風呂の蓋
これはある女性がOLとして働きながら、一人暮らしをしていた数年前の夏の夜の話である。
彼女が当時住んでいた1DKは、トイレと浴槽が一緒になったユニットバス。
ある夜、沸いた頃を見計らって、お風呂に入ろうと浴槽のフタを開くと人の頭のような影が見えた。
頭部の上半分が浴槽の真ん中にポッコリと浮き、鼻の付け根から下は沈んでいる。それは女の人だった。
見開いた両目は正面の浴槽の壁を見つめ、長い髪が海藻のように揺れて広がり、浮力でふわりと持ちあげられた白く細い両腕が、黒髪の間に見え隠れしていた。
どんな姿勢を取ってもこの狭い浴槽にこんな風に入れるはずがないので、人間でないことは明らかだった。
突然の出来事に、彼女はフタを手にしたまま、裸で立ちつくしてしまっていた。
女の人は、呆然とする彼女に気づいたようで、目だけを動かして彼女を見すえると、ニタっと笑った口元が、お湯の中、黒く長い髪の合間で、真っ赤に開いた。
『あっ、だめだっ!』
次の瞬間、彼女は浴槽にフタをした。フタの下からゴボゴボという音に混ざって笑い声が聞こえてくる。
と同時に、閉じたフタを下から引っ掻くような音が……。
彼女は洗面器やブラシやシャンプーやら、そのあたりにあるものを、わざと大きな音を立てながら手当たり次第にフタの上へ乗せ、慌てて浴室を飛び出した。
浴室の扉の向こうでは、フタの下から聞こえる引っ掻く音が掌で叩く音に変わっていた。
彼女は脱いだばかりのTシャツとGパンを身につけ、部屋を飛び出るとタクシーを拾い、一番近くに住む女友達のところへ逃げ込んだ。
※
数時間後、深夜十二時を回った頃だろうか。
カギもかけず、また何も持たず飛び出たこともあり、女友達に付き添ってもらい一旦部屋へ戻ることにした。
女友達は今回のような話を笑い飛ばす好奇心旺盛なタイプで、彼女の代わりに浴室の扉を開けてくれる事になった。
浴室は、とても静かだった。フタの上に載せたいろんなものは全部、床に落ちていた。お湯の中からの笑い声も、フタを叩く音もしていない。
女友達が浴槽のフタを開ける。しかし、湯気が立つだけで、女の人どころか髪の毛の一本も見当たらない。
お湯もキレイなものだったが、やはり気味が悪いので、女友達に頼んでお湯を落としてもらったのだった。
その時、まったく別のところで嫌なものを見つけてしまった。
彼女の身体は固まった。洋式便器の、閉じたフタと便座の間から、長い髪がゾロリとはみ出ている。女友達も、それに気付いた。
女友達は彼女が止めるのも聞かず、便器のフタを開いた。その中には、女の人の顔だけが上を向いて入っている。
まるでお面のようなその女の人は目だけを動かすと、立ちすくんでいる女友達を見て、それから次に彼女を見た。
彼女と視線が合った途端、女の人はまた口をぱっくりと開き、今度はハッキリと聞こえる甲高い声で笑い始めた。
「はははははは…ははははははは…」
笑い声にあわせて、女の人の顔がゼンマイ仕掛けのように小刻みに震え、はみ出た黒髪がぞぞぞぞっ…っと便器の中に引き込まれていく。
顔を引きつらせた女友達は、叩きつけるように便器のフタを閉じた。そしてそのまま片手でフタを押さえ、もう片方の手で水洗のレバーをひねった。
耳障りな笑い声が、水の流れる音と、無理矢理飲み込もうとする吸引音にかき消されていく。
その後、無我夢中だったせいか、彼女はよく覚えていなかった。
気が付くと、簡単な着替えと貴重品だけを持って、彼女と女友達は女友達の部屋の前にいた。
部屋に入った女友達は、まず最初にトイレと浴槽のフタを開き「絶対に閉じないでね」と言った。
翌日の早朝、嫌がる女友達に頼み込んでもう一度付き添ってもらい、自分の部屋へ戻ってみた。しかしそこにはもう何もなかった。
それでも彼女はアパートを引き払い、実家に帰ることにした。通勤時間は長くなるなどと言ってはいられない。
彼女は今でもお風呂に入るときは母か妹が入っているタイミングを見計らって入るようにしている。
トイレのフタは、家族に了解をもらって、ずっと外したままにしてるのだという。