俺神様

うちの家には、決め役という役目がある。

大した意味はない。

法事の日取りや、田んぼを貸すか貸さないか、そういうことを最後に一言で決める。

決めるのは、代々一人だけと決まっている。

俺の代では、俺だった。

理由は、母が見た夢だという。

俺を身ごもった晩と、俺が生まれた明け方。

母は二度とも、白い光が自分の腹に入っていく夢を見たそうだ。

同じ晩、祖父は家の水甕を見に行った。

前の日にいっぱいに汲んだ水が、半分になっていたという。

こぼれた跡はなかった。

それだけの話だ。

それだけの話で、俺は決め役になった。

決め役は、俺で四代目になるらしい。

初代は、祖父の祖父にあたる人だ。

その人は、村の橋をどこに架けるかを決めたと聞いている。

架けた翌年、上流の橋が流れて、下流の橋だけが残った。

二代目は、祖父の母だった。

戦争の終わり際、防空壕をどちらに掘るかを決めた人だ。

掘らなかったほうに、焼夷弾が落ちたそうだ。

三代目は、祖父。

祖父が決めたことは、家では誰も口にしない。

仏壇の裏に、決め役の名を書いた紙が貼ってある。

俺の名前は、いちばん左の端に、まだ濡れているような墨で書かれていた。

書いた覚えのある者は、家に一人もいない。

言っておくが、俺には何もない。

十代の終わりに、自分は平凡な人間だと理解した。

宝くじは当たらないし、探し物は見つからない。

高校を出て名古屋に来て、今はビルの清掃の会社にいる。

夜が明ける前に働きに出て、人のいない廊下にモップをかける。

誰かの神様が宿るような場所ではない。

家族も、この話を外ではしない。

躾も兄弟と同じだった。

ただ、何かを決めるときだけ、電話が鳴る。

「あんた、どう思う」

母がそう言う。

俺は適当に答える。

その答えが良ければ神様のおかげになり、悪ければ神様が試したことになる。

便利な神様だと、俺はずっと思っていた。

一度だけ、母に聞いたことがある。

その神様は、どこにいるのか、と。

母は、水甕を指した。

甕は土間の隅にあって、蓋は木でできている。

祖父の代までは、朝いちばんに水を汲み替えていたそうだ。

今は水道が来ているから、飾りのようなものだ。

それでも母は、正月と盆にだけ、甕をいっぱいにする。

「減ったら、どうするん」

子どもの頃、そう聞いた。

母は、蓋を撫でながら答えた。

「減った分は、どっかで足りとるんよ」

その言い方の意味を、俺はずっと考えないようにしてきた。

去年の春、姪が体調を崩した。

弟の下の子で、五歳になったばかりだった。

近所の医者では原因が分からず、市民病院でも分からなかった。

熱が出ては引き、引いてはまた出る。

そのうち、目の焦点が合わなくなった。

三つ目の病院で、ようやく病名がついた。

治療は長くかかると言われた。

薬の一つが保険の外にあって、費用の額を聞いて、弟は黙り込んだそうだ。

払えずに諦める家も少なくないのだと、医者は言葉を選びながら言ったらしい。

弟にも、両親にも、そんな貯えはない。

実家の土地を売るしかないという話になった。

祖父が拓いた田と、水甕のある家だ。

そこで、母が俺に電話をかけた。

決めてくれ、と。

その電話を、俺は取っていない。

というより、姪が病気だということ自体、俺は知らなかった。

弟とは二年ほど連絡を取っていなかった。

俺がそれを知ったのは、口座に八十万円が振り込まれたときだった。

「お前の取り分だ」

弟からの短い着信が、留守番電話に残っていた。

意味が分からず、俺は実家にかけた。

母は、当たり前のように話した。

「あんたが言うたやろ」

「土地は売るな、蔵の梁の上を見ろって」

俺は、受話器を持ったまま台所の壁を見ていた。

蔵の梁など、二十年以上見上げたこともない。

その日のうちに、俺は岐阜へ帰った。

蔵は、思ったより小さかった。

梁は煤で黒く、埃が積もっていた。

弟が脚立を押さえ、俺が上った。

梁の上には、油紙に包まれた古い封筒が二つ、寝かせてあった。

一つには、祖父の名で戦後すぐの証書が入っていた。

もう一つには、番号を書いた紙と、貸金庫の鍵が入っていた。

土地を売らずに、姪の治療費は十年分まかなえるという額だった。

弟は脚立の下で、両手を膝について動かなくなった。

俺は梁の上から、その頭のつむじを見ていた。

言うべき言葉が、一つも浮かばなかった。

貸金庫は、隣の市の信用金庫にあった。

契約者は祖父で、契約日は俺が生まれた年の、四月だった。

祖父は俺が中学のときに亡くなっている。

手数料は口座から引き落とされ、四十年近く、誰にも知られずに払われ続けていた。

窓口の女性が、台帳をめくって首をかしげた。

「一度だけ、開閉の記録があります」

「去年の、三月です」

弟の顔を見た。

弟は首を横に振った。

母も、父も、開けていない。

記録の欄には、来訪者の署名が残っていた。

俺の姓と、俺の名前が書いてあった。

字は、俺の字ではなかった。

右上がりの、祖父の字だった。

問題は、そこからだった。

母の携帯には、通話の記録が残っていた。

三月十四日、二十一時六分。

十七分の通話。

しかし番号は、俺の番号ではなかった。

似ていた。

俺の番号の、下四桁だけが違う。

その四桁は、俺が高校の頃に使っていた番号のものだった。

もう十六年前に、解約している。

「あんた、番号変えたて言うたやろ」

母は、そう主張した。

「変えてない」

俺が言うと、母は少し黙った。

それから、こう言った。

「ほうか」

たったそれだけだった。

驚きもしなかった。

その落ち着きのほうが、俺には応えた。

俺は、その番号にかけた。

一度目は、呼び出し音が十回鳴って切れた。

二度目は、知らない男が出た。

「もしもし」

若くも年寄りでもない、平らな声だった。

俺が名乗る前に、通話は切れた。

三度目にかけたとき、受話器の向こうで、俺の声が「はい」と言った。

俺は、自分の声を録音で聞いたことがある。

人が思うほど、自分の声というのは自分に似ていない。

だからこそ分かった。

あれは、録音で聞くときの、あの声だった。

次の日にかけ直すと、その番号は解約されていた。

母は、姪の病名が分からなかった頃の話もした。

「あんたが、県外の病院の名前を言うたんよ」

「三つ目の病院や。あそこにおる先生の名前まで」

俺は、その病院の名前を知らない。

行ったことも、聞いたこともない。

弟の妻は、その電話のあと、朝いちばんの電車でそこへ行ったのだという。

「兄さん、あのときの声、ちょっと変やった」

弟は言った。

「風邪でも引いてるみたいな声で、ずっと同じ調子で喋っとった」

「電話の後ろで、水の音がしとった」

俺の部屋に、水の音のする場所はない。

蛇口は台所に一つだけで、その晩、俺は夜勤明けで眠っていた。

眠っていた、はずだった。

弟の妻にも、話を聞いた。

彼女は、その電話のことをよく覚えていた。

「お義兄さんは、最初に病院の名前を言われました」

「それから、待合室の何番の椅子に座れ、とも」

そんな指示をする人間がいるだろうか。

彼女は言われた通りにしたそうだ。

となりに座っていたのが、その病院を辞める前日の医師だった。

姪の病名をつけたのは、その人だ。

翌週には、遠くの大学へ移っていったという。

「一日ずれとったら、会えんかったんです」

彼女はそう言って、湯呑みの縁を指でなぞった。

「電話の後ろで、水の音がしとりました」

弟が言ったのと、同じことだった。

二人は、その話を互いにしていない。

仏間で、俺は柱を見た。

子どもの頃、背丈を刻んだ傷が並んでいる。

俺と、弟と、いとこの分。

俺の列を、下から順に指でなぞった。

六歳、八歳、十歳。

十二歳の傷の上に、もう一本、傷があった。

その位置は、十二歳のときの俺より、ずっと高い。

刻まれた年は、去年の三月だった。

母は、その傷を見て何も言わなかった。

代わりに、台所へ行って湯を沸かした。

湯呑みを二つ出し、片方だけに湯を注いだ。

もう片方は、空のまま俺の前に置かれた。

「お母さん」

「これ」

母は、俺を見ずに答えた。

「あんたの神様、分離したんやないの」

そういう言い方を、この人はする。

昔から、ものを壊れたと言わずに、離れたと言う人だった。

その晩、俺は仏間に布団を敷いて寝た。

夜半に目が覚めた。

土間のほうから、水の音がしていた。

柄杓で汲むような、ゆっくりした音だ。

俺は起き上がらなかった。

起き上がれなかったのではない。

起き上がる必要がない、と、なぜか確信していた。

音は、十七分ほど続いた。

枕元の時計を見ていたから、間違いない。

朝、土間へ行くと、水甕の蓋がずれていた。

中の水は、半分になっていた。

床は、乾いていた。

母は、蓋を戻しながら言った。

「よう来たなあ、て言うといたわ」

誰に言ったのか、俺は聞かなかった。

その週、俺は隣の集落の神社を訪ねた。

決め役のことを知る人がいるかもしれないと思ったからだ。

宮司は、七十を過ぎた人だった。

家の名を告げると、少し身を引いた。

「あの家は、水を借りとる家や」

借りている、と宮司は言った。

「借りたもんは、返さなあかん」

「返せんときは、代わりに数えるんや」

何を数えるのかと聞いた。

宮司は答えず、社務所の窓を閉めた。

帰り際、境内の手水鉢を見た。

水は、なみなみと満ちていた。

その日は、雨など降っていなかった。

名古屋に戻って、俺は自分の携帯を機種変更した。

店員は、古い端末の通話履歴を表示して見せてくれた。

念のため、三月十四日の欄を確かめた。

発信も着信も、一件もない。

その代わり、電池の使用記録に、妙な線が残っていた。

その晩の二十一時六分から、十七分間だけ、電池が減っている。

使っていない端末が、電気だけを使ったことになる。

「これ、何ですかね」

俺が聞くと、店員は画面を拡大した。

そして、少し困った顔をした。

「通話中と、同じ減り方です」

弟には、この話をしていない。

姪が良くなっていく道筋に、余計な影を落としたくなかった。

ただ一度、弟が電話口でこう言ったことがある。

「兄さん、去年の三月って、体調どうやった」

俺は、覚えていないと答えた。

実際は覚えている。

その週、俺は仕事を三日休んでいる。

熱もなく、痛みもなく、ただ、朝になっても体が布団から起きなかった。

起きられなかったのではない。

起きているつもりで、俺はずっと天井を見ていた。

天井の木目が、いつのまにか実家の仏間のものになっていた。

そう思ったところで、記憶は途切れている。

番号も変えた。

それでも、家族には新しい番号を教えていない。

教えなくても、母は用があるときにかけてくる。

一度、番号を確認したことがある。

母の画面に表示されていたのは、俺が今使っている番号だった。

教えていない番号だ。

「誰に聞いた」

そう尋ねると、母は台所の蛇口を締めながら答えた。

「あんたが、教えてくれたやろ」

それでよかったのだと思う。

思っているのに、俺は古い番号の入った紙を、財布に入れたまま持ち歩いている。

姪は、少しずつ良くなっている。

秋には、目の焦点が合うようになった。

弟から送られてきた写真の中で、姪は水甕の縁につかまって立っていた。

甕の水は、なみなみと満ちていた。

その写真を見たとき、なぜか俺は、自分の指先が冷たいことに気づいた。

暖房の効いた部屋だった。

昨日、実家から電話があった。

母だった。

「今年も、蔵を見た方がええと思う?」

俺は、答えあぐねた。

見て、何もなければそれでいい。

何かあったら、それはもう俺が決めたことではない。

「やめとき」

そう言って、電話を切った。

切ったあと、着信の履歴を見た。

そこに、もう一件あった。

俺がかけた覚えのない発信履歴が、同じ時刻に残っていた。

宛先の名前は、俺の名前だった。

通話時間は、十七分。

俺は今も、夜が明ける前の廊下にモップをかけている。

誰もいない。

バケツの水が、床の上でわずかに揺れる。

その揺れを見るたび、水甕のことを思う。

清掃の仕事には、決まりごとが多い。

モップは、奥から手前へ引く。

バケツの水は、濁ったら替える。

替えた水を捨てるとき、俺はいつも量を目で測る。

入れた分と、捨てる分が、どうしても合わない。

床に残る分、蒸発する分、たしかにある。

それは分かっている。

分かっているのに、俺は毎晩、その差を数えている。

宮司の言葉が、そこで戻ってくる。

返せんときは、代わりに数えるんや。

何を数えるのかは、まだ聞けていない。

去年の三月から、俺は数え始めている。

一晩で半分になった水は、どこへ行ったのだろう。

その分だけ、何かが満ちた場所があるのだろうか。

母は、分離したと言った。

だとしたら、離れた片方は、まだどこかで電話に出ている。

俺の声で、俺の代わりに、家族の相談に乗っている。

こう考えると、少しだけ安心する。

安心してしまう自分が、いちばん分からない。

来年の三月、また電話が鳴るだろう。

鳴る前に、番号を変えることもできる。

何度でも変えられる。

けれど、変えたところで、母の画面には俺の番号が出るのだ。

先週、財布を落とした。

戻ってきたとき、中身は何一つ減っていなかった。

ただ、古い番号を書いた紙だけが、なくなっていた。

代わりに、知らない紙が一枚入っていた。

そこには、俺の今の番号が書いてあった。

右上がりの、祖父の字で。

警察には届けていない。

届けたところで、盗まれたものは何もない。

増えたものが一枚あるだけだ。

その紙は、今も財布の同じ場所に入れてある。

捨てようとして、二度、手が止まった。

捨てたら、こちらの数が一つ減る。

減った分は、どこかで足りるのだろう。

そう考えると、指先がまた冷たくなる。

暖房を強くしても、指先だけは戻らない。

そういう体になったのだと、最近は思うようにしている。

水に触れる仕事を選んだのは、たまたまだ。

たまたまだと、俺はまだ言い張っている。

出るべきかどうか、俺はまだ決めかねている。

決め役なのに、それだけが決められない。

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