
小学六年生の夏休みの直前、僕たちは夜の学校に忍び込んだ。
その夜、三階のトイレで見たものを、僕は今でも説明できない。
正確に言うと、見たのは、人ではない。
閉まっていた、四つの扉だった。
通用口と四人の足音
言い出したのは、新堂君だった。
「うちの学校って、七不思議がないよね」
「だったら、俺たちで作ればいい」
肝試しのメンバーは、新堂君、荒井君、細田君、そして僕の四人だった。
昼休みのうちに、新堂君が、通用口の鍵をこっそり開けておいたという。
夜の八時過ぎ、僕たちは校庭の隅の金網を乗り越えて、その通用口から校舎に入った。
夏の夜の校舎は、昼間とは別の建物のようだった。
消火栓の赤いランプだけが、廊下の奥でぼんやり光っていた。
床のワックスの匂いに、古い木の机の匂いが混じっていた。
一階の教室の前を通ると、黒板に、昼間の日直の字がそのまま残っていた。
「今日の目標 廊下を走らない」
その一行が、夜の中では、妙に頼りなく見えた。
理科室の前では、人体模型が、擦りガラス越しに白く浮かんでいた。
誰も、それについて冗談を言わなかった。
「元々は墓場だったって聞いたよ」
荒井君が、わざと低い声で言った。
「ありがちだよね」
「墓場って土地が安いから、学校を建てるのに都合がいいんだって」
そんな話をしながら、僕たちは一列になって廊下を進んだ。
目指していたのは、三階の端にある音楽室だった。
肖像画の目が動いたり、誰もいないのにピアノが鳴ったりしたら面白い。
理由は、それだけだった。
階段を上るたびに、上履きではなく、スニーカーの足音が壁に反響した。
一段、二段、三段。
四人分の足音が、少しずつずれて重なっていた。
踊り場で、新堂君が足を止めた。
僕たちも、つられて止まった。
その瞬間、僕は気づいた。
自分たちが止まったあとで、もう一歩だけ、足音が聞こえた。
タン。
ほんの小さな音だった。
僕は何も言わなかった。
言ったら、本当のことになってしまいそうだったからだ。
後ろを振り返ると、階段の下の暗がりに、掃除用具入れの扉が少し開いていた。
風のせいだと、僕は思うことにした。
通用口の方からは、虫の声がかすかに聞こえていた。
それが、いつの間にか、ぴたりと止んでいた。
音楽室の前に着くと、扉には、鍵がかかっていた。
「なんだよ、鍵、用意してないのかよ」
「詰めが甘いなあ」
荒井君が、ふてくされた顔で扉を叩いた。
普通の教室の扉には、廊下側に覗き窓がある。
けれど、音楽室や理科室のような特別教室の窓は、擦りガラスだった。
中を窺うことはできない。
もちろん、ピアノの音も聞こえなかった。
「つまんねー」
「帰ろうぜ」
険悪な空気が、廊下に漂った。
三階のトイレ
「あの、僕、トイレに行きたくなっちゃった」
細田君が、小さな声で言った。
実は僕も、さっきから催していた。
「じゃあ、校門で待ってるから、早く済ませてこいよ」
新堂君と荒井君は、先に階段を下りていった。
僕と細田君は、廊下の突き当たりの三階のトイレへ向かった。
扉を押すと、中は、もう明るかった。
白い蛍光灯が、ジジ、と小さく鳴っていた。
タイルの床が、ひどく濡れて光っていた。
鼻の奥に、湿った土のような匂いがした。
蛇口から、水がぽたり、ぽたりと落ちていた。
誰かが、ついさっきまで手を洗っていたような落ち方だった。
洗面台の鏡には、僕たち二人の後ろに、個室の扉が四つ、映っていた。
小用を足していると、細田君が個室の方をちらちらと見ているのに気づいた。
「ねえ、なんか変じゃない?」
「そうかな」
僕は、笑ってみせた。
個室は、奥に四つ並んでいた。
どの扉も、きちんと閉まっている。
何もおかしくないじゃないか、と思った。
用を足し終えても、細田君の様子は変わらなかった。
「やっぱり変だよ」
「僕たち、電気、点けた?」
そうだ。
照明は点いていた。
けれど、僕はスイッチに触っていない。
思い返せば、廊下から見えたときから、もう点いていた。
ぞくり、と背中が冷えた。
その時だった。
キイイイイイ。
一番奥の個室の扉が、ゆっくり動いた。
ほんの数センチ、内側から押されるように、扉が開いた。
「うわああああ!」
僕たちは、叫び声を上げて飛び出した。
階段を二段飛ばしで駆け下り、通用口から校庭へ転がり出た。
校庭の真ん中で、息を整えながら校舎を振り返った。
三階の窓の一つに、誰かが立ってこちらを見ているようだった。
ちょうど、さっき逃げ出したトイレの窓だった。
人影は、動かなかった。
叫び声を聞いて待っていた新堂君と荒井君は、最初は僕たちを笑っていた。
けれど、校門を飛び越えて走り去る様子を見て、慌てて追いかけてきた。
公園まで逃げて、やっと足を止めた。
ブランコの鎖が、夜風に、かすかに鳴っていた。
細田君は、肩で息をしながら、ずっと自分の手のひらを見つめていた。
手のひらは、汗でびっしょり濡れていた。
二人に何があったのか聞かれて、僕たちはトイレでの出来事を話した。
新堂君は、「くだらない」と言って、先に帰ってしまった。
荒井君だけが、その場に居合わせなかったことを、本気で悔しがっていた。
職員室の風間先生
翌日の放課後、僕たち四人は、職員室に呼び出された。
昨夜の当直は、担任の風間先生だったらしい。
「用を足していると、叫び声が聞こえたんだ」
「済ませて外を見たら、校庭を走っていく君たちが見えた」
先生は、怒鳴らなかった。
机の上には、昨夜の見回りの記録だろうか、細かい字で埋まった用紙が置かれていた。
ただ、静かに、切々と話した。
「学校によっては、警察を呼ぶところもあるんだぞ」
「やっていいことと悪いことの区別くらい、つけなさい」
「もうすぐ、中学生になるんだから」
僕は、胸の奥で、少しだけほっとしていた。
電気を点けたのも、個室の扉を動かしたのも、三階の窓の人影も。
全部、風間先生だったのだ。
そう思えば、昨夜の怖さが、一気にしぼんでいく気がした。
「しかし、どこから入ったんだ?」
先生が、不思議そうに首をかしげた。
「あの、通用口です。昼休みの間に開けておいて」
「おかしいな」
「授業が終わってから、ちゃんと確認して閉めたんだがな」
「見回りをしたときにも、閉まっていたはずだが」
その時は、先生の勘違いだろうと、僕は思った。
職員室を出ると、細田君が、僕の袖を引いた。
顔色が、よくなかった。
「ちょっと、確かめたいことがあるんだ」
開いたままの個室
細田君に連れられて、僕たちは、昼間の三階のトイレに入った。
夕方の光が、窓から斜めに差していた。
昨夜の湿った匂いは、しなかった。
個室の扉は、四つとも、開いていた。
僕は、それを見て、息を呑んだ。
蝶番は古く、錆びた鉄の匂いがした。
試しに、一番手前の扉を、指で押してみた。
扉は、ギイ、と音を立てて閉まりかけ、すぐに、ゆっくり開き直した。
うちの学校のトイレの扉は、金具にバネが仕込んである。
鍵をかけない限り、手を離せば、勝手に開いてしまう。
掃除当番のとき、何度も押さえて閉めようとして、そのたびに戻された。
開いているのが、普通なのだ。
それなのに、昨夜は、四つとも閉まっていた。
どれか一つに、風間先生が入っていたとしても。
あとの三つには、誰が入っていたのだろう。
僕と細田君は、顔を見合わせた。
お互いに、同じことを考えているのが、分かった。
それでも、どちらも、口に出さなかった。
僕たちは、それきり、その話に触れないようにした。
夏休みの間も、二学期が始まってからも、四人で集まることは、もうなかった。
廊下ですれ違うたび、細田君と僕は、軽く目を伏せた。
三階への階段を、僕は卒業まで、一度も使わなかった。
新堂君だけは、「くだらない」という態度を、最後まで崩さなかった。
今になって思い返すと、おかしな点は、まだある。
先生は、「用を足している最中に叫び声を聞いた」と言った。
個室から出てくるときではない。
宿直室は、一階にある。
わざわざ三階のトイレを使う理由が、先生にはない。
見回りは、僕たちを見つけたあとだと言っていた。
僕が聞いた、キイイ、という音は、扉が開く音だった。
鍵を外す音は、一度もしなかった。
鍵をかけない限り、閉まるはずのない扉が、四つとも閉まっていた。
もし、あのまま待っていたら。
奥の扉の向こうから、何が出てきたのだろう。
先日、同じように夜の学校の怪異を扱った話として、廃ホテルでの肝試しを読み返した。
場所が変わっても、闇の中で開く扉の話は、どこか似ている。
廃墟になった建物へ入り込む話は、廃墟ホテルの調査にも残されている。
母校は、少子化のため、近隣の学校と合併した。
校舎は、数年前に取り壊された。
更地になった校庭の隅に立って、僕は一度だけ、三階の高さを見上げた。
そこには、空しかなかった。
夏の終わりの風が、校庭の砂を、ゆっくり巻き上げていた。
もう、確かめる術はない。