
7年ほど前、タクシーの運転手さんから聞いた話です。
当時、私は六本木にある会社に勤めていました。
仕事は夜遅くまでかかることが多く、終電を逃すたびにタクシーで帰るのが日常でした。
自宅は横浜市のT地区で、六本木からはおよそ40分ほどかかります。
それは5月のことだったと記憶しています。
小雨が降っていたか、あるいは雨上がりの夜でした。
その日も深夜2時を回るまで六本木で過ごし、アマンドのある交差点から防衛庁方面、龍土町へと歩いてタクシーを拾おうとしていました。
防衛庁前のガソリンスタンド付近で客待ちをしていた一台に乗り込みました。
私はタクシーに乗ると、よく運転手さんにこんな質問をしていました。
「今までに怖い体験をしたことはありませんか?
乗せたお客さんが途中で消えたとか…定番でも構いません」
黙って40分過ごすより、こうして話を聞く方が楽しかったからです。
その日も同じように尋ねると、運転手さんは少し考えた後、こう話し始めました。
「実は私、子どもの頃からそういう体験をよくする方なんです」
そう前置きして、いくつかの洒落にならない体験談を語ってくれました。
その中から、比較的最近あったという出来事を話してくれたのです。
※
「あの日も今日と同じような雨模様でしてね。
あの交差点近くで客待ちをしていたら、向かいのビルのエレベーターから男女5人が出てきたのが見えたんです。
飲み屋がいくつも入っているビルでね、私たちはお客さんの動きに敏感ですから、きっと乗ってくるなと直感しました。
けれど5人はビルの庇の下で雨を避けながら、何やら真剣に話し込んでいました。
やがてそのうち2人は停めてあったベンツに乗って去り、残りの3人がこちらに歩いてきたんです。
そして男性の一人が私のタクシーに乗り込み、『野方まで』とだけ告げました。
その顔は妙に深刻で、道中ぽつりとこう言ったんです。
『運転手さん、信じてくれますかね…今の店、すごく変だったんです』」
※
その5人は、有名キー局の長寿番組のスタッフでした。
麻布で食事をした後、スタッフの一人・K氏が「知り合いがやっているバーに行きたい」と提案しました。
そのマスターは病気で長く入院していましたが、退院したと聞いて久しぶりに顔を出したいというのです。
店は龍土町のビル5階。
カウンター15席、テーブル3卓の小さなバーで、5人は水割りを飲みながら談笑を始めました。
ところが、次第に会話が途切れ、場がしんと静まり返ります。
K氏が「どうしたんだ?」と問うと、皆は「いや、別に…」と目を逸らしました。
やがて、一人が小声で「この店、気持ち悪い」と漏らします。
ほかのスタッフも同意し、特に店の入り口付近が嫌な感じだと言いました。
K氏は「気のせいだろう」と席を立ち、入り口へ。
そこには竹のついたてがあり、和紙で作られた平たい人形が4つ貼られていました。
父、母、息子、娘を思わせる並び方でした。
席に戻ったK氏は、「ただの和紙人形だ」と言いましたが、女性スタッフは震える声でこう告げました。
「私は店に入った瞬間、毛が逆立った。人形が怖くて仕方ない」
別の男性も「トイレに入ったらおかしな気配を感じた」と言いました。
霊感など信じないK氏は、「何でもない」と笑い、わざとトイレに行きました。
ところが、用を足している最中、両肩にずしりと重いものが乗ったのです。
錯覚ではなく、確かな重み。もちろん個室には誰もいません。
青ざめたK氏は席へ戻り、「やっぱり出よう」と告げました。
勘定を済ませ、全員でエレベーターへ向かい、ビルの外で雨宿りをしながらK氏はその出来事を話したといいます。
その光景を、タクシーの運転手は偶然目にしていたのでした。
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「お客さんの話は信じますよ」と運転手はK氏に告げ、続けました。
「もうその店には行かない方がいい。現に、いま連れてきちゃってますよ」
驚いたK氏が問い返すと、運転手はこう説明しました。
「あなたを乗せた途端、窓ガラスが一斉に曇ったんです。
そして後部座席から、大勢の気配がしました。
剣道をやっていたせいか、そういう気配はわかるんですが…今回は数が多かった」
結局、運転手はK氏の自宅前で「活」を入れ、憑いてきたものを追い払ったそうです。
※
この話を聞いた私は興味を抑えられず、翌日友人とともにビルを訪れました。
看板を見ていくと、「舞姫」というバーがありました。
5階に上がると、フロア全体が線香の匂いに包まれていました。
ドアを開けた瞬間、視線はついたてに向かいます。
そこには確かに和紙人形が4体貼られていました。
しかし、それらには赤く吊り上がった目と、異様な位置にある黒目、小さな牙が描かれていたのです。
私たちは息を呑み、そのまま非常階段を駆け下りました。
※
運転手から聞いた話と、私自身の体験は以上です。
「舞姫」はその後なくなっており、龍土町ビルには他にも数々の不穏な噂が残っていました。