知る、すべもない。
霊というのは、物語のように、わかりやすい、恨みや、未練を、持っているとは、限らない。
理由もなく、ただ、そこに、在る。
あの海沿いの町の、潮の匂いを、いまも、ときどき、思い出す。
あれが、わたしの、ふつうの人生の、最後の匂いだった気が、する。
あの定食を、食べなければ。あの県道を、歩かなければ。
そう、悔やんでも、もう、遅い。
理不尽というのは、こういうことを、言うのだろう。
それが、いちばん、こわいのだと、いまは、思う。
そして、簡単には、祓われても、くれない。
見込まれた、とは、どういう意味なのか。
わたしには、わからない。
あれから、その町には、二度と、行っていない。
あの女が、なぜ、わたしを、選んだのか。
なぜ、近づいては、こないのか。
何を、待っているのか。
何ひとつ、わからないままだ。
そんな話だ。
この話を、信じてくれと、言うつもりは、ない。
気のせいだと、笑ってくれて、かまわない。
むしろ、そう思える、あなたが、うらやましい。
いまも、ふと、人ごみに、目を、やる。
すると、五十メートルほど、向こうに。
あの、四頭身の女が、立っている。
見開いた目で、無表情に、わたしを、見ている。
何年経っても、女は、歳を、とらない。
夜、ひとりで、部屋にいると。
窓の外の、街灯の下に、あの女が、立っていないか。
つい、確かめて、しまう。
幸い、家の中にまでは、入ってこない。
窓の外の、ちょうど、五十メートルほどの、電柱の、陰。
そこが、いつもの、定位置だった。
あのときのままの、姿で、ただ、わたしを、見続けている。