うちの家には、決め役という役目がある。
大した意味はない。
法事の日取りや、田んぼを貸すか貸さないか、そういうことを最後に一言で決める。
決めるのは、代々一人だけと決まっている。
俺の代では、俺だった。
理由は、母が見た夢だという。
俺を身ごもった晩と、俺が生まれた明け方。
母は二度とも、白い光が自分の腹に入っていく夢を見たそうだ。
同じ晩、祖父は家の水甕を見に行った。
前の日にいっぱいに汲んだ水が、半分になっていたという。
こぼれた跡はなかった。
それだけの話だ。
それだけの話で、俺は決め役になった。
決め役は、俺で四代目になるらしい。
初代は、祖父の祖父にあたる人だ。
その人は、村の橋をどこに架けるかを決めたと聞いている。
架けた翌年、上流の橋が流れて、下流の橋だけが残った。
二代目は、祖父の母だった。
戦争の終わり際、防空壕をどちらに掘るかを決めた人だ。
掘らなかったほうに、焼夷弾が落ちたそうだ。
三代目は、祖父。
祖父が決めたことは、家では誰も口にしない。
仏壇の裏に、決め役の名を書いた紙が貼ってある。
俺の名前は、いちばん左の端に、まだ濡れているような墨で書かれていた。
書いた覚えのある者は、家に一人もいない。
※
言っておくが、俺には何もない。
十代の終わりに、自分は平凡な人間だと理解した。
宝くじは当たらないし、探し物は見つからない。
高校を出て名古屋に来て、今はビルの清掃の会社にいる。
夜が明ける前に働きに出て、人のいない廊下にモップをかける。
誰かの神様が宿るような場所ではない。
家族も、この話を外ではしない。
躾も兄弟と同じだった。
ただ、何かを決めるときだけ、電話が鳴る。
「あんた、どう思う」
母がそう言う。
俺は適当に答える。
その答えが良ければ神様のおかげになり、悪ければ神様が試したことになる。
便利な神様だと、俺はずっと思っていた。
一度だけ、母に聞いたことがある。
その神様は、どこにいるのか、と。
母は、水甕を指した。
甕は土間の隅にあって、蓋は木でできている。
祖父の代までは、朝いちばんに水を汲み替えていたそうだ。
今は水道が来ているから、飾りのようなものだ。
それでも母は、正月と盆にだけ、甕をいっぱいにする。
「減ったら、どうするん」
子どもの頃、そう聞いた。
母は、蓋を撫でながら答えた。
「減った分は、どっかで足りとるんよ」
その言い方の意味を、俺はずっと考えないようにしてきた。
※
去年の春、姪が体調を崩した。
弟の下の子で、五歳になったばかりだった。
近所の医者では原因が分からず、市民病院でも分からなかった。
熱が出ては引き、引いてはまた出る。
そのうち、目の焦点が合わなくなった。
三つ目の病院で、ようやく病名がついた。
治療は長くかかると言われた。
薬の一つが保険の外にあって、費用の額を聞いて、弟は黙り込んだそうだ。
払えずに諦める家も少なくないのだと、医者は言葉を選びながら言ったらしい。
弟にも、両親にも、そんな貯えはない。
実家の土地を売るしかないという話になった。
祖父が拓いた田と、水甕のある家だ。
そこで、母が俺に電話をかけた。
決めてくれ、と。
※
その電話を、俺は取っていない。
というより、姪が病気だということ自体、俺は知らなかった。
弟とは二年ほど連絡を取っていなかった。
俺がそれを知ったのは、口座に八十万円が振り込まれたときだった。
「お前の取り分だ」
弟からの短い着信が、留守番電話に残っていた。
意味が分からず、俺は実家にかけた。
母は、当たり前のように話した。
「あんたが言うたやろ」
「土地は売るな、蔵の梁の上を見ろって」
俺は、受話器を持ったまま台所の壁を見ていた。
蔵の梁など、二十年以上見上げたこともない。
※
その日のうちに、俺は岐阜へ帰った。
蔵は、思ったより小さかった。
梁は煤で黒く、埃が積もっていた。
弟が脚立を押さえ、俺が上った。
梁の上には、油紙に包まれた古い封筒が二つ、寝かせてあった。
一つには、祖父の名で戦後すぐの証書が入っていた。
もう一つには、番号を書いた紙と、貸金庫の鍵が入っていた。
土地を売らずに、姪の治療費は十年分まかなえるという額だった。
弟は脚立の下で、両手を膝について動かなくなった。
俺は梁の上から、その頭のつむじを見ていた。
言うべき言葉が、一つも浮かばなかった。
※
貸金庫は、隣の市の信用金庫にあった。
契約者は祖父で、契約日は俺が生まれた年の、四月だった。
祖父は俺が中学のときに亡くなっている。
手数料は口座から引き落とされ、四十年近く、誰にも知られずに払われ続けていた。
窓口の女性が、台帳をめくって首をかしげた。
「一度だけ、開閉の記録があります」
「去年の、三月です」
弟の顔を見た。
弟は首を横に振った。
母も、父も、開けていない。
記録の欄には、来訪者の署名が残っていた。
俺の姓と、俺の名前が書いてあった。
字は、俺の字ではなかった。
右上がりの、祖父の字だった。
※
問題は、そこからだった。
母の携帯には、通話の記録が残っていた。
三月十四日、二十一時六分。
十七分の通話。
しかし番号は、俺の番号ではなかった。
似ていた。
俺の番号の、下四桁だけが違う。
その四桁は、俺が高校の頃に使っていた番号のものだった。
もう十六年前に、解約している。
「あんた、番号変えたて言うたやろ」
母は、そう主張した。
「変えてない」
俺が言うと、母は少し黙った。
それから、こう言った。
「ほうか」
たったそれだけだった。
驚きもしなかった。
その落ち着きのほうが、俺には応えた。
※
俺は、その番号にかけた。
一度目は、呼び出し音が十回鳴って切れた。
二度目は、知らない男が出た。
「もしもし」
若くも年寄りでもない、平らな声だった。
俺が名乗る前に、通話は切れた。
三度目にかけたとき、受話器の向こうで、俺の声が「はい」と言った。
俺は、自分の声を録音で聞いたことがある。
人が思うほど、自分の声というのは自分に似ていない。
だからこそ分かった。
あれは、録音で聞くときの、あの声だった。
次の日にかけ直すと、その番号は解約されていた。
※
母は、姪の病名が分からなかった頃の話もした。
「あんたが、県外の病院の名前を言うたんよ」
「三つ目の病院や。あそこにおる先生の名前まで」
俺は、その病院の名前を知らない。
行ったことも、聞いたこともない。
弟の妻は、その電話のあと、朝いちばんの電車でそこへ行ったのだという。
「兄さん、あのときの声、ちょっと変やった」
弟は言った。
「風邪でも引いてるみたいな声で、ずっと同じ調子で喋っとった」
「電話の後ろで、水の音がしとった」
俺の部屋に、水の音のする場所はない。
蛇口は台所に一つだけで、その晩、俺は夜勤明けで眠っていた。
眠っていた、はずだった。
弟の妻にも、話を聞いた。
彼女は、その電話のことをよく覚えていた。
「お義兄さんは、最初に病院の名前を言われました」
「それから、待合室の何番の椅子に座れ、とも」
そんな指示をする人間がいるだろうか。
彼女は言われた通りにしたそうだ。
となりに座っていたのが、その病院を辞める前日の医師だった。
姪の病名をつけたのは、その人だ。
翌週には、遠くの大学へ移っていったという。
「一日ずれとったら、会えんかったんです」
彼女はそう言って、湯呑みの縁を指でなぞった。
「電話の後ろで、水の音がしとりました」
弟が言ったのと、同じことだった。
二人は、その話を互いにしていない。
※
仏間で、俺は柱を見た。
子どもの頃、背丈を刻んだ傷が並んでいる。
俺と、弟と、いとこの分。
俺の列を、下から順に指でなぞった。
六歳、八歳、十歳。
十二歳の傷の上に、もう一本、傷があった。
その位置は、十二歳のときの俺より、ずっと高い。
刻まれた年は、去年の三月だった。
母は、その傷を見て何も言わなかった。
代わりに、台所へ行って湯を沸かした。
湯呑みを二つ出し、片方だけに湯を注いだ。
もう片方は、空のまま俺の前に置かれた。
「お母さん」
「これ」
母は、俺を見ずに答えた。
「あんたの神様、分離したんやないの」
そういう言い方を、この人はする。
昔から、ものを壊れたと言わずに、離れたと言う人だった。
その晩、俺は仏間に布団を敷いて寝た。
夜半に目が覚めた。
土間のほうから、水の音がしていた。
柄杓で汲むような、ゆっくりした音だ。
俺は起き上がらなかった。
起き上がれなかったのではない。
起き上がる必要がない、と、なぜか確信していた。
音は、十七分ほど続いた。
枕元の時計を見ていたから、間違いない。
朝、土間へ行くと、水甕の蓋がずれていた。
中の水は、半分になっていた。
床は、乾いていた。
母は、蓋を戻しながら言った。
「よう来たなあ、て言うといたわ」
誰に言ったのか、俺は聞かなかった。
※
その週、俺は隣の集落の神社を訪ねた。
決め役のことを知る人がいるかもしれないと思ったからだ。
宮司は、七十を過ぎた人だった。
家の名を告げると、少し身を引いた。
「あの家は、水を借りとる家や」
借りている、と宮司は言った。
「借りたもんは、返さなあかん」
「返せんときは、代わりに数えるんや」
何を数えるのかと聞いた。
宮司は答えず、社務所の窓を閉めた。
帰り際、境内の手水鉢を見た。
水は、なみなみと満ちていた。
その日は、雨など降っていなかった。
※
名古屋に戻って、俺は自分の携帯を機種変更した。
店員は、古い端末の通話履歴を表示して見せてくれた。
念のため、三月十四日の欄を確かめた。
発信も着信も、一件もない。
その代わり、電池の使用記録に、妙な線が残っていた。
その晩の二十一時六分から、十七分間だけ、電池が減っている。
使っていない端末が、電気だけを使ったことになる。
「これ、何ですかね」
俺が聞くと、店員は画面を拡大した。
そして、少し困った顔をした。
「通話中と、同じ減り方です」
※
弟には、この話をしていない。
姪が良くなっていく道筋に、余計な影を落としたくなかった。
ただ一度、弟が電話口でこう言ったことがある。
「兄さん、去年の三月って、体調どうやった」
俺は、覚えていないと答えた。
実際は覚えている。
その週、俺は仕事を三日休んでいる。
熱もなく、痛みもなく、ただ、朝になっても体が布団から起きなかった。
起きられなかったのではない。
起きているつもりで、俺はずっと天井を見ていた。
天井の木目が、いつのまにか実家の仏間のものになっていた。
そう思ったところで、記憶は途切れている。
番号も変えた。
それでも、家族には新しい番号を教えていない。
教えなくても、母は用があるときにかけてくる。
一度、番号を確認したことがある。
母の画面に表示されていたのは、俺が今使っている番号だった。
教えていない番号だ。
「誰に聞いた」
そう尋ねると、母は台所の蛇口を締めながら答えた。
「あんたが、教えてくれたやろ」
それでよかったのだと思う。
思っているのに、俺は古い番号の入った紙を、財布に入れたまま持ち歩いている。
姪は、少しずつ良くなっている。
秋には、目の焦点が合うようになった。
弟から送られてきた写真の中で、姪は水甕の縁につかまって立っていた。
甕の水は、なみなみと満ちていた。
その写真を見たとき、なぜか俺は、自分の指先が冷たいことに気づいた。
暖房の効いた部屋だった。
※
昨日、実家から電話があった。
母だった。
「今年も、蔵を見た方がええと思う?」
俺は、答えあぐねた。
見て、何もなければそれでいい。
何かあったら、それはもう俺が決めたことではない。
「やめとき」
そう言って、電話を切った。
切ったあと、着信の履歴を見た。
そこに、もう一件あった。
俺がかけた覚えのない発信履歴が、同じ時刻に残っていた。
宛先の名前は、俺の名前だった。
通話時間は、十七分。
※
俺は今も、夜が明ける前の廊下にモップをかけている。
誰もいない。
バケツの水が、床の上でわずかに揺れる。
その揺れを見るたび、水甕のことを思う。
清掃の仕事には、決まりごとが多い。
モップは、奥から手前へ引く。
バケツの水は、濁ったら替える。
替えた水を捨てるとき、俺はいつも量を目で測る。
入れた分と、捨てる分が、どうしても合わない。
床に残る分、蒸発する分、たしかにある。
それは分かっている。
分かっているのに、俺は毎晩、その差を数えている。
宮司の言葉が、そこで戻ってくる。
返せんときは、代わりに数えるんや。
何を数えるのかは、まだ聞けていない。
去年の三月から、俺は数え始めている。
一晩で半分になった水は、どこへ行ったのだろう。
その分だけ、何かが満ちた場所があるのだろうか。
母は、分離したと言った。
だとしたら、離れた片方は、まだどこかで電話に出ている。
俺の声で、俺の代わりに、家族の相談に乗っている。
こう考えると、少しだけ安心する。
安心してしまう自分が、いちばん分からない。
来年の三月、また電話が鳴るだろう。
鳴る前に、番号を変えることもできる。
何度でも変えられる。
けれど、変えたところで、母の画面には俺の番号が出るのだ。
先週、財布を落とした。
戻ってきたとき、中身は何一つ減っていなかった。
ただ、古い番号を書いた紙だけが、なくなっていた。
代わりに、知らない紙が一枚入っていた。
そこには、俺の今の番号が書いてあった。
右上がりの、祖父の字で。
警察には届けていない。
届けたところで、盗まれたものは何もない。
増えたものが一枚あるだけだ。
その紙は、今も財布の同じ場所に入れてある。
捨てようとして、二度、手が止まった。
捨てたら、こちらの数が一つ減る。
減った分は、どこかで足りるのだろう。
そう考えると、指先がまた冷たくなる。
暖房を強くしても、指先だけは戻らない。
そういう体になったのだと、最近は思うようにしている。
水に触れる仕事を選んだのは、たまたまだ。
たまたまだと、俺はまだ言い張っている。
出るべきかどうか、俺はまだ決めかねている。
決め役なのに、それだけが決められない。