読めない駅名の看板の下で

読めない駅名の看板の下で

渡された雑誌には折り目が一つもないのに、一か所だけ、ボールペンで丸がつけてありました。

そのことに気づいたのは、半年もあとです。

順番に書きます。

先に断っておくと、僕は霊感のようなものが一切ありません。

金縛りにもなったことがないし、不思議な体験もしたことがありませんでした。

異次元の駅などというものを、本気で信じたこともありません。

それでも、あの一時間半のことだけは、どう整理しても説明がつきません。

終点で目が覚めた

去年の一月のことです。

僕は大学四年で、就職活動の真っ最中でした。

その日は午前に一社、午後に一社、面接を受けていました。

二社目が終わったのが四時半ごろで、外はもう暗くなりかけていました。

横浜市営地下鉄に乗って、仲町台の下宿に帰るところでした。

座った瞬間から、記憶がありません。

前の晩、志望動機を書き直していて、二時間しか寝ていなかったのです。

目が覚めたとき、車内には誰もいませんでした。

ドアが開いたままで、車掌のアナウンスも流れていません。

やってしまった、と思いました。

終点まで行ってしまったのだと。

あわてて降りて、そこで足が止まりました。

明るいのです。

夕方どころか、真昼のような明るさでした。

車内の広告が、一枚も入っていませんでした。

枠だけが空いていて、白い紙が貼ってあるのです。

吊り広告の金具も、全部からのままぶら下がっていました。

そのときは、回送になったのだと思いました。

電車の色は、いつも乗っているものと同じでした。

座席の布の柄も、同じだったと思います。

だから余計に、外だけがおかしいと感じたのかもしれません。

白いドームと、読めない看板

ホームは、真っ白なドーム型でした。

天井の高いところに天窓があって、そこから光の柱が何本も落ちていました。

光の中を、細かい埃がゆっくり回っていました。

僕が知っている横浜市営地下鉄の駅は、どれもこんな形ではありません。

床は白い石で、継ぎ目がほとんど見えませんでした。

柱の一本もありませんでした。

駅名標を探しました。

ホームの真ん中に、それらしい看板が立っていました。

近づいて、読もうとして、読めませんでした。

漢字のようで、漢字ではないのです。

中国語かとも思いましたが、それとも違いました。

部首のようなものはあるのに、組み合わせが見たことのない形をしていました。

ローマ字の表記もありませんでした。

前後の駅名を示す矢印のところも、同じ字が並んでいました。

ホームには、人がいるにはいました。

ただ、灰色でした。

服の色が灰色なのではなく、その人たち全部が、影の濃さのようになっているのです。

輪郭はあるのに、顔がありません。

動いてはいるのに、足音がしませんでした。

僕はそのとき、まだ怖くありませんでした。

寝ぼけているのだと思っていたからです。

灰色の人たちのうち、一人だけがベンチに座っていました。

膝の上に、四角いものを置いていました。

鞄なのか、本なのかは分かりませんでした。

僕はその前を通るときに、思いきって声をかけました。

「すみません」

返事はありませんでした。

顔らしいところが、こちらを向いた気配もありませんでした。

それでも、僕が通り過ぎたあとに、少しだけ姿勢が変わった気がしました。

確かめる勇気はありませんでした。

※

逆のホームも同じでした

とにかく戻ろう、と考えました。

逆方向の電車に乗れば、来た道を引き返せるはずです。

階段を上って、反対側のホームに降りました。

そこにも同じ看板が立っていました。

やはり読めません。

並んでいる駅名も、全部、見たことのない字でした。

階段には、上りと下りの区別がありませんでした。

矢印も、手すりの色分けもないのです。

幅だけが、やたらと広くとってありました。

踊り場に、大きな鏡のようなものが一枚はまっていました。

近づいて見ると、鏡ではありませんでした。

白い板でした。

自分の顔が映らないことに、そのとき初めてほっとしました。

この時点で、少しずつ喉が締まってきました。

スマートフォンを出しました。

電波は三本立っていました。

地図のアプリを開くと、画面は真っ白のままでした。

読み込み中の丸が、ずっと回っていました。

外に出てみようかとも考えました。

けれど、出口の表示の字も読めません。

どこへ出るのか分からない扉を開けるのが、急に怖くなりました。

代わりに、駅事務室を探すことにしました。

誰か、人に聞けばいい。

そう思って、エスカレーターに乗りました。

ホームの端まで歩いてみました。

線路は、両側とも真っ暗なトンネルへ続いていました。

風が来ません。

地下鉄のホームには、必ず、どちらかから風が来るものです。

その日は、髪も、コートの裾も、まったく動きませんでした。

エスカレーターを降りたら外でした

下りのエスカレーターでした。

改札のある階へ降りるつもりでした。

ところが、降りきったところは、外だったのです。

屋根がありません。

地下鉄のエスカレーターを下って、外に出る。

その一段の落差で、僕はやっと、これはおかしいと理解しました。

一月です。

面接用のコートを着ていても、朝は息が白くなる季節でした。

それなのに、太陽が真上にありました。

暑いくらいでした。

そして、空の色が変でした。

青ではないのです。

薄いミカンの皮のような色が、空いっぱいに広がっていました。

雲は一つもありませんでした。

※

空を見上げたまま、僕はしばらく動けませんでした。

太陽の位置が高すぎるのに、影が薄いのです。

自分の影を探して、足元を見ました。

影はありました。

ただ、輪郭がぼやけていて、どちらの方向に伸びているのか分かりませんでした。

エスカレーターを振り返りました。

下ってきたはずのそれが、上りに変わっていました。

ステップが、僕のいるほうへ向かって、静かに上がってきています。

乗れば戻れるのかもしれない、と一瞬だけ考えました。

考えているあいだに、動きが止まりました。

ゴムの手すりだけが、しばらく回っていました。

ミカン色の空の下を走った

そこからは、よく覚えていません。

気がついたら、走っていました。

リクルートスーツで、鞄を抱えて、知らない街を走っていました。

建物はありました。

四角い、白っぽい建物ばかりです。

窓はあるのに、中に明かりがついている部屋が一つもありませんでした。

看板の字は、やはり読めませんでした。

人らしいものは、遠くに何人か見えました。

近づこうとすると、いつのまにか距離が変わっていました。

走っているうちに、革靴の踵が痛くなってきました。

それで、やっと足を止めました。

途中で、道路を一本渡りました。

信号がありました。

赤と青のかわりに、二つとも同じ薄い色で点いていました。

車は一台も走っていませんでした。

それでも僕は、点滅が変わるのを待ってから渡りました。

そういうときに限って、癖が出るものだと思います。

この番号は使われていません

立ち止まって、電話をかけました。

実家の固定電話です。

母が出るはずでした。

呼び出し音は鳴りませんでした。

代わりに、女の人の録音が流れました。

「おかけになった番号は、現在使われておりません」

もう一度かけました。

同じでした。

自分のスマートフォンの番号を、自分でかけてみました。

やはり同じ録音でした。

その時点で、僕は完全に折れました。

座る前に、もう一度だけ周りを見ました。

道の両側に、街路樹らしいものが並んでいました。

葉の形が、どれも同じでした。

同じ木を植えているのではなく、一本の木の葉を、全部同じ形に切りそろえたような揃い方です。

触ってみると、普通の葉の感触でした。

それが、いちばん気持ち悪かったです。

近くにバス停らしいものがあって、そこのベンチに座り込みました。

時刻表は貼ってありましたが、数字ではありませんでした。

鞄の中に、メープル味の栄養食品が二本残っていました。

面接の合間に食べようと持っていたものです。

それをかじりながら、涙が止まらなくなりました。

怖いというより、疲れていました。

その一週間で、四社落ちていたのです。

栄養食品の袋を開けるとき、指がうまく動きませんでした。

寒くもないのに、手だけが冷たくなっていました。

一本を半分だけ食べて、残りは鞄に戻しました。

全部食べてしまうのが、怖かったのだと思います。

次にいつ何かを食べられるのか、分からなかったからです。

※

時計を見ようとして、スマートフォンを出しました。

画面には、時刻の欄に何も表示されていませんでした。

数字が入るべきところが、空白になっているのです。

電池の残量だけが、九十六パーセントと出ていました。

面接の前に確かめたときと、一つも減っていませんでした。

バス停で声をかけてくれた人

どのくらいそうしていたのか分かりません。

一時間くらいだったと思います。

影の長さが、まったく変わらなかったので、本当のところは分かりません。

ふいに、横から声をかけられました。

「大丈夫?」

顔を上げると、おばさんが立っていました。

五十くらいでしょうか。

灰色ではありませんでした。

ちゃんと顔があって、影も落ちていました。

僕は、その顔を見た瞬間に、また泣いてしまいました。

「家に帰れないんです」

それだけ言うのが精一杯でした。

おばさんは、少しだけ表情を変えました。

驚いた顔ではありませんでした。

ああ、またか、という顔でした。

その人は、僕の顔ではなく、僕の後ろの通りを見ていました。

そして、道の先を指さしました。

指の差し方が、迷いのない差し方でした。

道を知っている人の指し方です。

「角を曲がって、地下鉄にまた乗って」

「走って」

言い方が、急に速くなりました。

僕が立ち上がると、その人は持っていた紙袋から、雑誌を一冊出しました。

「これ、持っていき」

なぜ雑誌なのか、聞く時間はありませんでした。

受け取って、走りました。

「あの、ここは」

「早う」

質問は、それで終わりました。

長いトンネル

角を曲がると、地下へ下りる階段がありました。

さっき降りたエスカレーターとは、違う場所でした。

ホームに滑り込んできた電車に、そのまま飛び乗りました。

座席には誰も座っていませんでした。

吊り革が、全部同じ角度で止まっていました。

電車は、長いトンネルをひたすら走りました。

途中の駅に、一度も停まりませんでした。

窓の外は真っ黒で、時々、白い線のようなものが後ろへ流れていきました。

僕は座らずに、扉の横に立っていました。

座ったら、また寝てしまう気がしたのです。

途中で、アナウンスが入りました。

ラジオのノイズのような音に混じって、聞いたことのない言葉が流れました。

抑揚だけが、駅のアナウンスそのものでした。

それを聞いて、僕はまた泣きました。

※

扉の横のガラスに、自分の顔が映っていました。

ネクタイが曲がっていて、髪がぐしゃぐしゃでした。

面接を二つ受けたあとの顔でした。

その顔を見ているうちに、少しだけ落ち着きました。

ちゃんと映っている、と思ったからです。

次は仲町台

どれくらい走ったのか分かりません。

ノイズがふっと止んで、女の人の声が流れました。

「次は、なかまちだい」

僕は、その一言で膝から力が抜けました。

ホームに降りると、いつもの仲町台でした。

コンビニの看板も、駐輪場も、階段の手すりの色も、全部いつもどおりでした。

外に出ると、ちょうど日が暮れるところでした。

スマートフォンを見ると、六時十二分でした。

二社目の面接が終わってから、一時間四十分ほどしか経っていませんでした。

実家に電話をかけると、母が普通に出ました。

何も言えませんでした。

「どうしたん」と聞かれて、「落ちた」とだけ答えました。

その晩、僕は下宿で靴を脱いで、踵の皮がむけているのを見ました。

走った覚えのある距離ではありません。

コートの肩に、白い埃が薄くついていました。

払っても、なかなか落ちませんでした。

半年後に開いた雑誌

雑誌は、しばらく机の上に置いたままにしていました。

触るのが怖かったのだと思います。

内定が出て、少し落ち着いた夏に、はじめてきちんと開きました。

女性向けの雑誌でした。

誌名は「クレール」。

聞いたことがありませんでした。

奥付を見ると、発行は二十年ほど前になっていました。

二十年前の雑誌が、新品の手触りをしているのです。

背も割れていないし、ページの縁も焼けていませんでした。

紙の匂いが、まだありました。

それだけなら、ただの保存状態のよい古本です。

問題は、丸でした。

どのページにも折り目がないのに、一か所だけ、ボールペンで丸がつけてあったのです。

丸がつけてあったのは、文通希望の人の住所が並んだ欄でした。

当時の雑誌には、そういう欄があったのだと、あとで知りました。

名前と、年齢と、住所と、趣味が、細かい字でびっしり並んでいます。

ほとんどが、普通の日本の住所でした。

その一件だけ、住所が、あの駅の看板と同じ形の字で組んであったのです。

印刷です。

手書きではありません。

まわりの文字と同じ大きさで、同じ濃さで、きちんと活字になっていました。

※

いまも、終点までは寝ません

僕はそのページを、何度も明かりに透かして見ました。

裏から見ても、印刷はきちんと裏写りしていました。

コピー機に載せてみたこともあります。

コピーにも、同じ字が出ました。

それ以上は、調べていません。

丸が誰のものかは、分かりません。

あの人が自分でつけたのか、もらったときからついていたのかも、分かりません。

ただ、あの人が僕に雑誌を渡したのは、たぶん、意味のあることだったのだと思います。

あの日、僕は名前を聞きませんでした。

お礼も言っていません。

いまは働いていて、毎日その地下鉄に乗っています。

座っても、終点までは寝ないようにしています。

雑誌は、まだ持っています。

読めない駅の話としては、きさらぎ駅の立て札のほうが有名だと思います。

それでも僕は、消えた駅『すたか』のような、名前だけが残る話のほうが、いまは苦手です。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。