ITエリート

その県は、教育に金をかけることで知られていた。

とりわけ、情報教育の予算は別枠だった。

次の時代を背負う人材を育てる、という言葉が、あらゆる書類の頭についていた。

私は、その県の小学校で養護教諭をしていた。

保健室に十九年いた。

子どもの体調というのは、言葉より先に、目に出る。

熱があるかどうかは、額に触れる前に分かる。

そういう仕事だった。

だから、あの教室のことは、最初から気になっていた。

その教室には、正式な名前がついていた。

スーパーマルチメディアホームルーム。

長すぎるので、校内では「あの教室」と呼ばれていた。

三十四台の机の天板が、そのまま液晶の画面になっている。

黒板はない。

教壇の前に、教員用の操作卓があるだけだ。

映像も、音声も、教科書も、すべてその天板から出てくる。

一つの教室に八千万円かかったという噂が、職員室でささやかれていた。

視察は毎週あった。

背広の人たちが後ろに並び、うなずきながらメモを取る。

その日、教室の照明は落とされる。

三十四枚の画面だけが、白く光っている。

私は廊下の窓から、それを一度だけ見た。

子どもたちの顔が、下から照らされていた。

影が、頬の上へ上へと伸びていた。

人の顔は、下から光を当てると別のものになる。

それは怪談のせいではなく、単に影の向きの問題だ。

分かっているのに、私はその日、廊下でしばらく動けなかった。

背広の人たちは、後ろから見ていた。

子どもの顔を、正面から見た人は一人もいなかった。

視察の記録には、こう書かれた。

「児童は極めて高い集中を示していた」

集中というのは、まばたきの回数で測るものだろうか。

私は、そのとき初めて自分の職業を疑った。

四月から、その教室が五年二組になった。

担任は、情報教育の資格を持つ若い教員だった。

熱心な人だった。

始業式の翌週、その先生が保健室に来た。

「先生、うちのクラスの子、目薬もらえますか」

「二十四人分」

私は、書類の手を止めた。

三十四人のクラスで、二十四人だ。

四月の第二週に、そんなことは起きない。

「まばたきが、減ってるんです」

先生は、少し笑いながら言った。

「集中してる証拠なんですけどね」

私は、その笑い方を覚えている。

自分の言葉を、自分で確かめていないときの笑い方だった。

目薬は、二十四人分渡した。

翌週、また十人分を取りに来た。

先生の指は、震えていなかった。

ただ、白衣ではなく背広の袖口に、白い粉が付いていた。

チョークの粉だ。

「黒板は、ないのでは」

私が言うと、先生は袖を見て、少し驚いた顔をした。

「職員室の、古いやつを使ってるんです」

「授業の準備は、あれじゃないと組めなくて」

八千万円の教室を任された人が、休み時間に古い黒板で下書きをしている。

そのことを、私は誰にも言わなかった。

五月になって、来室する子が増えた。

頭痛と、目の乾き。

それは想定の範囲だった。

想定していなかったのは、子どもたちの言い方だった。

三年前から来ている、喘息の男の子がこう言った。

「画面の中の自分と、目が合いました」

私は、机の上の画面には自分は映らないでしょう、と答えた。

暗くすれば映るのだと、その子は言った。

授業中、映像と映像のあいだに、真っ黒になる瞬間がある。

その一瞬に、自分の顔が映るのだそうだ。

「でも」

その子は、そこで言葉を止めた。

「先に、目が動くんです」

私が問い返す前に、予鈴が鳴った。

その子は、上履きの音を立てずに出ていった。

同じ週に、二人が同じことを言った。

一人は女の子で、算数の時間だと言った。

一人は、いつも保健室で本を読んでいる男の子だった。

私は、なるべく余計な相槌を打たないようにして聞いた。

「黒くなるのは、一秒もないんです」

「でも、そのあいだに、こっちが先に見られてます」

見られている、と、その子は言った。

映っている、とは言わなかった。

私は、その言い方の違いを書き留めた。

書き留めながら、指先が冷えていくのが分かった。

養護教諭の記録簿には、所見を書く欄がある。

私はそこに、こう書いた。

「訴えの内容が、児童間で一致している。」

それ以上は、書けなかった。

私は、放課後にその教室へ入ってみた。

誰もいない教室は、思ったより暗かった。

窓には、映り込みを防ぐためのフィルムが貼ってある。

外の光は、乳白色になって入ってくる。

天板に触れると、ほんのりと温かかった。

電源は、切ってある。

切ってあるのに、温かい。

私は、一台ずつ手を置いて回った。

三十四台のうち、いちばん後ろの列の、窓側から二番目。

その一台だけが、冷たかった。

冷たいというより、外の空気と同じ温度だった。

椅子には、埃が積もっていない。

誰も座っていないはずの席だ。

その席の名札は、外されていた。

私は、名札の跡を指でなぞった。

天板の縁に、糊の残りが四角く白く浮いている。

他の机の名札は、全部ついていた。

つまり、外したのは誰かの手だ。

帰り際、教室のドアを閉めて振り返った。

擦りガラスの向こうで、白い光が一度だけ瞬いた。

主電源のブレーカーは、廊下の端にある。

私はそこまで歩いて、レバーの位置を確かめた。

落ちていた。

指で押さえてみたが、動かなかった。

上げるのが怖かったのではない。

上げなくても光る、ということのほうが、怖かった。

職員室で名簿を確かめた。

五年二組は、三十四人。

机も、三十四台。

計算は合っている。

合っているのに、私は指を止めた。

出席番号は、一番から三十五番まで振られていた。

十七番が、抜けている。

事務の人に聞いた。

「転出です」

三月の末に、家庭の都合で県外に移った子がいるのだという。

その子の名前は、名簿から消されていた。

けれど、机は減らされていない。

「発注の関係で、台数は変えられんのですよ」

事務の人は、そう言って笑った。

八千万円の教室だ。

机を一つ抜くことは、たぶん誰にもできない。

私は、その転出した子のことを調べた。

十七番。

三年前の記録に、名前が残っていた。

喘息で、月に一度は保健室に来ていた子だ。

その子の記録簿を開いて、私は手を止めた。

最後の来室が、三月の末になっている。

所見の欄には、私の字でこう書いてあった。

「まばたきが減っている。」

書いた覚えが、なかった。

筆跡は間違いなく私のものだ。

はねの癖も、数字の書き方も。

けれど、その日、私は年休を取っている。

出勤簿を確かめた。

確かに、休んでいた。

六月の初め、私は業者の点検に立ち会った。

保守の若い技術者が、一台ずつ画面の焼き付きを調べていく。

長時間、同じ画像を映していると、消えない像が残るのだという。

「これ、けっこう出ますね」

技術者は、電源を落とした画面を懐中電灯で斜めに照らした。

黒い画面の中に、うっすらと白い線が見えた。

教科書の枠だった。

九九の表もあった。

どの机にも、同じものが焼き付いている。

いちばん後ろの、窓側から二番目。

その一台だけが、違った。

技術者が手を止めた。

私は、その肩越しに覗き込んだ。

電源を落とした画面に、こちらを見ている子が一人だけ映っていた。

焼き付きだった。

制服の襟の形まで、白い線で残っていた。

顔の部分だけが、なぜか濃かった。

その机の前に、椅子を引いて座り、長い時間まっすぐ画面を見ていなければ、こうはならない。

技術者は、懐中電灯を消した。

「基板、換えときます」

それだけ言って、道具箱を閉じた。

換えた基板は、一週間で同じ像を出した。

技術者は、二度目は懐中電灯を出さなかった。

斜めから見ればいい、と、彼は言った。

そして、私に見るなと言った。

「先生、正面から見んほうがええですよ」

理由は聞かなかった。

聞かなくても、彼の目の下の色で分かった。

彼は、その仕事のあと、担当を外れた。

後任の技術者は、明るい人だった。

点検の帰り際、廊下でこう言った。

「あの部屋、湿度が低すぎるんですよ」

「機械には、ええんですけどね」

人には、と続けなかった。

私は、その教室の掃除当番の子たちに聞いてみた。

いちばん後ろの、窓側から二番目。

「あそこは、拭かんでええって言われとります」

「誰に」

「先生に」

担任に確かめると、そんな指示は出していないと言った。

出していないが、と、そこで言葉を切った。

「掃除の時間になると、あの机だけ、もう拭いてあるんです」

「水の跡が、まだ乾いてなくて」

私は、拭いた者の名を聞かなかった。

聞いても、答えは同じだろうと思った。

一度だけ、掃除の時間に教室の後ろに立ってみた。

子どもたちは、雑巾を絞って、前の列から拭いていく。

いちばん後ろの、窓側から二番目。

その机の手前で、列が自然に分かれた。

避けているのではない。

避けるという意識すら、そこにはなかった。

道に石があれば、人はよける。

石を見たかどうかは、誰も覚えていない。

そういう避け方だった。

私は、自分の手で拭いてみた。

雑巾は、乾いたまま滑った。

埃も、指紋も、何もつかなかった。

天板だけが、その場所だけ、新品のままだった。

七月に入って、私は担任と長く話した。

先生は、痩せていた。

四月に見たときより、袖の中が細くなっている。

「先生は、あの教室で何時間おられますか」

「六時間です」

子どもと、同じだけだ。

先生は、教壇の操作卓の前に立つ。

そこからは、三十四枚の画面が同時に見える。

「見えるんです」

先生は言った。

「三十四枚、全部の画面が、私のほうを向いてる」

机の天板は、水平だ。

向くも何も、ないはずだった。

私は、そう言えなかった。

言えば、先生はもう一日も持たないと思った。

七月、一学期の視力検査があった。

結果は、私の予想を超えていた。

五年二組の、三十四人のうち二十九人が、視力を落としていた。

一年で二段階以上落ちた子が、十一人いる。

数字を報告書にまとめて、教頭に出した。

教頭は、老眼鏡を外して長いこと黙っていた。

「これ、機器のせいやと書きますか」

「事実を書きます」

私は、そう答えた。

報告書は、県に上がった。

そして、その教室は、二学期から使われなくなった。

理由の欄には、こう書かれたそうだ。

「児童の眼球には、一日六時間、液晶を見つめ続ける耐久力がない」

その一行を読んだとき、私は妙な安心を覚えた。

原因が体の側にあるなら、まだ手は打てる。

そう思いたかったのだと、今なら分かる。

教室は、鍵をかけて閉じられた。

三十四台の机は、そのまま残された。

配線を抜くだけでも、相当な費用がかかるらしい。

夏休みのあいだ、私は何度かその前を通った。

閉じたドアの、擦りガラスの向こうが、時々ぼんやりと明るかった。

主電源は落としてある。

用務員さんも、そう言った。

「戸は開けとらんですよ」

「けど、床に足跡がついとります」

上履きの跡だという。

サイズは、二十一センチほど。

五年生の、平均だ。

八月の終わり、私は用務員さんと二人で、教室の鍵を開けた。

理由は、忘れ物の確認ということにした。

本当は、確かめたいことがあった。

床の足跡は、たしかにあった。

入口から、まっすぐ後ろの列へ向かっている。

窓側から二番目で、足跡は止まっていた。

帰りの跡は、なかった。

用務員さんは、モップを持ったまま動かなかった。

「先生」

「これ、拭いてええですか」

私は、頷いた。

拭き終わると、床は元のとおりになった。

翌朝、鍵を開けずに、廊下の窓から中を見た。

足跡は、また同じところで止まっていた。

拭くたびに、増えるのだと分かった。

私は、その日から鍵を開けていない。

九月の身体測定で、私は名簿を読み上げた。

一番から順に、名前を呼んでいく。

十七番のところで、私は口をつぐんだ。

その番号には、誰もいない。

いないはずだった。

「はい」

保健室の後ろのほうで、返事があった。

振り返ると、体重計の前に列があるだけだった。

三十四人。

数え直しても、三十四人だった。

その日から、私は名簿を番号順に読まないことにしている。

十月、県から視察の後追い調査が来た。

若い職員だった。

彼は、報告書の数字だけを見て、こう聞いた。

「照明を明るくすれば、解決するのでは」

私は、あの教室の窓のフィルムの話をした。

映り込みを防ぐために貼られたフィルムだ。

明るくすれば、画面に人が映る。

映らないようにするために、暗くしてある。

つまり、この設計は最初から、映ることを避けていた。

「誰がそう決めたんでしょうね」

私が言うと、職員は書類をめくる手を止めた。

仕様書の作成者の欄は、空白だった。

発注も、検収も、判は押してある。

書いた者だけが、いない。

その学校を離れて、もう七年になる。

あの教室が今どうなっているのか、私は知らない。

聞かないようにしている。

去年、当時の担任だった先生から、年賀状が来た。

今は事務職に移り、画面を見ない部署にいると書いてあった。

文面の最後に、一行だけ添えてあった。

「まばたきは、戻りました」

私は、その葉書を裏返した。

宛名の字は、震えていなかった。

それだけで、じゅうぶんだと思うことにしている。

返事は、まだ出していない。

何を書けばいいのか、七年考えて分からない。

十七番の子は、今も名簿のどこにもいない。

けれど私は、あの子の喘息の薬の名前を、今でも覚えている。

覚えているということが、返事の代わりなのかもしれない。

薬の名前を口の中でつぶやくと、廊下の消毒液の匂いが戻ってくる。

十九年ぶんの匂いだ。

その匂いだけは、画面に焼き付かない。

焼き付かないものだけが、たぶん本当に残るのだと思う。

ただ、家でパソコンの電源を落とすとき、私は必ず画面から目をそらす。

黒くなった画面には、部屋が映る。

部屋と、そこに座っている自分が映る。

映るのは、当たり前だ。

当たり前なのに、私はいつも、映るより先に目をそらしてしまう。

先に目が動くのは、どちらなのか。

それを確かめる勇気が、十九年やっても持てないままでいる。

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