ITエリート

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その県は、教育に金をかけることで知られていた。

とりわけ、情報教育の予算は別枠だった。

次の時代を背負う人材を育てる、という言葉が、あらゆる書類の頭についていた。

私は、その県の小学校で養護教諭をしていた。

保健室に十九年いた。

子どもの体調というのは、言葉より先に、目に出る。

熱があるかどうかは、額に触れる前に分かる。

そういう仕事だった。

だから、あの教室のことは、最初から気になっていた。

※

その教室には、正式な名前がついていた。

スーパーマルチメディアホームルーム。

長すぎるので、校内では「あの教室」と呼ばれていた。

三十四台の机の天板が、そのまま液晶の画面になっている。

黒板はない。

教壇の前に、教員用の操作卓があるだけだ。

映像も、音声も、教科書も、すべてその天板から出てくる。

一つの教室に八千万円かかったという噂が、職員室でささやかれていた。

視察は毎週あった。

背広の人たちが後ろに並び、うなずきながらメモを取る。

その日、教室の照明は落とされる。

三十四枚の画面だけが、白く光っている。

私は廊下の窓から、それを一度だけ見た。

子どもたちの顔が、下から照らされていた。

影が、頬の上へ上へと伸びていた。

人の顔は、下から光を当てると別のものになる。

それは怪談のせいではなく、単に影の向きの問題だ。

分かっているのに、私はその日、廊下でしばらく動けなかった。

背広の人たちは、後ろから見ていた。

子どもの顔を、正面から見た人は一人もいなかった。

視察の記録には、こう書かれた。

「児童は極めて高い集中を示していた」

集中というのは、まばたきの回数で測るものだろうか。

私は、そのとき初めて自分の職業を疑った。

※

四月から、その教室が五年二組になった。

担任は、情報教育の資格を持つ若い教員だった。

熱心な人だった。

始業式の翌週、その先生が保健室に来た。

「先生、うちのクラスの子、目薬もらえますか」

「二十四人分」

私は、書類の手を止めた。

三十四人のクラスで、二十四人だ。

四月の第二週に、そんなことは起きない。

「まばたきが、減ってるんです」

先生は、少し笑いながら言った。

「集中してる証拠なんですけどね」

私は、その笑い方を覚えている。

自分の言葉を、自分で確かめていないときの笑い方だった。

目薬は、二十四人分渡した。

翌週、また十人分を取りに来た。

先生の指は、震えていなかった。

ただ、白衣ではなく背広の袖口に、白い粉が付いていた。

チョークの粉だ。

「黒板は、ないのでは」

私が言うと、先生は袖を見て、少し驚いた顔をした。

「職員室の、古いやつを使ってるんです」

「授業の準備は、あれじゃないと組めなくて」

八千万円の教室を任された人が、休み時間に古い黒板で下書きをしている。

そのことを、私は誰にも言わなかった。

※

五月になって、来室する子が増えた。

頭痛と、目の乾き。

それは想定の範囲だった。

想定していなかったのは、子どもたちの言い方だった。

三年前から来ている、喘息の男の子がこう言った。

「画面の中の自分と、目が合いました」

私は、机の上の画面には自分は映らないでしょう、と答えた。

暗くすれば映るのだと、その子は言った。

授業中、映像と映像のあいだに、真っ黒になる瞬間がある。

その一瞬に、自分の顔が映るのだそうだ。

「でも」

その子は、そこで言葉を止めた。

「先に、目が動くんです」

私が問い返す前に、予鈴が鳴った。

その子は、上履きの音を立てずに出ていった。

※

同じ週に、二人が同じことを言った。

一人は女の子で、算数の時間だと言った。

一人は、いつも保健室で本を読んでいる男の子だった。

私は、なるべく余計な相槌を打たないようにして聞いた。

「黒くなるのは、一秒もないんです」

「でも、そのあいだに、こっちが先に見られてます」

見られている、と、その子は言った。

映っている、とは言わなかった。

私は、その言い方の違いを書き留めた。

書き留めながら、指先が冷えていくのが分かった。

養護教諭の記録簿には、所見を書く欄がある。

私はそこに、こう書いた。

「訴えの内容が、児童間で一致している。」

それ以上は、書けなかった。

※

私は、放課後にその教室へ入ってみた。

誰もいない教室は、思ったより暗かった。

窓には、映り込みを防ぐためのフィルムが貼ってある。

外の光は、乳白色になって入ってくる。

天板に触れると、ほんのりと温かかった。

電源は、切ってある。

切ってあるのに、温かい。

私は、一台ずつ手を置いて回った。

三十四台のうち、いちばん後ろの列の、窓側から二番目。

その一台だけが、冷たかった。

冷たいというより、外の空気と同じ温度だった。

椅子には、埃が積もっていない。

誰も座っていないはずの席だ。

その席の名札は、外されていた。

私は、名札の跡を指でなぞった。

天板の縁に、糊の残りが四角く白く浮いている。

他の机の名札は、全部ついていた。

つまり、外したのは誰かの手だ。

帰り際、教室のドアを閉めて振り返った。

擦りガラスの向こうで、白い光が一度だけ瞬いた。

主電源のブレーカーは、廊下の端にある。

私はそこまで歩いて、レバーの位置を確かめた。

落ちていた。

指で押さえてみたが、動かなかった。

上げるのが怖かったのではない。

上げなくても光る、ということのほうが、怖かった。

※

職員室で名簿を確かめた。

五年二組は、三十四人。

机も、三十四台。

計算は合っている。

合っているのに、私は指を止めた。

出席番号は、一番から三十五番まで振られていた。

十七番が、抜けている。

事務の人に聞いた。

「転出です」

三月の末に、家庭の都合で県外に移った子がいるのだという。

その子の名前は、名簿から消されていた。

けれど、机は減らされていない。

「発注の関係で、台数は変えられんのですよ」

事務の人は、そう言って笑った。

八千万円の教室だ。

机を一つ抜くことは、たぶん誰にもできない。

私は、その転出した子のことを調べた。

十七番。

三年前の記録に、名前が残っていた。

喘息で、月に一度は保健室に来ていた子だ。

その子の記録簿を開いて、私は手を止めた。

最後の来室が、三月の末になっている。

所見の欄には、私の字でこう書いてあった。

「まばたきが減っている。」

書いた覚えが、なかった。

筆跡は間違いなく私のものだ。

はねの癖も、数字の書き方も。

けれど、その日、私は年休を取っている。

出勤簿を確かめた。

確かに、休んでいた。

※

六月の初め、私は業者の点検に立ち会った。

保守の若い技術者が、一台ずつ画面の焼き付きを調べていく。

長時間、同じ画像を映していると、消えない像が残るのだという。

「これ、けっこう出ますね」

技術者は、電源を落とした画面を懐中電灯で斜めに照らした。

黒い画面の中に、うっすらと白い線が見えた。

教科書の枠だった。

九九の表もあった。

どの机にも、同じものが焼き付いている。

いちばん後ろの、窓側から二番目。

その一台だけが、違った。

技術者が手を止めた。

私は、その肩越しに覗き込んだ。

電源を落とした画面に、こちらを見ている子が一人だけ映っていた。

焼き付きだった。

制服の襟の形まで、白い線で残っていた。

顔の部分だけが、なぜか濃かった。

その机の前に、椅子を引いて座り、長い時間まっすぐ画面を見ていなければ、こうはならない。

技術者は、懐中電灯を消した。

「基板、換えときます」

それだけ言って、道具箱を閉じた。

※

換えた基板は、一週間で同じ像を出した。

技術者は、二度目は懐中電灯を出さなかった。

斜めから見ればいい、と、彼は言った。

そして、私に見るなと言った。

「先生、正面から見んほうがええですよ」

理由は聞かなかった。

聞かなくても、彼の目の下の色で分かった。

彼は、その仕事のあと、担当を外れた。

後任の技術者は、明るい人だった。

点検の帰り際、廊下でこう言った。

「あの部屋、湿度が低すぎるんですよ」

「機械には、ええんですけどね」

人には、と続けなかった。

※

私は、その教室の掃除当番の子たちに聞いてみた。

いちばん後ろの、窓側から二番目。

「あそこは、拭かんでええって言われとります」

「誰に」

「先生に」

担任に確かめると、そんな指示は出していないと言った。

出していないが、と、そこで言葉を切った。

「掃除の時間になると、あの机だけ、もう拭いてあるんです」

「水の跡が、まだ乾いてなくて」

私は、拭いた者の名を聞かなかった。

聞いても、答えは同じだろうと思った。

一度だけ、掃除の時間に教室の後ろに立ってみた。

子どもたちは、雑巾を絞って、前の列から拭いていく。

いちばん後ろの、窓側から二番目。

その机の手前で、列が自然に分かれた。

避けているのではない。

避けるという意識すら、そこにはなかった。

道に石があれば、人はよける。

石を見たかどうかは、誰も覚えていない。

そういう避け方だった。

私は、自分の手で拭いてみた。

雑巾は、乾いたまま滑った。

埃も、指紋も、何もつかなかった。

天板だけが、その場所だけ、新品のままだった。

※

七月に入って、私は担任と長く話した。

先生は、痩せていた。

四月に見たときより、袖の中が細くなっている。

「先生は、あの教室で何時間おられますか」

「六時間です」

子どもと、同じだけだ。

先生は、教壇の操作卓の前に立つ。

そこからは、三十四枚の画面が同時に見える。

「見えるんです」

先生は言った。

「三十四枚、全部の画面が、私のほうを向いてる」

机の天板は、水平だ。

向くも何も、ないはずだった。

私は、そう言えなかった。

言えば、先生はもう一日も持たないと思った。

※

七月、一学期の視力検査があった。

結果は、私の予想を超えていた。

五年二組の、三十四人のうち二十九人が、視力を落としていた。

一年で二段階以上落ちた子が、十一人いる。

数字を報告書にまとめて、教頭に出した。

教頭は、老眼鏡を外して長いこと黙っていた。

「これ、機器のせいやと書きますか」

「事実を書きます」

私は、そう答えた。

報告書は、県に上がった。

そして、その教室は、二学期から使われなくなった。

理由の欄には、こう書かれたそうだ。

「児童の眼球には、一日六時間、液晶を見つめ続ける耐久力がない」

その一行を読んだとき、私は妙な安心を覚えた。

原因が体の側にあるなら、まだ手は打てる。

そう思いたかったのだと、今なら分かる。

※

教室は、鍵をかけて閉じられた。

三十四台の机は、そのまま残された。

配線を抜くだけでも、相当な費用がかかるらしい。

夏休みのあいだ、私は何度かその前を通った。

閉じたドアの、擦りガラスの向こうが、時々ぼんやりと明るかった。

主電源は落としてある。

用務員さんも、そう言った。

「戸は開けとらんですよ」

「けど、床に足跡がついとります」

上履きの跡だという。

サイズは、二十一センチほど。

五年生の、平均だ。

※

八月の終わり、私は用務員さんと二人で、教室の鍵を開けた。

理由は、忘れ物の確認ということにした。

本当は、確かめたいことがあった。

床の足跡は、たしかにあった。

入口から、まっすぐ後ろの列へ向かっている。

窓側から二番目で、足跡は止まっていた。

帰りの跡は、なかった。

用務員さんは、モップを持ったまま動かなかった。

「先生」

「これ、拭いてええですか」

私は、頷いた。

拭き終わると、床は元のとおりになった。

翌朝、鍵を開けずに、廊下の窓から中を見た。

足跡は、また同じところで止まっていた。

拭くたびに、増えるのだと分かった。

私は、その日から鍵を開けていない。

※

九月の身体測定で、私は名簿を読み上げた。

一番から順に、名前を呼んでいく。

十七番のところで、私は口をつぐんだ。

その番号には、誰もいない。

いないはずだった。

「はい」

保健室の後ろのほうで、返事があった。

振り返ると、体重計の前に列があるだけだった。

三十四人。

数え直しても、三十四人だった。

その日から、私は名簿を番号順に読まないことにしている。

※

十月、県から視察の後追い調査が来た。

若い職員だった。

彼は、報告書の数字だけを見て、こう聞いた。

「照明を明るくすれば、解決するのでは」

私は、あの教室の窓のフィルムの話をした。

映り込みを防ぐために貼られたフィルムだ。

明るくすれば、画面に人が映る。

映らないようにするために、暗くしてある。

つまり、この設計は最初から、映ることを避けていた。

「誰がそう決めたんでしょうね」

私が言うと、職員は書類をめくる手を止めた。

仕様書の作成者の欄は、空白だった。

発注も、検収も、判は押してある。

書いた者だけが、いない。

※

その学校を離れて、もう七年になる。

あの教室が今どうなっているのか、私は知らない。

聞かないようにしている。

去年、当時の担任だった先生から、年賀状が来た。

今は事務職に移り、画面を見ない部署にいると書いてあった。

文面の最後に、一行だけ添えてあった。

「まばたきは、戻りました」

私は、その葉書を裏返した。

宛名の字は、震えていなかった。

それだけで、じゅうぶんだと思うことにしている。

返事は、まだ出していない。

何を書けばいいのか、七年考えて分からない。

十七番の子は、今も名簿のどこにもいない。

けれど私は、あの子の喘息の薬の名前を、今でも覚えている。

覚えているということが、返事の代わりなのかもしれない。

薬の名前を口の中でつぶやくと、廊下の消毒液の匂いが戻ってくる。

十九年ぶんの匂いだ。

その匂いだけは、画面に焼き付かない。

焼き付かないものだけが、たぶん本当に残るのだと思う。

ただ、家でパソコンの電源を落とすとき、私は必ず画面から目をそらす。

黒くなった画面には、部屋が映る。

部屋と、そこに座っている自分が映る。

映るのは、当たり前だ。

当たり前なのに、私はいつも、映るより先に目をそらしてしまう。

先に目が動くのは、どちらなのか。

それを確かめる勇気が、十九年やっても持てないままでいる。

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