
蝉の声と、じいちゃんのまなざし
これは、俺が十年以上も前に体験した実話だ。
当時、俺は田舎にある実家で暮らしていた。
実家は古い日本家屋で、周囲は田んぼに囲まれていたが、それ以外はごく普通の、どこにでもあるような家だった。
大学を卒業したものの、就職もせず、だらだらと毎日を過ごしていた俺。
親からは毎日のように小言を言われていたが、やがて呆れられ、ほとんど放置されるようになっていた。
今振り返ると、あの頃が人生で一番だめだった時期だったと思う。
※
ある日の午後。
縁側でぼんやりと蝉の声を聞いていたときのことだった。
「マサ」
名前を呼ばれて振り向くと、すぐ隣の部屋にじいちゃんが立っていた。
よれよれのランニングシャツに、らくだ色の腹巻きと股引き。
まるで昭和の漫画から飛び出してきたような、絵に描いたような“じいちゃん”スタイルだ。
このじいちゃんは、昔から俺に不思議な体験をさせてきた張本人で、正直、普通の人ではないことは子供の頃からわかっていた。
じいちゃんは俺の向かいに腰を下ろすと、静かに言った。
「お前、就職せんのんか?」
「するよ、近いうちに」
「はっ、嘘つけ。親のすね、ずっとかじるつもりじゃろうが」
「ばれたか」
「マサ、この田舎にはな、本当に必要とされとる人間か、よっぽどのバカしか住んどらん。お前はどっちでもない。さっさと外へ出て働け」
「なんじゃそりゃ」
「お前のために言っとるんじゃ」
そのときのじいちゃんの目が、いつもと違っていた。
声は穏やかなのに、目だけは異様なまでに鋭く、俺の顔を真っ直ぐに見据えていた。
俺は思わず息を呑んだ。
だが、そのときはまだ、じいちゃんの言葉の意味を深く考えることはなかった。
※
その日の夜。
夕飯を済ませ、俺は居間のソファーに腰を下ろし、アイスを食べながら巨人戦を観ていた。
するとまた、背後から声がかかった。
「マサ」
昼間と同じ、例のじいちゃんの声だった。
振り返ると、やはりじいちゃんが立っていた。格好も、昼間とまったく同じだ。
「何? どうしたん?」
本当は野球に集中したかったが、以前じいちゃんに逆らって酷い目に遭ったことがあるので、穏やかに返した。
じいちゃんは、どこか真剣な顔で俺の隣に座ると、こう言った。
「お前に話さんといけんことがあるんじゃ」
「……なんか、また変な話か?」
「この家の秘密を、教えちゃる」
「家の秘密?」
※
正直、心のどこかで「来たな」と思った。
「お前、この家の天井から、たまに変な音が聞こえるって言っとったやろ」
「ん? ああ……まあ」
俺は生まれてからずっと、この家で生活してきた。
そのなかで、何度も“天井からの異音”を耳にしてきた。
誰かが全速力で天井裏を走り回るような音。
低くうなる風のような声。
あるいは、「オン△※@:ギョウ~…」といった、どこかのお経のような意味不明な音声。
それらは、いつも俺一人のときにだけ起こり、両親に話しても「気のせいだろ」と相手にされなかった。
じいちゃんだけが、唯一まともに取り合ってくれた人だった。
「……で? それがどうかしたん?」
俺は動揺を隠しながら、じいちゃんに尋ねた。
じいちゃんは一度口を開きかけたが、言葉を飲み込むとこう言った。
「あ゛~……名前は言うたらいけんけぇ」
「……なんそれ。だめじゃん、それ絶対ヤバいやつじゃん」
その瞬間、小動物が危機を察知するかのような本能が、全身を駆け巡った。
「まあ、こっち来いや」
じいちゃんはいつの間にか懐中電灯を2本握っており、満面の笑みを浮かべていた。
一方、俺の背中には冷や汗が流れていた。
これから向かう先が“家の中”とは到底思えない――
そんな不穏な空気が、既に漂っていた。
※
黒い襖と、封じられた祠
俺はじいちゃんに促されるまま、懐中電灯を片手に廊下を歩いていた。
縁側を抜け、奥へと伸びる廊下をまっすぐ進むと、じいちゃんがピタリと立ち止まり、右手の襖を静かに開けた。
そこは、かつて俺が幼い頃に“遊び部屋”として使っていた部屋だった。
ファミコンを持ち込んで、戦隊ヒーローの人形で戦いごっこをして――
懐かしい記憶が一気に蘇った。
だが、目の前に現れた光景に、俺は愕然とした。
※
「じいちゃん……あれ……」
俺が指差した先には、黒光りする、異様な木戸があった。
当時は確かに、ただの白い押入れの襖だったはず。
その漆を塗ったような漆黒の二枚扉は、明らかに“異質な存在”だった。
「お前がここを使わんようになってすぐ、やり変えたんよ」
じいちゃんは当然のように答えると、その黒い扉に手をかけた。
「ゴゴ……ズーッ……」
不快な音を立てながら、木戸が開いていく。
中は真っ暗だった。
途端に、腹の底からこみ上げるような吐き気と悪寒が襲ってきた。
「じいちゃん……なんか、気分悪い……」
「そのうち慣れる」
俺の訴えは、あっさりと却下された。
“じいちゃんは鬼だ”――
心の中で強くそう思った瞬間だった。
※
じいちゃんが懐中電灯を点け、中を照らす。
その光は押入れの天井を照らし、やがて、またしても異様なものが浮かび上がった。
そこには、やはり黒く塗られた“正方形の扉”があったのだ。
俺たちは、その天井裏への扉を通って、中に入った。
まずじいちゃんがよじ登り、続けて俺もその空間に身体を入れた。
その瞬間――
強烈な“何か”に包まれた。
空気は重く、肌にまとわりつくような冷気。
吐き気、動悸、耳鳴り。
まるで生きたまま棺に入れられたかのような閉塞感だった。
「じ……じいちゃん……やばい、これ無理……ホンマに無理……」
俺は半泣きになって訴えた。
しかし、じいちゃんの表情は険しかった。
「駄目じゃ。マサ、お前は“きちんと見とけ”」
昼間のあの優しいじいちゃんではなかった。
なぜ、俺をこんなところに連れてきたのか。
この人は正気なのか。
疑念と恐怖が胸に渦巻いた。
※
必死に呼吸を整え、懐中電灯を振って周囲を照らす。
築90年の日本家屋の骨組みがむき出しになったその空間は、ただただ埃にまみれていた。
やがて、懐中電灯の光が“何か”に反射した。
『……今、光った?』
もう一度、その方向に光を当てる。
そこには、確かにあった。
神棚のような、いや、祠のような――
明らかに“祀られているもの”の存在。
異様な空気を纏い、ただそこに、じっと静かに“佇んで”いた。
「じいちゃん、あれ……何?」
唇が震え、声にならない。
それでも、かろうじて言葉を絞り出した。
じいちゃんは静かに答えた。
「あれが……音の原因よ」
※
しかし、次の瞬間――
じいちゃんが、明らかに動揺する仕草を見せた。
懐中電灯を、俺から奪い取るようにして取り上げる。
そして、ふたつとも、スイッチを“消した”。
天井裏は一瞬で闇に沈んだ。
「じいちゃん……?」
「しっ、黙っとれ!」
低く鋭い声で言われ、俺は咄嗟に口を閉じた。
じいちゃんは小声で続けた。
「マサ、今から出口に向かう。息、止めぇよ」
「……は? 息を止める?」
「ええけぇ、はよ! 出口まで“あれ”から目を離すな!」
※
息を大きく吸い込んだ瞬間――
祠の中から、“何か”がニュルッと現れた。
黒く、影のように歪んだその“何か”は、ゆっくりと祠の扉をすり抜け、天井裏の空間に這い出てきた。
『それ』は、人の形をしていた。
しかし、暗闇よりもさらに濃い黒で輪郭はぼやけており、動きは鈍く、しかし不気味だった。
左右に揺れたり、倒れ込んだかと思えば、四つん這いになって蜘蛛のように動き出す。
常識ではとても理解できない。
――これは、“この世のもの”ではない。
それを目の当たりにした俺の脚は、がくがくと震えていた。
思考は完全に停止寸前。
ただ、じいちゃんの言葉通り、それから目を逸らさぬよう、必死に凝視し続けた。
※
やがて、じいちゃんがそっと俺の服の裾を引いた。
合図だ。
俺たちは静かに、後ずさるようにして出口へ向かった。
“それ”は幸いにも、まだ俺たちに気づいていなかった。
きっと、息を止めるように言われたのは、気配を殺すためだったのだ。
音を立てぬよう、慎重に。
踏み外せば終わりだと思いながら、ようやく天井裏から部屋へと降り立った。
その瞬間、俺は振り返ることもなく、居間まで全力で走った。
※
部屋の電気をつけ、テレビを入れる。
俗世間の音と光にすがるように、俺はようやく、あの異界から抜け出したのだった。
直後に、じいちゃんが居間に戻ってきた。
どこか満足そうな顔で、ぽつりと笑った。
「見たろう。すごかったろ、アレ」
※
――ふざけるな。
恐怖の極限を体験させられた俺は、怒りに震えた。
そして、このあと“あの存在”の正体と、家に秘された過去を聞かされることになる――
※
名前を聞いた朝
「何なんよ、あれ!」
俺は興奮したまま、じいちゃんに詰め寄った。
「ホンマ、何がしたいんじゃ、じいちゃん!」
息も荒く、怒鳴り声に近い言葉をぶつけた俺に対して、じいちゃんは腹を抱えて笑っていた。
「がははは! あれな、先祖に恨みを持っちょる霊でな……。わしも詳しくは知らんのんじゃが、あまりにも危ないけぇ、ウチの先祖が祠に封じて、天井裏に祀っとるんよ」
「黒い扉は、結界みたいなもんじゃ。安全のためにな、近くのお寺に頼んで作ってもろうたんよ」
「……じゃあ、なんで名前は言ったらいけんの?」
俺はまだ震える声で聞いた。
じいちゃんの表情が、ほんの少しだけ真剣になった。
「名前を聞いた者には、“あれ”が憑くんじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。
“憑かれる”。
それは、冗談では済まされない――本気の世界の話だった。
※
だが、そこで俺は一つの疑問を口にした。
「でも、じいちゃんはその名前、知っとるんじゃろ? なんで憑かれとらんの?」
じいちゃんは、ニヤリと笑った。
「それは、秘密じゃ」
それ以上、何度聞いても教えてくれなかった。
俺はなんとなく、その答えを無理に知るのが怖くなった。
※
翌朝。
俺は縁側に座り、冷えたお茶をすすりながら、昨日の出来事がすべて夢だったのではないかと、自分に言い聞かせようとしていた。
だが、縁側の柱にうっすら残る埃の跡。
じいちゃんの懐中電灯。
体に残る異様な疲労感。
すべてが、現実であったことを裏付けていた。
そこへ、じいちゃんがやってきた。
「おはよう、じいちゃん」
俺はとりあえず挨拶した。
どんなに怖くても、この人には礼儀を通さなければならない。
「おう、おはよう」
じいちゃんは笑顔を見せながら、縁側に腰を下ろした。
そして次の瞬間、信じられないことが起こった。
「\$\&#'((%」
「……え?」
何を言ったのか、最初はわからなかった。
しかし、すぐに気づいてしまった。
――今、じいちゃんは“アレ”の名前を口にした。
「じ……じいちゃん! なに言うとん!」
「分かったか。安心せえ。あれはこの家の結界からは出られんのんよ。ここにおらんかったら憑かれんけぇ」
じいちゃんは、まるで子供をからかうように笑いながら言った。
※
俺はその数日後、すぐに東京で仕事を見つけて家を出た。
就職活動なんてしていなかったはずなのに、驚くほどスムーズに話が決まった。
じいちゃんの言葉を真に受けるつもりはなかったが――
どうしても、家に長くいる勇気は持てなかった。
※
じいちゃんが亡くなったのは、それから2年後のことだった。
実家に帰りたくはなかったが、葬式にはどうしても出なければならない。
嫌々ながらも帰省したが、特に何も起こらなかった。
結局、じいちゃんは俺を家から追い出すために、でたらめを並べただけだったのかもしれない――
そう思うようにした。
けれど、じいちゃんの葬式の晩、実家の縁側でぼんやりしていたとき。
――天井の奥から、かすかに聞こえた気がした。
「オン……△※@:ギョウ~……」
あのとき、確かに封じられていた“それ”の声。
俺は一言も言葉を発せず、黙って家の中に戻った。
二度と――
あの天井裏には、近づかないと決めた。