
一人暮らしを始めて五年になる。
東京の郊外、最寄り駅から徒歩十分ほどの築二十年を超えるアパートで、私は毎日を送っている。フリーランスでウェブ関連の仕事をしているので、日によっては一歩も外に出ないまま夜になることもある。趣味らしい趣味もなく、外食より自炊のほうが多い、どこにでもいる独身男の生活だ。
そんな私が最初に「おかしい」と思ったのは、三週間ほど前のことだった。
前夜に洗濯機を回したまま、そのままにして眠ってしまった。翌朝目が覚めて「また干し忘れた」と苦笑いしながら洗濯機の蓋を開けると――衣類が、なかった。
不審に思ってベランダに出ると、私のシャツやジーンズが、整然とハンガーにかけられて並んでいた。
ハンガーは私が使っているものだ。干し方もおかしくない。ただ、私には覚えが全くなかった。うとうとしながら干したのかとも思ったが、洗濯ばさみの位置まで几帳面に揃えられていて、自分がそこまで丁寧にするとは思えなかった。その夜は酒も飲んでいなかった。
気持ちが悪かったが、部屋の中を見回しても異変はない。鍵も、窓も、いつも通りだった。おかしなことが起きたという実感はあっても、誰かに話せるような話でもなかった。
※
四日後に、また異変があった。
前夜から流し台に積みっぱなしにしていた食器が、きれいに洗われて水切りかごに伏せてあった。洗い物を後回しにするのは私の悪癖で、「明日やろう」と思いながら眠ったことははっきり覚えていた。怖くなって、管理会社に電話した。スペアキーを誰かに貸し出したことはないか、合鍵を作れる状況はないか、と聞いた。担当者は困惑しながら「そういった事実はありません」とだけ言った。
念のために玄関のロックも確認した。引っ越した当初に自分で取りつけたダブルロックは、きちんとかかっていた。窓の鍵も、ベランダの鍵も、全て内側から施錠されたままだった。
※
さらに翌週、冷蔵庫の中に見知らぬ食材が増えていた。
大根、ごぼう、油揚げ。私がほとんど買わないものばかりだ。冷蔵庫の棚の端には、近所のスーパーのレシートが小さく畳んで置いてあった。日付は二日前。品目の欄には、その三つがしっかり並んでいた。
私はしばらくそのレシートを眺め続けた。
何かが盗まれているわけではない。むしろ、誰かが私のために何かをしていく。そういう感覚だった。恐怖というより、奇妙な居心地の悪さが、胸の奥底にじわじわと広がっていった。試しに大根だけを使って簡単な汁物を作ってみたが、どうも味が決まらなかった。鍋の前に立ちながら、この食材を買いに行った「誰か」のことを考えた。
※
翌々日の夜、私は絶対に眠らないでいようと決めた。念のため、スマートフォンを台所の棚に立てかけ、動画撮影を開始してから仕事机の椅子に深く腰を下ろした。コーヒーを飲みながらモニターの前に座り、本を読んで気を紛らわせた。午前三時を過ぎた頃、台所の方からかすかに何かが動くような気配がした気がして振り返ったが、何もなかった。ただ、かすかに出汁のような香りがただよっていた気がした。
少しだけ、目を閉じた。
気がついたとき、窓の外は白んでいて、時計の針は六時を指していた。
台所に目をやると、鍋が火にかけられていた。
蓋を開けると、大根とごぼうと油揚げを炊いた煮物が、ゆっくりと湯気を上げていた。まだ十分に熱かった。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。玄関に走って確かめると、ダブルロックはかかったままだった。窓も、ベランダも、どこからも入ってきた様子はない。スマートフォンの撮影データを確認すると、四時間以上の映像が残っていた。しかし、すべて再生して確かめても、映っていたのは暗い台所と、途中から画面の端に見える、眠り込んだ私の姿だけだった。
※
その夕方、廊下で隣の部屋の田中さんとすれ違った。
「最近、お母さんがよくいらっしゃるんですね」と彼女は言った。
「先週も、一昨日も、廊下でお見かけしました。小柄な方ですよね。白いエプロンをされていて」
私の母は、二年前に亡くなっている。脳梗塞だった。享年六十三歳。
田中さんは私の顔を見て「あの、変なこと言いましたか」と首を傾げた。私はどうにか笑顔を作って「いえ、ありがとうございます」とだけ返した。
※
その夜、一人で煮物を食べた。
しっかり味が染みていて、やさしい甘みがあった。
母が生前よく作ってくれた、あの味だった。
食べながら、泣いているのか笑っているのか、自分でもわからなくなった。そのまましばらく箸を持ったまま座っていると、部屋の中がやけに静かだった。窓の外では、夜風に揺れる木の葉の音だけがしていた。
その翌朝から、異変はぴたりと止んだ。
残った食材は少しずつ使い切り、鍋は洗って棚に戻した。洗濯物は、もう勝手に干されたりしない。
あれが何だったのか、今もはっきりとはわからない。
ただ、あの煮物の味だけが、季節が変わった今も、舌の奥にうっすら残っているような気がしている。
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