廃病院の肝試しと三階の警備員

廃墟(フリー写真)

会社の先輩のIさんに聞いた話。

先輩が大学一年の時に、仲の良いサークル仲間四人で肝試しに行くことになった。

市街地から少し離れた所にある廃病院。お化けが出ると結構有名な所だ。

この廃病院の肝試しの話を聞かされたとき、Iさんは正直、あまり乗り気ではなかったという。

病院が閉まったのは、Iさんが小学生のころだった。

理由は誰も詳しく知らない。

経営が傾いたとも、建物が古くなりすぎたとも言われていた。

ただ、ひとつだけ変わらない噂があった。

夜の三階には、見回りを続けている警備員がいる。

Iさんは、その噂を先に聞いていた。

けれど、仲間には言わなかった。

言えば、Kさんが面白がって、余計に行きたがると思ったからだ。

結局その予感は、当たったのだが。

当日の夜、Iさんは助手席に座った。

運転は、サークルの部長だったTさんだった。

カーラジオからは、流行りの曲が小さく流れていた。

市街地の灯りが後ろへ遠ざかるにつれ、曲のあいだにノイズが混じりはじめた。

「電波、悪くなってきたな。」

「廃病院が近い証拠だよ。」

後部座席のKさんが、笑いながら茶化した。

その十分後、ラジオは、ふっと沈黙した。

電源を切った覚えは、誰にもなかった。

Tさんがつまみを回しても、ランプは点いたまま、音だけが戻らなかった。

車内が、一瞬だけ静かになった。

「おいおい、始まる前から怖がらせんなよ。」

Kさんの声だけが、無理に明るく響いた。

時間はちょうど午前0時くらい。車を病院玄関前に停めて、各々懐中電灯を片手に車から降りた。

窓ガラスは全て割れており、壁にはツタがびっしりと茂っていて、無人になってからかなり経っているのが分かった。

建物の中も落書きやゴミなどでボロボロなんだけど、各部屋に雑誌やベッド、カルテなどが色々残っていて結構怖かったらしい。

中に入って、最初に異変に気づいたのは匂いだったという。

黴の匂いに混じって、消毒液の匂いがした。

何年も閉まっているはずの建物で、だ。

一階の待合室には、長椅子が三列、きれいに並んでいた。

その一番奥の椅子だけが、少し手前に引き出されていた。

誰かが、座ったばかりのように。

Iさんは、見なかったことにした。

二階の廊下の突き当たりには、車椅子が一台、壁に向かって置かれていた。

上がるときは気づかなかったのに、後で振り返ると、向きが変わっていた。

「風だろ。」

Kさんは笑った。

窓ガラスは全部割れているのだから、風は確かに吹く。

それでも、車椅子の向きが変わるほどの風ではなかった。

三階へ上がる踊り場で、四人は足を止めた。

どこか遠くから、ラジオの砂嵐のような音がしていたからだ。

「サー……」

細い音だった。

その音の隙間に、規則正しい足音が混じっていた。

コツ、コツ、コツ。

一定の間隔で、廊下を行き来している。

「誰かいるんじゃね?」

「いたら仲間が増えていいじゃん。」

Kさんだけが、能天気に笑っていた。

廃病院の肝試しの三階

わいわい騒ぎながら適当に部屋を回り、三階に辿り着いた時のことだ。

当時大学三年だったKさんが、とんでもないことを言い出した。

「なあ、今からジャンケンして負けたやつが、この階の廊下の端っこまで一人で行くってのどうよ。」

遊び好きなメンバーは、喜んでその話に乗った。Iさんは内心かなりびびっていたらしいけど。

それで、ジャンケンの結果はと言うと、言い出しっぺのKさんが行くことになった。

Kさんは霊感ゼロで、そういう類のものの存在を信じてもいなかったような人で、

「マジ怖ぇー!」

などと口では言っていたけど、躊躇いもせずに廊下の奥に進んで行ったらしい。

そんなに広い病院ではなかったから、ずんずん歩いて行くと、すぐに廊下の端は見えてきた。

振り返ると、他の三人の懐中電灯の明かりが揺れているのが見える。

さて折り返すか、とKさんが明かりに向かって歩き出した時…。

廊下の端には、他の病室とは違う、小さな扉がひとつあった。

プレートには、かすれた文字で「宿直室」とあった。

Kさんは、その扉の前で、一度だけ立ち止まった。

理由は、自分でも分からないという。

ただ、扉の下の隙間から、細く黄色い光が漏れているのが見えた。

電気の通っていない建物で、だ。

懐中電灯を向けると、光は、ふっと消えた。

その直後だった。

「…ギギギ…」

と、ドアが開く音が背中から聞こえてきた。

心臓がビクンと跳ねる。風の音か何かだろうと自分に言い聞かせて、Kさんは首だけ捻って後ろを見た。

中から顔を出したのは、50代くらいの警備員の格好をしたおじさんだった。

「おいおい君、何やってんのこんなとこで…」

何だ…人間か。ほっとした次の瞬間、Kさんは部屋から出て来たその男の身体を目にして愕然とした。

男の身体は上半身と下半身が異常に捻じれ、腕の関節は通常とは逆に折れ曲がっていた。

Kさんは声にならない叫び声を上げて、仲間の元へ走り出した。

追ってくる足音

Kさんを待っていた三人は、廊下の端から走って来るKさんを見て最初は笑っていたが…。

Kさんを、いや、Kさんの後ろのモノを見るやいなや、声を上げて逃げ出した。

後ろを振り向くと、足を引き摺りながら追いかけて来る男が見える。

「ズルッズルッズルッズルッ。」

「待って…待って~…あはははははは…」

後ろから聞こえる不気味な足音と笑い声。四人は命からがら車に戻った。

「急げ!早く出せ!」

Kさんが震える手でキーを差込み、エンジンをかけたその時。

「覚えたよ~…」

声がした方に目を向けると、先程の男が窓ガラスにべったりと顔を当てて車内を覗いていた。

車内の誰も、声を出せなかった。

男の顔は、窓ガラスに貼りついたまま、後部座席から順に、ゆっくりと視線を動かしていく。

Iさんと目が合った。

その目に、怒りはなかった。

あったのは、探し物をしている人の、疲れきった目だった。

男の唇が、四回、動いた。

一人につき、ひとつずつ。

数えるように。

「うわあああああっ!!」

Kさんはアクセルを思い切り踏み、車は急発進した。

走り去る車の後ろで、三階の窓にだけ、懐中電灯のような光が一度だけ揺れた。

誰も、それを口に出さなかった。

口に出せば、本当になる気がしたからだ。

それからどう走って帰ったかははっきり覚えていないらしいが、結局四人は無事に帰宅することができた。

しかし次の日の晩、I先輩の部屋にその男は現れた。

夜、I先輩はロフトの上で床に就いていたが、なかなか寝付けずにいた。

すると下の方から、

「ギシ、ギシ…」

とロフトを登って来る音がした。

やばい…!

I先輩は目を固く閉じ、身体を強張らせた。

『消えてください、お願いします…』

と心で念じながら。

音はすぐに止んだが、すぐに姿勢を崩すことが出来ず、数分が経った。

ロフトの梁が、ゆっくりときしむ。

天井近くの空気が、ひんやりと冷えていく。

耳もとで、誰かの呼吸のような音がした。

吸って、吐いて、吸って。

一定の間隔が、枕もとの目覚まし時計の秒針と、不思議なほど重なっていた。

Iさんは、そのリズムを数えることで、かろうじて意識をつないでいたという。

『消えたのかな?』

ほっと息をつき目を開けると、あの男の顔が目の前にあった。

I先輩の上にまたがり、顔の両脇に肘をついて覗き込むような形だ。

男はI先輩と目が合うと一言、

「…違うなぁ~」

と言って、消えて行った。

そのままI先輩は気を失った。

男が消えたあとも、布団が二か所だけ、人の肘の形に沈んでいた。

朝になっても、Iさんはその沈みを手で直せなかった。

触れた布団が、まだ温かかったからだ。

冬でもないのに息が白くなるほど、部屋は冷えていたというのに。

Kさんだけの異変

次の日、I先輩は他の三人にその話をした。Kさん以外の二人にも同じことがあったらしい。

Kさんだけが何事も無かったのだ。

似た構図の話は、父親の謎の行動にも出てくる。

Mさんの部屋では、窓の外に立つ人影が、一晩じゅう動かなかったそうだ。

Tさんの部屋では、玄関のチャイムが、きっかり三回鳴った。

二回でも四回でもなく、三回。

「誰も、出なかったんだよ。出たら、確認されると思って。」

Tさんは、そう言って苦笑いした。

確認される。

その言葉だけが、妙に耳に残った。

「俺、昨夜は何も無かったけど、昨夜から何か…すげぇ気持ちわりぃ。」

確かにその日のKさんは顔色が悪かった。

それからKさんは極端に元気がなくなり、あまりI先輩たちの遊びの誘いにも乗らなくなった。

卒業の少し前、学食でKさんと二人になったことがある。

Kさんは、冷めたうどんをかき混ぜながら、ぽつりと言った。

「あのさ。最近、夢を見るんだよ。」

「どんな。」

「廊下をずっと歩いてる夢。端まで行くと、扉が開いてて、中に誰かが座ってるんだ。」

「誰かって。」

「顔は見えない。ただ、俺が入っていくと、その人がこっちを見る。」

Kさんは、箸を止めた。

「そんで、毎回、同じことを言うんだ。『やっと来たか』って。」

Iさんは、何も返せなかった。

『違うなぁ』ではなく、『やっと来たか』。

言葉が変わったことが何を意味するのか、考えたくなかった。

しかし特に何があった訳でもなく、Kさんは卒業して行った。

あの廃病院の肝試しから数年後、大学も卒業し、今の会社に入ったI先輩は、当時のことを忘れかけていた。

肝試しのメンバーの一人から連絡が来るまでは。

その人によると、Kさんが体調を崩して、ここ一年ほど入院しているらしい。

I先輩たちは入院先の病院に見舞いに行ったが、Kさんの様子が少しおかしい。

しきりに何かに怯えている様子で、話をしても全く噛み合わないのだ。

家族の話によると、ここ数ヶ月で、彼の精神年齢がどんどん逆行しているらしい。

I先輩たちが訪れた時は、ちょうど中学生くらいだったそうだ。

更に「常に何者かの視線を感じている」というようなことを話しているとか。

看護師さんが、廊下でそっと教えてくれた。

夜になると、Kさんは枕の下を何度も探るのだという。

「鍵、鍵。」

幼い声で、そうつぶやきながら。

けれど、Kさんの荷物に鍵などなかった。

鍵がなければ、巡回に行けない。

巡回に行かなければ、あの人が待っている。

Kさんは、そう信じているように見えたそうだ。

病室を出るとき、Kさんのお母さんが、廊下で深く頭を下げた。

「あの子、夜になるとね、『交代の時間だから行かなきゃ』って、起き上がろうとするんです。」

「交代、ですか。」

「ええ。誰と交代なのか、聞いても答えないんですよ。」

I先輩の頭に大学時代の肝試しのことが過った。

その数ヶ月後、またI先輩はKさんの見舞いに訪れた。

もうその時には、Kさんの精神年齢は4、5歳くらいにまで逆行していた。

Kさんはしきりに、

「変なおじいちゃんが笑って見てるの。怖いの、怖いの。」

と訴えていたそうだ。

それから更に数ヶ月後、Kさんが亡くなったという連絡が届いた。

もう話すことも食事を摂ることもままならず、点滴生活の末亡くなったらしい。

二十二時の巡回

廃病院の肝試しの記憶が消えないまま、Iさんは、どうしても気になって、大学の図書館で地方紙の縮刷版を調べたそうだ。

病院が閉まった年の記事は、すぐに見つかった。

小さな記事だった。

閉院の日に、夜間の警備を三十年務めた男性が、最後の巡回を終えたという短い紹介だった。

名前は載っていなかった。

記事には、白黒の小さな写真が添えられていた。

制服の男性が、病院の玄関前で帽子を取り、深く頭を下げている。

その胸ポケットに、鍵束の輪が、はっきりと写っていた。

Iさんは、その顔を見て、息を止めた。

あの夜、ロフトで見下ろしてきた顔と、同じだったからだ。

ただ、見出しの横に、こんな一文があった。

「最後の日まで、毎晩二十二時の巡回を欠かさなかった。」

二十二時。

Iさんは、そこで手が止まった。

自分たちが入ったのは、午前0時だった。

つまり彼は、本来の時間より二時間も遅く、廊下に立っていたことになる。

あるいは、時間という区切りが、もうとうに意味をなくしていたのかもしれない。

そう考えると、「違うなぁ」という言葉の意味が、少しだけ変わって聞こえた。

彼は、誰かを探していたのではないか。

最後の巡回で、鍵を預けるはずだった誰かを。

鍵を受け取りに来るはずの人を、三十年のあいだ、廊下で待ち続けている。

そして、足を踏み入れた若者の顔を一人ずつ確かめては、「違う」と言って消えていく。

覚えたよ、というのは、顔を覚えたという意味だったのだろう。

次に来る者が、本当に待ち人なのかを、間違えないために。

Iさんは、そう結論づけて縮刷版を閉じた。

納得したわけではない。

ただ、そう思わなければ、あの夜の目の前の顔が、説明できなかった。

声が残る話なら、不気味なカセットテープの一件も忘れられないと、Iさんは付け加えた。

Kさんの四十九日が過ぎた秋、Iさんは花を持って、廃病院の肝試しをしたあの建物を訪ねたそうだ。

昼間だった。

割れた窓から、乾いた光が床に落ちていた。

三階の廊下の端、Kさんが立った場所に、一本の古い鍵が落ちていた。

錆びた輪には、色の抜けた札が付いていて、「巡回」の二文字だけが読めた。

Iさんは、拾わなかった。

「受け取ってしまったら、俺が、あの人の待ち人になってしまう気がして。」

帰りに待合室を通ると、一番奥の椅子が、きちんと元の位置に押し込まれていた。

Iさんは、頭を下げて、病院を出た。

背中に、規則正しい足音は、ついてこなかった。

それが救いなのか、見逃されただけなのかは、分からない。

それ以来、あの方角の夜道は、通らないようにしているという。

I先輩はこの話を俺にした後、しみじみと言った。

「Kさん、最期まであのじいさんに見られてたのかなぁ。」

この話を聞いてから、肝試しなんてできなくなりました。

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