
これから話すのは、高校の先生から聞いた話だ。
先生が初めて担任を持った年に、窓の外ばかり見ている生徒がいたという。
霊感のある生徒だった。
先生はその一年間で、三つの不思議な体験をしたそうだ。
私は、その生徒の名前を聞かなかった。
先生も、最後まで口にしなかった。
霊感のある生徒の家庭訪問
最初に気づいたのは、授業中の視線だった。
その生徒の席は、窓際の最後列だった。
黒板ではなく、ひっきりなしに、窓の外を見ている。
先生は、はじめ、ただの変わった子だと思った。
特に気に留めることもなく、数週間が過ぎたという。
四月の終わり、恒例の家庭訪問があった。
その生徒の家にも、当然、足を運んだ。
お母さんは、生徒と並んで、にこやかに迎えてくれた。
茶の間で、成績や進路、部活の話をした。
ひととおり話が終わりかけた頃、先生はふと、授業中の視線を思い出した。
そこで、生徒に直接たずねてみた。
「授業中、よく外を見ているね。何か気になるものでもあるの?」
生徒は、少し間を置いて、あっさりと答えた。
「だって、向かいのマンションに、焼け焦げた女の人がいるから」
先生は、一瞬、聞き違えたかと思った。
隣で、お母さんが苦笑いをした。
「この子、最近、幽霊が見えるんですって」
どうやらその子は、中学に上がった頃から、普段は見えない何かが見えるようになったらしい。
最初はおぼろげな影だった。
年を重ねるにつれて、輪郭がはっきりしてきたのだという。
「向かいのマンションにいるのは、昔、火事で亡くなった人です」
生徒は、窓のほうをちらりと見て、続けた。
「成仏はできていません。でも、こっちに悪さをするつもりはないから、大丈夫です」
先生は、なぜか背筋が冷えた。
同時に、不思議と、嘘ではないという気がしたそうだ。
それからというもの、先生はその霊感のある生徒の行動を、無意識に目で追うようになった。
廊下を歩くとき、その生徒は、決まって窓側を避けて壁際を歩いた。
階段の踊り場では、必ず一段手前で立ち止まった。
一度、先生がたずねたことがある。
「そこ、何かあるの?」
「いえ。誰かが立っているので、通り抜けたくないだけです」
生徒は、当たり前のように答えた。
先生が見る限り、踊り場には、誰も立っていなかった。
けれど、先生も、そこを通るときは、少しだけ遠回りをするようになった。
帰り道、先生は一度だけ、そのマンションを見上げた。
夕焼けを映した窓が、並んでいるだけだった。
何も見えなかった。
それなのに、誰かに見返されているような感覚だけが、いつまでも肌に残った。
文化祭の古い仏壇
夏休みが明けると、教室の空気は、少しだけ変わっていた。
誰が言い出したのか、クラスの中に、あの生徒が幽霊を見るらしい、という噂が広がっていたのだ。
遠巻きにする者もいれば、面白がって近づく者もいた。
けれど当の本人は、噂を否定も肯定もしなかった。
休み時間は、いつものように窓の外を見ていた。
先生はそれを、静かに見守ることにした。
二つ目は、秋の文化祭の話だ。
先生のクラスの出し物は、縁日に決まった。
お化け屋敷という案も、当然、出ていた。
けれど、その生徒が「やめたほうがいい」と、静かに反対したのだ。
隣のクラスは、お化け屋敷を企画した。
準備は着々と進み、かなり本格的な造りになっていった。
暗幕、血のりの小道具、天井から吊るした白い布。
コースの最後を飾るのは、ある生徒がどこからか拾ってきた、古い仏壇だった。
一時的に作った場所にも、霊は呼び寄せられるのだという。
準備三日目、その生徒が、隣のクラスの担任に直談判した。
「先生、お化け屋敷は、中止したほうがいいです」
明日が公開の日に、そんなことができるはずもない。
担任は、笑って取り合わなかった。
生徒は、食い下がらなかった。
半分だけ折れたような顔で、言った。
その表情は、十代の少年のものではなかった。
何度も同じ光景を見てきた人間の、疲れた目をしていた。
「せめて、あの仏壇だけは、外してください」
担任は、聞き入れなかった。
「そんな話、信じて準備を止められるか」
担任は、苦笑いのまま、生徒の肩を軽く叩いたという。
その手の下で、生徒の肩が、小さく震えていた。
叩かれた本人だけが、これから起きることを、すでに知っていたのかもしれない。
コースの目玉だったからだ。
生徒は、不機嫌そうに、うつむいた。
「何があっても、知りませんよ」
それだけ言って、自分のクラスへ戻っていった。
その日の午後だった。
お化け屋敷のクラスの担任が、廊下で突然倒れた。
救急車が呼ばれ、校内は騒然となった。
原因は、最後までわからなかった。
担架で運ばれていく担任を見ながら、例の生徒が、小さく呟いた。
「だから、言ったのに」
先生は、その横顔に近寄って、たずねた。
「何があったの?」
生徒は、窓の外ではなく、床を見つめたまま答えた。
「あの仏壇には、落武者の霊が見えます。ただでさえ、あそこは霊が集まりやすいのに」
「あの落武者は、怒っています」
担任が倒れたことで、さすがにまずいという空気になった。
仏壇は、元の場所に戻された。
文化祭は、縁日の賑わいの中で、何事もなく幕を閉じた。
壕の一番後ろ
三つ目は、学年が上がってからの、修学旅行の話だ。
行き先は沖縄だった。
平和学習も、日程に組み込まれていた。
沖縄の修学旅行では、戦時中の壕を見学する学校が多い。
先生の学校も、そうだった。
壕の入口に立ったとき、例の生徒が、強張った顔で言った。
「ここ、危ないです」
そして、先生に頼んだ。
「僕、いちばん後ろを歩きます」
先生は、うなずくしかなかった。
壕の中は、ひんやりと湿っていた。
地面の土は、足の裏にじっとりと貼りつくようだった。
通路が狭くなるたびに、先頭のガイドの声が、少しずつ遠くなる。
生徒たちは、ふだんより口数が少なかった。
誰も、いつものように冗談を言わなかった。
霊感のある生徒だけが、最後尾で、じっと前を見つめていた。
ガイドの説明が、低い天井に反響する。
懐中電灯の光が、岩肌をなぞった。
戦争で亡くなった方々の想いが、壕の中には溜まっているのだという。
怪奇現象が起きることも、しばしばあるらしい。
そして、この日も、起きた。
ガイドが説明をしている最中だった。
先生の目の前にいた女子生徒が、ふらふらと前後に揺れ始めた。
目が虚ろで、焦点が合っていない。
まさか、と思った瞬間だった。
「危ない!」
最後尾から、あの生徒が飛び出した。
女子生徒の腕を、力いっぱい掴む。
その瞬間、女子生徒は、つんざくような悲鳴を上げて倒れた。
辺りは騒然となった。
全員が急いで壕を出て、女子生徒を介抱した。
しばらくして、意識を取り戻した女子生徒は、泣き始めた。
「急に、頭の中が真っ白になって、引っ張られる感じがしたの」
先生は、彼女を落ち着かせてから、あの生徒にたずねた。
「後ろにいたのに、どうして分かったの」
生徒は、答えにくそうに、視線を落とした。
「あの子の肩の後ろから、何本も腕が伸びるのが見えたんです」
「あっちの世界に引き込まれると思って、咄嗟に掴みました」
そして、もうひとつ、なぜ一番後ろを歩いていたかも教えてくれた。
生徒たちの列のあとから、戦争で亡くなった方々が、這うようにして付いてきていたのだという。
危害を加えられないように、霊感のある自分が盾になるつもりだった。
「もっとも、被害者は出てしまいましたが」
そう呟いた声は、どこか悔しそうだった。
卒業と見えなくなった日
壕を出たあと、旅館の夕食の席は、いつになく静かだった。
倒れた女子生徒は、念のため、早めに部屋で休ませた。
霊感のある生徒は、箸をほとんど動かさず、窓の外の海を見ていた。
先生が声を掛けようとすると、生徒のほうから、小さな声で言った。
「先生、あの人たち、怒っていたわけじゃないんです」
「ただ、連れて行ってほしかっただけだと思います」
その言葉の意味を、先生は、ずっと考え続けているという。
後日談がひとつだけある。
生徒の霊感は、十八歳の頃が、ピークだったらしい。
卒業すると、ぴたりと霊を見なくなったそうだ。
今では、ごく普通の社会人として、暮らしているという。
先生は、卒業式の日の放課後、ひとりで教室に残った。
窓際の最後列の席に、腰を下ろしてみた。
そこから、向かいのマンションを見上げる。
夕焼けが、窓を赤く染めていた。
何も見えなかった。
焼け焦げた女の人も、這ってくる人々も、そこにはいなかった。
先生は、それが、少しだけ寂しかったそうだ。
あの霊感のある生徒が見ていた世界は、もう二度と、先生には見えない。
見えないほうが、きっと、幸せなのだろう。
それでも、あの席から見た夕焼けは、不思議と、いつもの景色より深く見えた。
あの一年間、世界はどんな形で、その子の目に映っていたのだろう。
今でも、先生は、ときどき窓の外を見る。
そこには何もない。
けれど、何かが見えているかもしれない、と思うようになった。
同じく不思議な体験談として、名札のクスノキが先に知るもあわせて読んでみてほしい。
霊の気配をめぐる話には、ずぶ濡れの住人は晴れた朝に帰るもある。