睡魔

出張で、山あいの古い温泉旅館に泊まった夜のことです。

その日は朝から得意先を四軒もまわり、私はくたくたに疲れきっていました。

案内されたのは、館の一番奥にある、古めかしい八畳の和室でした。

廊下のいちばん突き当たりで、両隣の部屋には、誰も泊まっていないようでした。

窓の外には、墨を流したような闇の山が、ぼんやりと連なっていました。

電灯の傘が古く、部屋全体が、すこし黄ばんだ色に沈んで見えました。

鏡台の鏡には、薄い布がかけられていました。

なぜ布がかけてあるのか、そのときの私は気にも留めませんでした。

床の間には、色あせた掛け軸が一幅、かかっていました。

何が描かれているのか、薄暗くてよく見えませんでした。

部屋の隅には、古い行灯が置かれ、ほこりをかぶっていました。

どこか、時間が止まったような部屋でした。

私は深く考えず、荷物を畳の上に放り出しました。

畳の匂いと、かすかにかび臭い空気が、妙に懐かしく感じられました。

夕食を済ませ、温泉にゆっくり浸かると、もう瞼が落ちそうでした。

露天風呂からは、月明かりに照らされた渓谷が見えました。

ぬるめの湯に肩まで浸かると、一日の疲れが溶けていくようでした。

湯あがりに飲んだ瓶ビールも、効いたのだと思います。

部屋に戻る廊下で、もう、足元がふらつくほどでした。

私は布団に倒れ込むようにして、すぐに眠りに落ちました。

枕に頭をつけた瞬間の記憶が、もう曖昧なほどでした。

その日の私は、それほどまでに疲れ果てていたのです。

得意先の部長に長々と説教をされ、帰りの電車も乗り過ごしました。

とにかく、横になれることが、何よりのごちそうでした。

思えば、ここ一週間ほど、まともに眠れていませんでした。

締め切りに追われ、夜遅くまで資料を作る日が続いていたのです。

身体の芯から、鉛のように重い疲れが、抜けずにいました。

だからこの夜の眠気は、もう、抗いようのないものでした。

どれくらい経った頃でしょうか。

何か、ただならぬ気配を感じて、私はうっすらと目を開けました。

押し入れの襖が、すうっと、音もなく細く開いていたのです。

その隙間の暗闇から、白く細い手が、にゅっと一本、伸びてきました。

続いて二本、三本と、青白い手がわらわらと這い出してきます。

普通なら、ここで悲鳴をあげる場面でしょう。

ところが私を襲ってきたのは、恐怖よりも、それを上回る、強烈な眠気でした。

「ああ……なんか出てるなあ」

私はぼんやりと、十秒ほど考えました。

相手をしてやったほうがいいのだろうか、とも思いました。

けれど、どうしようもなく眠いのです。

申し訳ないけれど、無視して寝ることにしました。

幽霊には悪いですが、こちらにも事情があります。

明日の朝には、大事な契約の最終確認が控えていました。

寝不足の頭で商談に臨むわけには、いかないのです。

私はそっと目を閉じ、手のことは頭の隅へ追いやりました。

不思議と、恐怖はまったく湧いてきませんでした。

眠気というものは、恐怖よりも強いのだと、このとき初めて知りました。

人は本当に疲れていると、幽霊すら面倒に思えるものなのですね。

若い頃なら、きっと飛び起きて逃げ出していたでしょう。

歳をとって、図太くなったのかもしれません。

考えてみれば、私はもともと、寝つきの良いほうでした。

枕が変わると眠れない、という人の気持ちが分かりません。

どんな場所でも、横になれば三分で眠れる質なのです。

その特技が、まさかこんなところで役に立つとは思いませんでした。

あるいは、ただ単に、疲れていただけなのかもしれません。

たぶん、それから五分ほど後でしょうか。

ふと目が覚めると、手はまだ、そこにありました。

動きに、なんとなく迷いが感じられました。

私が見ていることに気づいたのか、手は急に、ここぞとばかりに動き出しました。

必要以上に気合いを込めて、うねうね、ぐねぐねと、激しく蠢きはじめたのです。

その様子は、正直に言って、少し健気でした。

手は、だんだんと動きを派手にしていきました。

指をぐにゃりと反らせたり、手のひらをひらひらさせたり。

まるで、持ち芸を順番に披露しているようでもありました。

中には、わざわざ関節をぽきぽき鳴らしてみせる手もありました。

私が反応しないので、焦っているのが伝わってきます。

しまいには、襖の隙間から、白い顔のようなものが、半分だけのぞきました。

長い髪が、暗闇の中で、さらりと揺れたように見えました。

普通なら、ここが恐怖の頂点でしょう。

ところが私は、その顔に向かって、小さくこう呟いたのです。

「ごめんね、もう寝るね」

顔は、ぴたりと動きを止めました。

なんだか、ひどく拍子抜けしたような気配でした。

「がんばってるなあ」と、私は他人事のように思いました。

心のどこかで、応援したい気持ちすら芽生えていました。

これだけ努力しているのだから、誰かには驚いてほしいだろう、と。

けれど、その誰かが今夜の私でないことだけは、確かでした。

けれど、明日も朝から商談があるのです。

寝ないわけにはいきません。

私は反対側にごろりと寝返りを打って、また無視して寝ることにしました。

ウトウトと、心地よくまどろみはじめた頃でした。

とん、とん、と背中を軽く叩かれて、私は仕方なく振り向きました。

同じ手が、まだそこにいました。

今度は襖の隙間から身を乗り出すようにして、一生懸命、うねうねしています。

「ねえ、ねえ、こっち見てよ」とでも言いたげな、必死さでした。

私は薄目を開けたまま、心の中で手を合わせました。

本当に申し訳ない、でも、寝かせてほしい。

そう念じて、私はまた目を閉じました。

その後も、手は何度も諦めませんでした。

背中を叩かれたり、布団の裾を、つんつんと引っぱられたりしました。

枕元で、かさかさと衣ずれのような音を立ててみたりもしました。

天井のあたりで、とん、とん、と何かを転がすような音もしました。

耳元に、ひやりと冷たい息を吹きかけられたこともありました。

それでも私は、寝返りを打つだけで、応じませんでした。

いっそ感心するほど、相手は粘り強いのです。

夜が更けるにつれ、抵抗は少しずつ、弱々しくなっていきました。

とん、という音の間隔が、だんだんと長くなっていくのです。

まるで、諦めかけているような、そんな間合いでした。

最後にもう一度だけ、ふわりと布団の端が持ち上がりました。

それきり、部屋は静かになりました。

私はそのまま、朝まで一度も目を覚ましませんでした。

「ねぇってば、ちょっとだけでいいから!」

声にならない声が、たしかにそう訴えているようでした。

布団の中の私の足を、ぎゅっと握ってくることもありました。

その握力は、思いのほか弱々しく、まるで子どもの手のようでした。

怖いというより、どこか、放っておけない気持ちにさせる手でした。

それでも、眠気には勝てませんでした。

私はその手をやんわりと振りほどき、また布団にもぐりました。

そんな声が聞こえてきそうな、健気な抵抗でした。

けれど、私はもう、目すら開けませんでした。

疲れた身体には、どんな心霊現象よりも、睡眠のほうが大事だったのです。

私は手の必死のアピールを、最後まで完全に黙殺して、ぐっすりと眠りました。

翌朝、私はすっきりと目を覚ましました。

久しぶりに、信じられないほど深く眠れた気がしました。

身体が、羽のように軽くなっていました。

あれほど抜けなかった疲れが、嘘のように消えていたのです。

皮肉なことに、幽霊の出る部屋で、一番よく眠れたわけです。

押し入れの襖は、きちんと閉まっていました。

昨夜のことは、疲れが見せた夢だったのかもしれません。

ところが、宿を発つとき、女将さんが妙なことを言ったのです。

「奥のお部屋、よくお休みになれましたか」

その含みのある言い方に、私は少しだけ、引っかかりました。

「いえ、ぐっすり眠れましたよ」と、私は正直に答えました。

女将さんは、ほんの一瞬、きょとんとした顔になりました。

それから、何かに納得したように、ふっと笑ったのです。

「あの部屋でそんなに眠れた方は、久しぶりですよ」

女将さんは、湯呑みにお茶を注ぎながら言いました。

私は、昨夜の手のことを話すべきか、少し迷いました。

けれど、口に出すのも野暮な気がして、やめておきました。

「あの部屋、たいていのお客さまは、夜中に目を覚ましてしまうんですよ」

女将さんは、困ったように笑いました。

なんでも、何かが出るという噂が、昔から絶えないのだそうです。

怖がって、夜中に別の部屋へ移りたいと言い出す客も、少なくないとか。

「でも、お客さまはぐっすりお休みで。あの子も、張り合いがなかったでしょうねえ」

あの子、という言い方が、妙に親しげで、私は背筋がひやりとしました。

思い返せば、あの手は、最後まで私を傷つけようとはしませんでした。

ただ、こちらを振り向かせたくて、必死だっただけのように思います。

もしかすると、あの旅館の手は、ずっと誰かに気づいてほしかったのかもしれません。

怖がられるためではなく、ただ、相手をしてほしかっただけなのかもしれない。

そう考えると、無視して寝てしまったことが、少しだけ申し訳なく思えてきました。

今度あの宿に泊まることがあれば、夜中に手が出てきても、無視しないでおこうと思います。

せめて一言、「おやすみ」と返してあげたい。

そのくらいの礼儀は、見せてやってもいい気がするのです。

後日、同じ部署の後輩に、この話をしてみました。

後輩は、信じられないという顔で、私を見ました。

「先輩、それ、よく無視できましたね」と。

私は、ただ眠かっただけだと、正直に答えました。

すると後輩は、しばらく黙ってから、ぽつりと言いました。

「その手、先輩のこと、気に入ってたんじゃないですか」

言われてみれば、そんな気もしてきました。

怖い思い出のはずなのに、なぜか、ほのぼのとしているのです。

幽霊にも、人恋しい夜があるのかもしれません。

あの旅館の奥の部屋で、今夜も手は、誰かを待っているのでしょうか。

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