その家は、家賃が相場の半分だった。
私が小学五年の秋のことだ。
父の転勤で、私たち一家は、地方の城下町に引っ越した。
父と母と、私の三人家族。
社宅が満室で、急いで探した借家が、駅裏の水路沿いに建つ古い平屋だった。
築四十年。
もとは仕立物屋だったという、店舗付きの住まいだった。
表側の元店舗は、板の間の六畳。
大きな裁ち台が置いてあったのだろう、床の真ん中だけ、色が濃かった。
廊下は鉤の手に折れて、奥へ行くほど天井が低くなった。
父は「昭和の家はこういうもんだ」と笑ったが、天井の低い家は、夜になると影が増える。
あの家で最初に覚えたのは、そのことだった。
黒ずんだ板塀、曇りガラスの引き戸、庭の隅に小さな祠まであった。
「安いのには、ちゃんと理由がありますから」
案内してくれた大家さんは、そう言って笑った。
「古いし、日当たりも悪いし。前の方も、お仕事の都合で早くに出られたもので」
今にして思えば、あの言い方は少しおかしかった。
早くに出た理由を、家賃の安さで先回りして説明していたのだから。
引っ越しの日、両隣に挨拶に回った。
どちらの家でも、母が家の場所を言うと、相手の顔が一瞬だけ、無表情になった。
子どもの私にも分かるくらい、はっきりと。
私の部屋になったのは、北側の四畳半だった。
もとは仕立ての作業場だった部屋らしい。
畳の上に、うっすらと、ミシン台の足の跡が四つ、残っていた。
窓の外はすぐ水路で、日は一日、ほとんど入らなかった。
それでも、初めての自分の部屋だった。
私は張り切って、机を置き、本棚を並べ、壁に好きな歌手のポスターを貼った。
転校先の学校にも、少しずつ慣れていった。
帰り道、水路沿いの細道を歩くのが日課になった。
水路には、いつも灰色の水が、音もなく流れていた。
その道で一度だけ、近所のおばあさんに声をかけられたことがある。
「あんた、あの仕立て屋さんの家の子かね」
「引っ越してきたんです」
「そう……。ええ人じゃったよ、おキヌさん。仕事の丁寧な、それはそれは丁寧な人でね」
おばあさんはそれから、何かを言いかけて、やめた。
「……夜は、早う寝んさいよ」
去り際のその一言だけが、妙に耳に残った。
最初の異変は、引っ越して一週間目だった。
朝起きると、押し入れの襖が、こぶし一つ分、開いていた。
私は寝る前に、必ず襖を閉める子どもだった。
閉め忘れかと思って、その晩は指で確かめてから寝た。
朝には、また開いていた。
三度目の朝には、開き方が大きくなっていた。
こぶし一つ分が、頭一つ分に。
中を覗いても、客用布団と段ボールがあるだけだ。
ただ、開いた襖の奥の暗がりは、いつまで見ていても、目が慣れなかった。
建て付けだろうと、父は言った。
「古い家は、家が動くんだ。柱が呼吸するんだよ」
そういうものかと、私は思うことにした。
※
二つ目の異変は、声だった。
十一月に入った頃、夜中に目が覚めるようになった。
壁の中から、小さな声がするのだ。
男とも女ともつかない、低い、くぐもった声。
何を言っているのかは、聞き取れない。
ただ、調子だけは分かった。
ひい、ふう、みい、と、何かを数えているような調子だった。
数えて、途中で止まり、また最初から数え直す。
終わりまでたどり着いた気配は、一度もなかった。
声は、決まって壁の中からした。
私の頭のすぐ後ろの、押し入れ側の壁だ。
一度、勇気を出して、壁に耳を当ててみたことがある。
声は、止まなかった。
耳を当てても近くならず、離れても遠くならなかった。
あの声には、距離というものが、なかった。
母に言うと、水路の音だと言われた。
「水の音って、人の声に聞こえるのよ。お母さんも子どもの頃、川のそばに住んでたから分かる」
父に言うと、隣の家のテレビだと言われた。
けれど、隣の家までは、水路を挟んで十メートル以上あった。
十二月に入ると、家全体が底冷えするようになった。
ことに私の部屋は、火の気を入れても、足元から冷えた。
「北向きだからね」と母は言った。
ただ、同じ北向きの物置は、私の部屋ほどは冷えなかった。
十二月に入って、金縛りが始まった。
夜中、ふっと目だけが覚める。
体が、動かない。
指の先も、まぶたの奥も、声も、全部が縫い留められたように動かない。
そして、部屋の空気が変わっているのが分かる。
天井の隅、押し入れの上の暗がりに、湿った気配がある。
見えはしない。
ただ、そこに「居る」ことだけが、肌で分かる。
その気配は、夜ごとに少しずつ、下りてきていた。
最初は天袋の上、次は鴨居のあたり、それから、押し入れの襖のすぐ向こう。
最初の頃は、朝まで眠れずに泣いた。
両親を起こしに行こうにも、体が動かないのだから、どうしようもない。
朝になって話しても、夢だと言われるだけだった。
夢なら、どうして毎回、同じ壁の同じ場所から声がするのだろう。
子どもの理屈で、私はそう思っていたが、口にはしなくなった。
けれど人間は、恐ろしいことに、こんなことにも慣れていく。
三学期が始まる頃には、金縛りが来ても、またか、と思うようになっていた。
声も、気配も、日常の一部になった。
学校で、友だちに話したこともある。
「うちの部屋、夜になると声がするんだよね」
冗談めかして言うと、皆、面白がってくれた。
一人だけ、地元生まれの子が、笑わなかった。
「……水路のとこの、あの家?」
「そうだけど」
「ふうん」
その子は、それきり話を変えた。
後にも先にも、あの家の話で笑わなかったのは、その子と祖母だけだった。
ずっと後になって、その子から聞いた。
あの家の前の住人は、半年おきに入れ替わっていたのだと。
それが良くなかったのだと、後で知る。
※
冬休みに、母方の祖母が泊まりに来た。
祖母は若い頃、和裁の仕事をしていた人だった。
玄関をくぐった祖母は、上がり框で、ふっと足を止めた。
「……この家、前は針仕事の家かね」
「そうらしいよ。よく分かったね」
母が感心すると、祖母は曖昧に笑って、それきり何も言わなかった。
その晩、祖母は私の部屋を覗きに来た。
そして、押し入れの前にしばらく立っていた。
「あんた、この部屋で寝とるんか」
「うん」
「……なんぞ、おかしなことはないか」
私は少し迷って、壁の声のことと、金縛りのことを話した。
話しながら、自分でも意外なくらい、すらすらと言葉が出た。
誰かに真顔で聞いてもらうのは、それが初めてだったのだ。
慣れちゃった、と笑ってみせた。
祖母は、笑わなかった。
祖母は私の両肩をつかんで、低い声で言った。
「ええか。ああいうもんはな、慣れたらいけんのよ」
「なんで。何もしてこんよ」
「慣れると、こっちの垣根が下がる。垣根が下がると――寄ってくるんよ」
その時の祖母の目が、あんまり真剣だったので、私は笑えなくなった。
祖母は帰り際、私の枕の下に、小さな守り袋を入れていった。
「肌身離さず、とまでは言わん。せめて寝る時だけは、枕の近くに置いときんさい」
私は、素直に頷いた。
頷いたくせに、三日もすると、守り袋は机の引き出しに移された。
枕の下のごわごわが、気になって眠れなかったからだ。
子どもというのは、そういうものだ。
祖母が泊まった晩、私は居間で祖母と寝た。
夜中にふと目が覚めると、祖母は布団の上に座って、私の部屋の方をじっと見ていた。
「ばあちゃん?」
「ええから、寝んさい」
祖母の背中は、朝まで、そのままだった気がする。
※
一月の終わりの、よく冷えた夜だった。
その夜は、声が多かった。
ひい、ふう、みい。
いつもの低い声に、別の声が重なっていた。
女の人の声。
それから、もっと年寄りの声。
三人、いや、四人。
壁の中で、ばらばらに数を数えている。
うるさいなあ、と、私は思った。
思ってしまった。
布団を頭までかぶって、寝返りを打った、その時だった。
声が、ぴたりと止んだ。
一斉に、だ。
四人分の声が、糸で切ったように、同時に消えた。
静けさが、耳に痛かった。
家全体が、息を止めたようだった。
水路の音さえ、消えていた。
まずい、と思った。
理由は分からないのに、体中の産毛が立った。
次の瞬間、体が動かなくなった。
いつもの金縛りとは、重さが違った。
布団ごと、上から押さえつけられているようだった。
そして。
頭の下で、枕が、もぞりと動いた。
中から、だ。
枕の中から、何かが動いた。
そば殻の枕だった。
さり、さり、と、そば殻をかき分ける音がした。
耳のすぐ下で。
細いものが、枕の布地を、内側から押し上げた。
指だと、分かってしまった。
細い、女の人の指。
爪の先まで、はっきりと感触があった。
硬くなった、針を持つ人の指先だった。
それが枕の中から出てきて、私の髪に、するりと絡んだ。
ひやりと冷たくて、少し、濡れていた。
指は、ゆっくりと私の髪を撫でた。
一度、二度。
数えるように。
そして、いきなり、わし、と髪をつかんだ。
頭皮が引きつるほど、強く。
そのまま、枕の中へ、引き込もうとした。
頭が、枕に沈む。
そば殻の、さりさりという音が、耳の奥でどんどん大きくなる。
声は出ない。
体は動かない。
それでも私は、動かない体の中で、もがいて、もがいて、もがき続けた。
祖母の顔が浮かんだ。
守り袋は、机の引き出しの中だ。
届かない。
どれだけそうしていたのか、分からない。
ふっと、窓の外が白み始めた。
髪をつかむ力が、緩んだ。
指が、名残惜しそうに一本ずつほどけて、そば殻の奥へ沈んでいった。
そこで、私の意識も切れた。
最後に覚えているのは、耳元の、囁くような声だ。
ひい、ふう、み――。
数え終わる前に、朝が来た。
※
目が覚めると、朝だった。
母が私を揺すっていた。
「あんた、こんな所で寝て」
私は、布団から半分ずり落ちた格好で倒れていた。
そして、枕を見た。
枕が、固く絞った雑巾のように捻れていた。
そば殻の枕が、真ん中から、ぎりぎりと雑巾絞りに捻れて、畳の上に転がっていた。
人の手で絞ろうとしても、ああはならない。
母は、私が寝ぼけて暴れたのだと言った。
そう思いたかったのだと、今なら分かる。
枕を拾い上げる母の手が、小さく震えていたから。
私は声も出せずに、それを見ていた。
その日のうちに、私は祖母に電話をかけた。
祖母は、話を最後まで聞いてから、短く言った。
「今夜から、その部屋で寝なさんな。お布団だけ、居間に移しんさい」
そして週末、祖母は電車を乗り継いで、もう一度うちに来た。
祖母は私の部屋の押し入れを開け、天袋の奥に頭を突っ込んだ。
出てきたのは、埃をかぶった古い木箱だった。
中には、布に包まれた針山が、一つ。
赤い布の、古い古い針山だった。
布の赤は、褪せて、乾いた土のような色になっていた。
それでも作りは丁寧で、隅の始末ひとつ見ても、腕のいい人の仕事だと分かったそうだ。
そして、針山には、針が一本も刺さっていなかった。
「……ああ、やっぱりねえ」
祖母は、針山を撫でながら、独り言のように言った。
「針仕事の家はね、年の終わりに、使えなくなった針を供養するんよ。折れた針も、錆びた針も、一本残らず数えて、豆腐に刺して、納めるの」
「豆腐に?」
「硬いもんばっかり縫うてきた針じゃけえ、最後は柔らかいところで休ませてあげるんよ」
「……休ませてもらえんかった針は、どうなるの」
祖母は、その問いには答えなかった。
「数えて……」
「数が合わんと、探すんよ。畳の目ぇ一つずつ、これくらいの手つきでね」
祖母は、畳を指先でなぞってみせた。
さり、さり、と。
あの夜、枕の中で聞いた音と、同じ手つきだった。
「ばあちゃん、なんで分かったの。この家のこと」
「玄関に入った時、糸の匂いがしたんよ」
「糸の匂い?」
「長う針仕事をした家はね、家に匂いが染みるの。……それと、もう一つ」
祖母は、少しためらってから言った。
「仕事場だった部屋に子どもを寝かせとる家は、昔から、あんまりええことがないんよ」
祖母は針山を布で包み直し、庭の祠に手を合わせてから、持って帰った。
「この祠もね、針のためのもんよ」
祖母は言った。
「おキヌさんいう人は、ちゃんと分かっとった人なんじゃね。……最後の年だけ、納めそこねたんかねえ」
最後の年に何があったのかは、祖母も知らなかった。
在所の寺で、針供養と一緒に納めてくれたのだそうだ。
※
それきり、声は止んだ。
襖も開かなくなり、金縛りも来なくなった。
家は、ただの古くて寒い平屋になった。
それでも私は、中学に上がるまで、居間で寝続けた。
空になった私の部屋には、誰も入らなくなった。
襖は、閉めたままにした。
開いているのを見た者は、いなかったと信じている。
一年半後、父の転勤でその家を出る日、大家さんが挨拶に来た。
「長く居てくださって、ありがとうございました」
長く、という言葉に、母が首をかしげた。
「二年ちょっとですけど」
「ええ。……この家では、一番長いんですよ」
大家さんは、それだけ言って、深々と頭を下げた。
帰りの車の中で、両親は何も言わなかった。
私も、言わなかった。
あの家でのことを家族がやっと口に出したのは、十年以上も経った、祖母の米寿の祝いの席だった。
「あの枕ね、捨てる時に、ほんまはもう一度中を見たんよ」と、母が言った。
「そば殻がね……半分、のうなっとったの」
誰も、続きを訊かなかった。
あの家が今どうなっているのか、私は知らない。
ただ、大人になってから、一つだけ気づいたことがある。
祖母が持ち帰った針山に、針は一本もなかった。
なら、あの声が毎晩数えていたのは、何だったのだろう。
数が合わないから、探していたのだとしたら。
見つからない針を、あの家のどこかで、今も数え続けているのかもしれない。
ひい、ふう、みい、と。
家賃が半分だった理由を、大家さんは最後まで口にしなかった。
言わなかったのではなく、言えなかったのだろうと、今は思う。
だから私は今でも、そば殻の枕だけは、使わない。