
赤いマフラーと届いた呪い
半年ほど前、私は人生で初めて、“本気で気味が悪い”体験をした。
それは幽霊でも怪異でもない。けれど、心の底から震えるような恐怖だった。
中学生の頃、私のクラスには“霊感少女”と呼ばれる子がいた。
彼女の家は神社だという噂だったが、外観はごく普通の民家だった。
クラスメイトたちは、彼女の話を嘘だと決めつけ、半ば苛めるような形でからかっていた。
※
「俺の守護霊ってどんなの?」「悩み事当ててみてよ」――
そういった軽口に対して、彼女は必ず、妙に当たっていることを口にした。
誰にも言っていないことを当てられて、内心びびっていたが、怖いからこそ誰にもそれを言えなかった。
※
中学を卒業すると、彼女は高校に進学しなかったと聞いた。
私は別の高校へ進み、彼女のことは忘れていた。
いや、楽しくて奔放な生活の中で、忘れたふりをしていたのかもしれない。
高校生活に入った私は、少し調子に乗っていた。
女の子を軽く扱うようになり、二股、無責任な振り方……気がつけば、周囲には“恨まれてもおかしくない相手”が何人もいた。
※
そんなある日、私宛に小さな荷物が届いた。
中身は――手編みの真っ赤なマフラー。
丁寧に編まれたその色鮮やかな布地に、私は思わず頬が緩んだ。
きっと、誰かが自分に好意を寄せてくれているのだろう。
そんなふうに呑気に考えていた。
※
その日、マフラーを抱えて自室に戻った。
ドアを閉めた瞬間、顔にふわりと、生ぬるい空気がかかった。
“風でも入ったか”と気にせず、マフラーをほどいた。
ぐるぐると巻かれていたその布が床に伸びると、巻き込まれていた“何か”がゴトリと音を立てて落ちた。
※
それは、わら人形だった。
人形の胴体は、異常に太く膨らんでいた。
腕の太さはあろうかというその中心には、まるで“ダンゴ”のように打ち込まれた錆びた釘の群れ。
まるで埋葬されたような静けさの中、私は動けず、ただ見つめていた。
※
ようやく反応できたのは、足で人形を蹴って机の下に押しやったときだった。
私は怖がりな性格で、掲示板の“オカルト板”を読むのは好きだったが、自分の身にこんな出来事が降りかかるとは思ってもいなかった。
心臓はバクバクと高鳴り、頭の中は真っ白になった。
とにかく誰かに話したくて、親しい友人たちに電話をかけた。
けれど、誰一人として信じてくれなかった。
「またネタかよ」と笑われるばかり。
※
そんなとき、ふと思い出したのが――中学時代の“霊感少女”だった。
卒業アルバムと文集を引っ張り出し、彼女の家の電話番号を探した。
本来なら、近くの神社や寺に持っていくべきだったのかもしれない。
だが、当時の私は動転しきっていて、真っ先に頼れる“彼女”の顔が思い浮かんだのだ。
※
受話器の向こうで、電話が繋がる。
出たのは、まぎれもなく本人だった。
懐かしさと焦りが混ざり合い、私は思わず本題に入った。
「う、うちに……わら人形が届いて、赤いマフラーに巻かれてて……それで……」
訳の分からない説明をする私に、彼女はすぐに落ち着いた声で返した。
「○○くんですよね? 今日、これから行っても大丈夫?」
※
私は慌ててうなずいた。
「うん、うん、大丈夫……」
彼女は「午後3時くらいに行けそう」と言い、近所のガソリンスタンドで待ち合わせることになった。
電話を切った後、私はとにかく部屋にいたくなくて、エロ本だけ慌てて片付け、リビングへ移動した。
※
しかし、リビングで落ち着こうとする私を、さらなる不安が襲った。
自室の上――つまり天井の真上から、「コツ、コツ」と、何かがぶつかるような音が聞こえてきたのだ。
最初は微かな音だったが、次第に「ゴン、ゴン」と、大きな衝撃音に変わった。
足音ではない。
床に何かを叩きつけるような重たい音。
怖くて様子を見に行く勇気が出ず、テレビをつけて気を紛らわせていたが、ついに約束の時間が近づいた。
私は外へ飛び出し、約束のガソリンスタンドへと向かった。
※
冷たい空気の中、歩きながらようやく思考が戻ってきた。
“あんなものを送ったのは誰だ?”
“何が目的なんだ?”
冷静になるにつれ、怒りが湧いてきた。
※
やがて、約束の時刻。
ガソリンスタンドに原付バイクが現れた。
乗っていたのは、あの“霊感少女”だった。
Sさん――中学時代よりも大人びて、どこか神秘的な雰囲気を纏っていた。
彼女は分厚く重たそうなコートを羽織っていた。
そして、その足元には――まるで着物のようにひらひらと揺れる布地がのぞいていた。
※
封じられた想いと開かれた箱
Sさんは、原付のエンジンを切ると、無言で私の隣に立った。
あいさつもそこそこに、私たちは並んで歩き始めた。
その途中、私は彼女にこれまでの状況――マフラーのこと、わら人形のこと、そして、部屋の上から聞こえた不気味な音について話した。
Sさんはうなずきながら聞いていたが、不思議なほど口を開かなかった。
その沈黙が、かえって恐怖を煽る。
※
やがて家に着くと、Sさんは玄関で分厚いコートを脱いだ。
その下に着ていたのは、見たこともないような模様の着物だった。
ぐるぐると円を描くような、不思議な目のような模様が布いっぱいに広がっている。
巫女装束とも、舞台衣装とも違う。
ただ、その佇まいに一瞬で空気が変わった。
“この人なら、何とかしてくれるかもしれない”
私は、そんな希望にすがる思いで、彼女を二階の自室へと案内した。
※
部屋に入ると、相変わらずの生ぬるい空気が肌にまとわりついてきた。
机の下――朝から動かしていないわら人形が、まだそこにある。
Sさんは静かに机の前に座り、和紙のような白い布を取り出して、その上に人形を慎重に乗せた。
私は思い出したように口を開いた。
「そういえば、マフラーが……あれ、どこ行った?」
床を見ても、どこにもない。
ついさっきまでそこにあったはずの赤いマフラーが、 spっと消えたように、見当たらなかった。
Sさんは気にも留めない様子で、
「マフラーは大丈夫です。それより、お水を持ってきていただけますか?」
と穏やかに言った。
私は頷いてキッチンへ行き、ヤカンに水を入れて戻ってきた。
※
戻ると、Sさんはあぐらをかいて机の前に座り、わら人形を見つめていた。
動く気配はない。
私は息を殺し、彼女の後ろに正座して様子を見守った。
約十分ほど経っただろうか。
Sさんはゆっくりと息を吐き、私に向かって言った。
「お水、貸してください」
Sさんはヤカンを受け取ると、着物の袖から小さな瓶を取り出した。
瓶の中には、澄んだ液体が入っている。
それを片手に、ヤカンの水を少しだけわら人形に注いだ。
水は、わら人形の胴のあたり――異様に膨らんだ部分にかけられていた。
※
次に、彼女は着物の帯の内側から、彫刻の施された小さな木の棒を取り出した。
それで瓶の中の水をはねかけるようにして、再び人形に滴を散らす。
そして、静かに釘を一本一本、素手で引き抜いていった。
釘はすべて、わらに深く食い込んでいたが、Sさんの手元はとても丁寧だった。
ところが、最後の一本だけがどうしても抜けない。
Sさんは顔をしかめ、私に問いかけた。
「この釘、引き抜けますか?」
※
私は思わずうなずいたものの、いざ触ってみると、まるで木や金属に打ち込まれているかのように、びくともしない。
「無理かも……」
「わかりました。カッターを貸していただけますか?」
Sさんがそう言い、私は道具箱からカッターを差し出した。
彼女は人形の腹を慎重に切り裂いていった。
わらの中から出てきたのは――小さな、5センチ四方の木箱だった。
※
ただの箱ではなかった。
箱は、長い髪の毛でぐるぐるに巻かれていた。
まるで封印するかのように、黒々とした髪が絡みついている。
私は思わず声を上げた。
「これ……大丈夫なんですか?」
Sさんは微笑んで、
「平気、平気」
と言いながら、カッターで髪を切り開けていった。
箱の蓋が開いた瞬間――
鼻をつくような異臭が立ちこめた。
生臭い、鉄のような、そして何かが腐ったような匂い。
※
中から出てきたのは、赤黒く染まった白いティッシュだった。
Sさんが持っていた箸のような道具で摘み出す。
「……非常に言いにくいんですが、これは、おそらく経血です」
その言葉に、私は強烈な吐き気を覚えた。
さらに箱の中には、マニキュアが塗られた爪が複数入っていた。
爪切りで切られたものらしく、細かく欠けた断面が見える。
さらに、ガビガビに固まった髪の毛の塊も入っていた。
箱の中は、まるで何かの“見立て”のように整理されていた。
私は吐き気をこらえるのに必死だった。
※
Sさんは、それらを小瓶に詰めると、静かに箱を閉じた。
「これで……多分、大丈夫だと思います」
そう言ってから、彼女は続けた。
「ただ、今日から一週間ほどは、なまぐさもの――つまり、お肉や魚は口にしないでください。
できれば、日本酒を多めに飲んでください。
体の中を“浄める”ためです」
私は小さく頷いた。
どこか、ようやく終わったのだという安堵があった。
でも、それはまだ序章に過ぎなかった。
※
ハコマワシ ― 受け継がれる呪い
私はSさんの勧めに従い、その日から食生活を変えた。
コンビニで野菜スープを買い、白米を炊き、日本酒をほんの少しだけ飲む。
まるで修行僧のような一週間だったが、体の調子は不思議と整い、あの異様な倦怠感も消えていた。
ただ、それ以上に心が軽くなっていた。
あの部屋から漂っていた重苦しい空気も、少しずつ薄れていった。
※
一週間後、Sさんから連絡があった。
「もう少し詳しく、お話ししたいことがあります。時間ありますか?」
私は頷き、再び駅前で彼女と落ち合った。
Sさんはカフェに入り、ハーブティーを頼んでから静かに口を開いた。
「まず最初に言っておきます。あの“わら人形”は、あなたに呪いをかけるためのものではありません」
私は意外だった。
「でも……誰かに刺されたような感覚がして……それに、マフラーも勝手に巻かれてたし……」
Sさんはうなずいた。
「ええ、それは“副次的な作用”です。あの人形は“ハコマワシ”といって……一種の“受け渡し”を目的としたまじないなんです」
※
“ハコマワシ”。
初めて聞く言葉だった。
Sさんは、ゆっくりと説明を始めた。
「“ハコマワシ”は、もともとは仏教的な“送り”の儀式から派生したもので、地方によっては“オクリモノ”とも呼ばれています。
強い執念や恨み、妬みといった想念を、誰かに“引き継いでもらう”ためのまじないです。
つまり、最初から“あなたに呪う意図”はなかった。
けれど、持ち主の執念があまりにも強く、あなたが“その箱を開けてしまった”ことで、“媒介”として作用し始めてしまったのです」
私は唖然とした。
「じゃあ……あの人形の中にあった箱、あれは?」
「……“受け継がれる呪い”の核です」
※
Sさんの話は続いた。
「あの中にあった髪の毛、爪、経血、それらはすべて“生きた痕跡”です。
それぞれの持ち主が、苦しみの中で自分の一部を切り離して残した。
箱の持ち主は、最初の“願い主”だったはずですが、長い年月の中で、それは“入れ子構造”のように、次々と他人の想念を取り込んでしまった。
あなたが手にしたものは、すでに“誰のものでもない呪い”だった」
私は、背筋が凍るのを感じた。
「じゃあ、私が燃やしてしまったらどうなっていたんですか?」
Sさんはゆっくり首を横に振った。
「開けた人間が“処理”しなければ、呪いは形を変えて、あなたをずっと追いかけます。
燃やしたら、煙になって部屋に戻ってくるだけ。
むしろ、悪化していたかもしれません」
※
私は、ぞっとしながら問いかけた。
「じゃあ、誰が……あれを私に……?」
Sさんは、少しだけ黙った後、答えた。
「それは、わかりません。
ただ……以前、同じようなわら人形を拾った人がいました。
その人も、最初は“親切で誰かのために拾った”と言っていました。
でも、最終的に“自分自身の願い”があの中に反映されていった。
人形は、誰かに託されると、次の人の想いを吸い取って、また次へと回っていく」
私は思い出した。
あの日、駅のホームで見かけた、赤い服の女性。
私のことをじっと見ていたあの目。
あの時から、すでに“選ばれていた”のかもしれない――
※
Sさんは、最後にこう言った。
「これから先も、似たような“もの”に出会うかもしれません。
けれど、絶対に開けてはいけません。
“誰かの想い”は、時に暴力よりも残酷ですから」
私は、心からうなずいた。
あの赤いマフラーは、もう戻ってこなかった。
でも、部屋の空気は軽くなり、私はようやく熟睡できるようになった。
“ハコマワシ”――
それは、名前も知らぬ誰かが、誰かの想いを封じ込めて、そっと差し出した呪いだったのだ。
そして私は、それを“開けてしまった”者として、きっと一生忘れることはないだろう。