消えた駅と、もうひとつの世界

消えた駅

よく「時空を超えた」とか、「少し違う世界を垣間見た」なんて体験談を目にしますが、実は私にも似たような経験があります。

というより、今なお、その“続き”の中にいるのかもしれません。

2年前の7月28日、私は大阪にいました。

その日は月曜日。夏休みも取れず、実家にも帰れないことが重なって、朝から気分は最悪でした。

私は南海高野線の金剛駅から天下茶屋へ向かう通勤途中でした。

車内では、苛立ちを紛らわせるためにスマートフォンのゲームに没頭していたのですが、ふと、ある違和感に気付きました。

通勤時間帯の混雑しているはずの車内が、妙に静かだったのです。

押し合い圧し合いが当たり前の混み合った車内が、なぜかガランとしていました。

不思議に思って顔を上げると、周囲には誰もいなかったのです。

あれほど混雑していたはずの車両に、私ひとりだけ。

あり得ない――それが南海高野線の朝なのに。

しかも、気がつくと電車はすでに停車しており、ドアも開いていました。

そこは駅でした。

しかし、駅名が読めないのです。

漢字は見覚えのある字体なのに、なぜかまったく読み方が思い出せない。

記憶にとどめようと目を凝らしても、すぐに脳が拒むようにその形を忘れてしまいます。

私は不安になりながらも、駅の外へ出てみることにしました。

外に出ると、町の風景は大阪の下町そのものに見えました。

けれども、私の知っている大阪のどこでもありませんでした。

このあたりをよく知っているはずの自分が、まったく見覚えのない通り。

とにかく会社に連絡をしようと、ポケットから携帯電話を取り出しました。

「電車が停まったままで動かない。アナウンスも駅員もおらず、状況がわからない」と伝えるつもりでした。

ところが、電波が圏外。

さらに周囲を探しても、公衆電話はどこにも見当たりません。

やがて、古びた大衆食堂のような店を見つけ、中に入って電話を借りようと思いました。

しかし、店内には誰の姿もありませんでした。

まるで人が生活していた痕跡だけが残された空っぽの舞台のように感じられました。

この時、ふと思い出したのは、劇場版『ドラえもん』の「鏡面世界」のエピソードです。

もしかして、私は“裏側の世界”に入り込んでしまったのではないか?

そう思った私は、慌てて駅に引き返しました。

改札は動いておらず、そのまま通り抜けてホームに戻ると、電車はまだ停車したままでした。

しかし、そこに一人の人物が立っていました。

厚手のコートを羽織った中年の紳士のような男で、その場に不釣り合いな風貌に一瞬たじろぎました。

声をかけようとした瞬間、男が語りかけてきました。

けれども、彼の口は動いていません。

それなのに、両耳の奥で同時に響くように、言葉がはっきりと届いてきたのです。

「もう戻してあげられないから、代わりにこちらで」

意味がまったくわかりませんでした。

次の瞬間、爆竹のような衝撃が目の前ではじけ、思わず目を閉じました。

そして、目を開けると、私は職場にいました。

時間は9時2分。なぜか遅刻もしておらず、息も上がっていない。

いつもなら、ギリギリまで走って駆け込んでいたはずなのに。

自分が“いつもと違う”ことを感じた私は、トイレに向かい、鏡を覗き込みました。

そこに映っていたのは、確かに私自身。

でも、目元や髪の流れが、どこかほんのわずかに違うのです。

若返ったわけでも、老けたわけでもない。けれど、「別人」に見えるほどの違和感。

そしてその違和感は、自分だけでなく、同僚たちにも感じられました。

全員が“ほとんど同じ”なのに、“決定的に違う”――そんな奇妙な世界に私は居ました。

その後、私は会社を辞め、故郷に戻りました。

しかし、実家の家族もどこか記憶の中の姿と違って見えるのです。

父や母が老けたからではなく、“誰かがそっくりに演じているような”違和感。

会話も自然で、暮らしに支障はまったくありません。

でも、私は知っているのです。

ここは、あの日私が居た場所ではない。あの世界とは、確実に何かが違っている。

もしかすると、あの駅で私は“向こう”に残されて、こちらに来たのは――ほんのわずかに違う“私”なのかもしれません。

それでも私はこの世界で生きていくことにしました。

幸い、穏やかで幸せな日々が続いているからです。

でも時折、あの読めない駅名の看板を、夢の中で探してしまうのです。

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