
高校一年の夏、満員電車で空いていた席に座り続けて、半年が経った頃の話だ。
今でも、あの朝のことを思い出すと、首の後ろがむずむずする。
誰かに話すと茶化されるので、ここに書いておく。
信じてもらえなくてもいい。
ただ、起きたことを、起きた順に残しておきたいだけだ。
当時の記憶は、驚くほど鮮明に、今も頭のなかに焼き付いている。
特定されたくないから、場所は伏せる。
あの朝の空いていた席のことは、十年以上経った今も、ときどき夢に出てくる。
夢のなかの俺は、いつも、まだ制服を着ている。
神奈川の私鉄で、朝六時半の電車だったとだけ書いておく。
同じ路線に乗る人なら、「ああ、あの車両か」と気づくかもしれない。
もし心当たりがあっても、どうか、確かめには行かないでほしい。
空いていた席の冷たさ
当時の俺は、ぴかぴかの新入生で、遠距離通学をしていた。
家から高校までは、電車を乗り継いで二時間かかった。
その大半は、朝の通勤ラッシュのなかを、立ちっぱなしで過ごすことになる。
高校生といえども、二時間の立ちっぱなしは、なかなかきつい。
だから、座席の確保は、毎朝の最重要課題だった。
空いた席を目で探して、降りそうな人の前に陣取り、祈るような気持ちで待つ。
そんな浅ましい努力を、毎朝、繰り返していた。
座れれば、本が読める。
携帯もいじりやすい。
テスト前なら、宿題の最後の仕上げだって、どうにかなる。
そんな俺が、入学して一か月ほど経った頃に、あることに気づいた。
満員の車内なのに、いつも空いている席がある。
朝六時半の電車の、三号車。
朝のラッシュ時は、ロングシートの三ドア車が主力だが、先頭と最後尾だけは、ボックスシートの車両が混ざっている。
その、三号車の前寄りのボックスシートの、進行方向右側の下座。
そこだけが、なぜか、毎朝、空いていた。
最初の頃は、運が良いだけだと思った。
でも、半月続くと、さすがにおかしい、と気づく。
隣の席も、向かいの席も、詰めて座る人がいるのに、その一席だけ、ぽっかり空いているのだ。
しめたもんだ、と思った。
その日から、俺は迷わず、その席を使うようになった。
ホームの自販機で、温かい缶コーヒーを買って、席に着く。
それが、いつの間にか、俺の朝の儀式になっていた。
特等席気分だった。
ほかのおっさんや、汗臭そうな運動部らしい連中が、座席を探して右往左往している横で、俺だけが悠々と腰を下ろす。
ちょっと気取って、「羊たちの沈黙」の文庫本を開く。
自分が選ばれた人間になった気がして、気分が良かった。
改札を抜けた瞬間から、足は勝手に三号車の乗り場へ向かった。
ホームの端、風の通り道に立って、発車ベルを聞く。
ドアが開くと、俺は人の流れに逆らわず、でも他の誰よりも先に、あの空いていた席に座った。
座席の生地は、薄緑のモケットで、真ん中が少しだけすり減っていた。
そのすり減り方が、妙に均一なのが、今思えば不自然だった。
座面は、いつも、ほんのり冷たかった。
夏でも、冬でも、その冷たさは変わらなかった。
尻に触れた瞬間、すっと熱が吸い取られるような感覚があった。
それが妙に気持ちよくて、俺は、ますますその席が気に入ってしまった。
冬は暖房が効いていて、ほかの席は熱いくらいなのに、その席だけはひんやりしていた。
俺は、それを、日当たりの問題だろうと思っていた。
毎朝、同じ背広の老人が、その席の斜め前に立っていた。
白髪を丁寧に撫でつけた、小柄な人で、必ず文庫の時代小説を読んでいた。
その老人は、毎朝、その席の前だけ、わざと一歩ずれて立っていた。
半年が経ち、七月の半ばになった。
その頃には、空いていた席は、俺の定位置になっていた。
クラスの友達に自慢して、「羨ましいな」と言われたこともある。
誰も、その席が空いている理由を、考えようとはしなかった。
もちろん、俺もだ。
背もたれの向こうの声
期末テストが終わった日だった。
気が緩んでいた俺は、座席に腰を下ろすと、鞄から「鋼の錬金術師」の単行本を取り出した。
今日は漫画でも読むか、と思った。
もしかしたら、それが、いけなかったのかもしれない。
座ってから、そう時間も経たないうちに、背後から、何かボソボソした音が聞こえてきた。
最初は、聞き間違いだと思った。
隣の車両にいる、頭のおかしい奴の独り言だろうとも思った。
けれど、どうやらそうではない。
首の後ろのあたりから、生温かい空気が、ふわりと流れてきた。
夏場の通勤電車は、クーラーがガンガンに効いている。
生温かい風なんて、送られてくるはずがない。
それでも俺は、空調か配管の不具合だろうと思っていた。
次の瞬間、首の後ろが、ぴりりと痛んだ。
爪で引っかかれたような、鋭い痛みだった。
同時に、ボソボソした音が、急に大きくなった。
音ではなかった。
あれは、声だった。
誰かが、ボソボソと、何かを呟いている。
何を言っているかは、分からない。
耳を澄ませば澄ますほど、言葉の輪郭が、ほどけていった。
聞き取れそうな気がするのに、一語も聞き取れない。
その焦れったさが、かえって俺の注意を、背後へ引きつけた。
日本語ではないようにも、聞こえた。
お経のようにも、子守唄のようにも聞こえた。
抑揚がなく、ただ平らな声が、一定の間隔で、繰り返されていた。
俺のシートの背もたれの、すぐ後ろで。
誰も座っていないはずの、背もたれの向こうで。
振り向くな、と頭のどこかで声がした。
けれど、体が勝手に動いてしまった。
ゆっくりと、首を回した。
そこに、「ヤバそうなもの」がいた。
人の形をしていた。
けれど、目が、なかった。
口も、なかった。
頭は、タマゴのように丸く、髪の毛一本ない真っ白な肌をしていた。
服屋のマネキンのような感じだ。
でも、マネキンよりずっと怖かった。
だって、鼻すらないのだ。
真っ白でつるつるの何かが、俺と背もたれの隙間から、浮き上がるようにして、こちらを向いていた。
見つめていた、と書くのは、変かもしれない。
でも俺には、そうとしか思えなかった。
それは、ボソボソと何かを言いながら、俺の肩に、手を伸ばしてきた。
車内の他の乗客は、誰も気づいていないようだった。
つり革を握った背広の背中が、すぐ目の前で、揺れていた。
その向こうで、スマホをいじる女子高生が、顔を上げもしなかった。
世界のすべてが、普通の朝のままだった。
俺の座席の後ろだけが、そこから切り離されているように見えた。
顔と同じ、つるつるの白い指。
その人差し指の先だけが、赤かった。
全身が、汗でぐっしょり濡れた。
もしかしたら、少し漏らしていたかもしれない。
叫びながら席から飛び上がり、膝の上のリュックを鷲掴みにして、俺は一目散に走り出した。
立っているおっさんたちを、片っ端から突き飛ばした。
誰かに足を踏まれた気もするが、確かめる余裕はなかった。
七号車か八号車あたりまで逃げたところで、電車が次の駅に着いた。
縋るような思いで、ドアから飛び出した。
振り向くなんて、とてもできなかった。
追いかけてきている、としか思えなかった。
黒ずんだ制服の肩
遅刻確定だったが、あんなものと同じ電車に乗るのは、二度とごめんだった。
駅のベンチで、親に電話をかけた。
頭が痛いから、今日は休む、と嘘をついた。
家に戻る電車では、ロングシートの端に、小さくなって座った。
窓に映る自分の顔が、真っ青だった。
最寄り駅の改札を出てからも、足が震えて、何度も立ち止まった。
商店街のパン屋の匂いが、いつもより鼻につき、胃のなかのものが逆流しそうになった。
家の鍵を開ける手が、なかなか鍵穴に収まらなかった。
帰宅した俺を、母は訝しげに見た。
「あんた、何かやったの」
「何も、してない」
「ほんとに? 悪いこと、してない?」
親は、俺が何かヤバいことをやったのではないかと、疑っているようだった。
俺は、制服の背中に塩をかけてくれ、と頼んだ。
母は目を丸くしたが、台所から塩を持ってきて、ぱらぱらと振りかけてくれた。
「大丈夫。もう、何もついてないよ」
母は、俺の背中を、とん、と軽く叩いた。
理由を聞かずに、背中をさすってくれる手が、あの朝はありがたかった。
塩は、制服の背中を、白い砂のように転がった。
翌日は、普通に学校へ行った。
一本遅い電車に乗ったが、その日は何も起きなかった。
でも、前日に着ていた制服は、しばらく着られなかった。
母が洗濯機に入れようとして、短い悲鳴を上げたのだ。
「ちょっと、これ、どうしたの」
制服のズボンの尻と、上着の背中の部分が、どす黒く濡れていた。
乾いた血のような色だった。
けれど、血の匂いはしなかった。
代わりに、古い雨水のような、湿った匂いが染み付いていた。
席に接していた部分だけが、全部、俺のものではない黒さで染まっていた。
翌週、母がクリーニング店に持ち込んだが、店員は首をかしげた。
「これは……汚れというより、染みですね。落ちるかどうか」
結局、どの業者に出しても、黒ずみは落ちなかった。
制服は、そのままタンスの奥にしまわれ、一度も袖を通すことはなかった。
半年後、母が衣替えで引き出しを開けたとき、制服は、あの日のままの形で畳まれていた。
黒ずみの範囲は、少しも変わっていなかった。
けれど、母がタンスの戸を閉めた音は、いつもより小さかった。
さらに、母が上着の肩をめくったとき、俺は息を呑んだ。
左肩の、鎖骨に近い内側。
つまり、肌に直接触れる側の裏地に、小さな赤い点が、ひとつだけついていた。
指先ほどの大きさだった。
俺は、その場で、制服を捨ててくれと頼んだ。
その日から、俺は朝六時半の電車に乗るのをやめた。
通学路を変えたことは、友達にも担任にも、理由を話さなかった。
定期券の払い戻しの窓口で、駅員さんに「経路変更ですね」と事務的に言われたことだけ、妙に覚えている。
一本早い電車にも、一本遅い電車にも、試してみた。
けれど、どの電車にも、似たような空席が、ところどころにあるように思えてしまう。
満員電車の中で、ぽっかりと空いた席を見るたび、胃のあたりが冷たくなった。
結局、高校を卒業するまでの二年半、俺は座席に腰を下ろすことが、ほとんどなくなった。
満員電車で空いている席を見かけても、もう座れなくなった。
溜まりやすい場所の話
あれは一体何だったのか、今でも考える。
親に話しても信じてもらえず、当時の友達に話しても、茶化されるだけだった。
大人になってから、「それなりに見える人」と、知り合う機会があった。
会社の同期で、見える体質なのだと、本人は気軽に話していた。
飲み会の帰りに、思い切って、あの朝の話をしてみた。
居酒屋のカウンターは、焼き鳥の煙と、酔客の笑い声で満ちていた。
同期は、最初は半笑いで聞いていた。
けれど、「ボソボソ」と言った瞬間に、箸を持つ手が止まった。
同期は、焼き鳥の串を置いて、真顔になった。
「それは、溜まりやすい場所だな」
「溜まりやすい?」
「そう。ヤバいものが溜まりやすい場所って、本当にどこにでもあるんだよ」
同期は、ジョッキの縁を指でなぞった。
「たいていの人は、そういう場所に近づくと、嫌な気配を覚える。だから、普通の人は、そういう席を避けて座らない」
「なんとなく、座りたくない、って思うんだな」
「でも、お前みたいな霊感の薄い奴は、そういう気配が分からない」
俺は、あの老人のことを思い出した。
居ないはずのものの気配を、人は案外よく察して避けるのだと、以前読んだ話で知った。
あの老人もまた、同じように感じ取っていたのだろう。
その席の前だけ、わざと一歩ずれて立っていた背広の老人のことを。
「それで、座っちゃったわけだ」
同期は、肩をすくめた。
「ちなみに、その席が空いていたのは、お前が気づく前からずっとだろ」
「たぶん、そうだと思う」
「なら、お前より前に座った奴も、きっといたはずだ」
同期の言葉が、胸の奥で、小さな棘のように残った。
「それに、そういう場所には、ときどき、本当にヤバい奴が、ふらりと立ち寄ったりもするらしい」
俺は、何も言えなかった。
先月、仕事の都合で、久しぶりにあの路線に乗った。
朝六時半の電車の、三号車。
ボックスシートは、まだあった。
その、進行方向右側の下座は、今も、ぽっかりと空いていた。
周りの乗客は、誰もそこを見ない。
祈るように、窓の外ばかり眺めている人もいた。
その中の何人かは、いかにも見慣れた手つきで、座席の手前で足をずらした。
後悔の念のような、人の想いが場所に染みつく話を、俺はいつの間にか疑わなくなっていた。
けれど、全員が、無意識のうちに避けている。
その様子が、十年前と、少しも変わっていなかった。
窓の外を、見慣れた工場の煙突が過ぎていった。
トンネルの手前で、車内灯が一瞬だけ暗くなり、また明るさを取り戻した。
その明滅のあいだ、空席のシートの上に、白い何かが座っているように見えたのは、気のせいだと思いたい。
駅で、あの老人に似た人を見た。
もちろん、同じ人のはずはない。
十年も経っているのだから、とっくに高齢だ。
けれど、その人は、俺に気づいて、立ち止まった。
「あの席に座った子は、だいたい三か月で顔を見なくなる」
老人は、低い声でそう言った。
「君は、半年もったな」
俺は、言葉を失った。
老人は、小さく一礼して、人混みに消えた。
その日の帰り、駅のホームで、制服姿の少年が、あの席の前に立っているのを見た。
夕方のホームは、傾いた日差しで、オレンジ色に染まっていた。
少年の影が、黄色い点字ブロックの上に、長く伸びていた。
イヤホンを片耳につけた、新入生らしい子だった。
俺は、声をかけようとした。
だが、喉が、固まった。
少年は、空いた席に、気づいたようだった。
一瞬だけ、首をかしげて、それから、腰を下ろした。
ドアが閉まる直前、少年の左肩に、小さな赤い点が見えた。