断崖の夜髪
私がある旅行雑誌の取材の依頼で、足を運んだのは日本海に面した静謐な観光地でした。
その日、市の観光課に所属する案内人の丁寧な誘導のもと、カメラマンと共に車で取材地を巡りました。
取材が一通り終わったのは、夜の21時を少し回った頃のことでした。
カメラマンは別の仕事が控えているため、車で直ちに帰路につきました。
私は翌日の朝市の取材が控えていたため、そのまま地元のホテルに宿泊することにしました。
ホテルの部屋で、一日の取材メモを見返していた時、私の心にふとした違和感がよぎりました。
今日案内された場所の中で、海岸沿いに位置する断崖絶壁が記憶に新しかったのです。
その景色は美しいものでしたが、何故か胸の奥に重苦しさを覚えていました。
そこで、尋ねてみたのです。
「ここは、もしかして以前は自殺の名所だったのではないですか?」と。
観光課の人は瞬間、目を見開き、次いで不敵な笑みを浮かべました。
しかし、間をおいてから
「どこでそんな話を耳にされたのか…」
と真剣な面持ちに変わり、
「10年ほど前まではそうでしたが、今はそんなことはない。もしあったとしても、年に数件です」
と答えました。
内心、その回答に疑問を抱きつつも、私は話題を変えることにしたのです。
その夜、取材の疲れもあり、風呂に浸かり、歯を磨き終えたのは23時頃でした。
翌日に備えて、私は早めに床に就きました。
朝、目覚めて洗面所へ向かい、顔を洗った後、歯ブラシを手に取りました。
すると、そこに異変が。私の歯ブラシには、何十本もの長い髪の毛が絡まっていたのです。
その異様な光景に声をあげてしまいました。
そして、もう一つの異変に気がつきました。
洗面所全体が、磯の匂いで満たされていたのです。
まるで海水をその場に撒き散らしたかのような、強烈な匂いに包まれていました。
恐怖を感じた私は、急いで身支度を整え、バッグを手に部屋を後にしました。
私がここに記す話は、これにて終わりです。
これが実際に私に起きたことであるというのは、なんとも言えず不快な体験です。
しかし、文章にしてみると、思いのほか平凡な話に思えてしまいます。
私としては、このような不愉快な怖い体験は、仕事の題材にはしたくないものです。