上の部屋で寝るなと言った人影

上の部屋で寝るなと言った人影

祖母は、同じ話を何度もしました。

年に二度か三度、決まって雨の続く時期に話しました。

父がまだ赤ん坊だったころの話です。

アイルランドの西、コネマラの、名前を言っても誰も知らない集落でのことでした。

石と水しかない土地

コネマラは、石灰岩の丘と泥炭地しかない土地です。

木はほとんど生えません。

だから家々は、掘り出した泥炭を乾かして燃やします。

ターフ、と呼ばれる、四角く切り出した黒い塊です。

祖母の家にも、暖炉の脇に、そのターフが積んでありました。

※

祖母は、その家に生まれた人ではありませんでした。

三十キロほど北の町から、夫の実家へ入った人です。

父を産んで数か月で、その家に移りました。

集落には十軒ほどしかなく、全部が親戚のようなものでした。

祖母は、そこでは最後まで「外から来た人」でした。

あの家の造り

祖母の家は、丘の斜面を背にして建っていました。

風を避けるため、コネマラの家はたいてい斜面に寄せて建てます。

一階は台所と、暖炉のある居間だけ。

二階は屋根裏を仕切っただけの部屋がふたつ。

階段は、居間の隅から直接上がる、幅の狭い木の階段でした。

踏み板は十三枚。

祖母は、その枚数を最後まで覚えていました。

※

二階の部屋は、丘に接している側が寒く、反対側が湿ります。

祖母には、丘に接している側の部屋があてがわれました。

外から来た人が、その部屋に入るのが決まりだったのだそうです。

祖母はそれを、意地悪だと思っていました。

「いちばん寒い部屋を、よそ者にあてがうんだと思っていました」

あとになって、祖母はこう付け足すようになりました。

「でも、あの部屋がいちばん、知らせが届きやすい部屋だったのかもしれません」

※

ターフを切る夏

泥炭は、五月から六月にかけて切り出します。

スレーンという、刃の曲がった細いシャベルを使います。

沼の表面を剥いで、下の黒い層を、羊羹のように四角く抜いていきます。

抜いたものは、その場に並べて風に当てます。

三週間ほどで、持てるくらいに軽くなります。

軽くなったら、小さな山に組み替えて、また乾かします。

組み替え方には、家ごとに癖がありました。

誰の家の山かは、離れて見ても分かったそうです。

※

祖母は、その組み方が最後まで下手でした。

町育ちで、鍬より先にペンを握った人です。

義理の母は、祖母の組んだ山を、黙って組み直しました。

言葉で直したことは一度もなかったそうです。

「あの人は、口では何も教えん人でした」

祖母はよくそう言いました。

※

崩してから、積み直す

その家には、寝る前の決まりがありました。

暖炉の脇のターフを、一度全部崩して、積み直すのです。

崩さずに足すのではありません。

崩して、一から積み直します。

義理の母は、祖母にそれだけを教えました。

理由は言いませんでした。

※

祖母は、それを火の用心の作法だと思いました。

崩せば、湿ったターフが下に埋もれたままにならない。

そう考えれば、理屈は通ります。

実際、祖母は何度かそう訊きました。

義理の母は、そのたびに同じ返事をしました。

「そうしておけばいい」

それだけでした。

その夏、家に男はいませんでした。

祖父は、五月から英国へ出ていたのです。

コネマラの男は、その頃たいてい季節ごとに海を渡りました。

畑の稼ぎだけでは足りなかったからです。

だから家にいたのは、義理の母と、祖母と、赤ん坊の三人だけでした。

そして、犬が一匹。

※

雨が三日続いた

その年の八月は、雨ばかりでした。

大西洋から来る雨は、横から来ます。

丘の斜面が水を吸って、歩くと足首まで沈むようになりました。

三日目の朝、家の犬が二階へ上がらなくなりました。

階段の三段目まで来て、そこで止まって、下りてしまうのです。

祖母が抱えて運ぼうとすると、体を捩って逃げました。

※

同じ日、台所の水桶の水が減っていました。

汲んだのは祖母です。

誰も飲んでいません。

指二本ぶんほど、減っていました。

祖母はそれを、義理の母に言いました。

義理の母は、桶を覗いて、何も言わずに水を足しました。

※

夕方、階段の踊り場に、黒い粉がこぼれていました。

ターフの粉です。

あの日、誰も二階へターフを運んでいません。

二階には暖炉がないからです。

祖母は箒でそれを掃きました。

掃きながら、粉が段の上のほうへ続いていることに気づきました。

その晩、もうひとつありました。

赤ん坊が、夜になってぴたりと泣きやんだのです。

三日間ずっと泣いていた子が、急に静かになりました。

祖母は、熱を出したのかと思って額に触れました。

熱はありません。

目を開けて、天井のほうを見ていたそうです。

正確には、天井ではなく、階段のある側の壁を見ていました。

※

その晩、祖母は積まなかった

三日目の夜、祖母は疲れていました。

雨で洗濯物が乾かず、赤ん坊が一日じゅう泣いていました。

寝る前、暖炉の脇を見て、祖母は思いました。

今夜は、崩さなくてもいい。

ターフは前の晩に積んだままで、形も崩れていませんでした。

祖母は、そのまま二階へ上がろうとしました。

※

階段の中ほどに、人が立っていました。

祖母は、義理の母だと思ったそうです。

背丈も、肩の落ち方も、そっくりでした。

けれど、その人は、灯りを持っていませんでした。

祖母は片手に赤ん坊、片手にオイルランプを持っていました。

ランプの光は、その人の顔まで届いていたはずです。

顔のところだけ、祖母には思い出せません。

何十回この話をしても、そこだけは言いませんでした。

今夜は上で寝るな

その人は、こう言ったそうです。

「今夜は、上の部屋で寝るな」

祖母は、なぜ、と訊きませんでした。

訊けなかったのだと、あとで言っていました。

言葉が出るより先に、体が階段を下りていたのだそうです。

※

下りたところで、義理の母が椅子に座っていました。

暖炉の火の前で、居眠りをしていたのです。

祖母がその肩に触れると、義理の母は目を開けて、階段のほうを見ました。

そして、こう言いました。

「礼を言うんじゃない」

「名前も訊くな」

それから立ち上がって、暖炉の脇のターフを、全部崩しました。

崩して、積み直しました。

祖母は、そのとき数を数えました。

二列でした。

丘が動いた

丘が動く前には、音がしたと祖母は言いました。

崩れる音ではありません。

低く、長く続く、家鳴りに似た音です。

床板を通して、足の裏から上がってくる音だったそうです。

その音は、二時間ほど続きました。

義理の母は、その間ずっと暖炉に火を足していました。

祖母が「逃げなくていいのか」と訊くと、義理の母はこう答えました。

「もう、数は合ってる」

※

その夜遅く、丘が動きました。

泥炭地が水を含みすぎると、斜面ごと滑ることがあります。

黒い泥が、家の裏手から、二階の高さまで押し寄せました。

祖母と赤ん坊が寝るはずだった部屋は、窓ごと押されて潰れました。

一階は無事でした。

祖母と、赤ん坊の父と、義理の母は、暖炉の前で夜を明かしました。

誰も、けがをしませんでした。

※

朝になって、外は黒一色でした。

庭も、道も、隣の家の壁の下半分も、泥炭の泥に埋まっていました。

集落の男たちが、家々を回って安否を確かめて歩きました。

祖母は、その声を聞きながら、暖炉の脇を見ました。

ターフは、三列に積み直されていました。

誰も、それに触っていません。

隣の家のご主人が、翌朝、うちの戸を叩きに来ました。

泥をかき分けて、三軒先から歩いてきたのです。

戸を開けた祖母を見て、その人は最初にこう言いました。

「三人か」

安否ではなく、人数を訊かれたのだと、祖母はあとになって気づきました。

その人は、家の中を覗きこんで、暖炉の脇を見ました。

そして、うなずいて帰っていきました。

※

祖父が英国から戻ったのは、丘が動いた十日後です。

汽車と船を乗り継いで、泥の道を歩いてきました。

潰れた二階を見て、祖父は何も言わなかったそうです。

荷物を置いて、まず暖炉の脇を見ました。

そして、ターフを一度崩して、四列に積み直しました。

その手つきが、あまりにも慣れていたと祖母は言いました。

「あの人は、帰ってきたときに、必ずそれをしました」

「玄関で靴を脱ぐより先にです」

※

犬は、丘が動いた翌朝から、二階へ上がるようになりました。

潰れた部屋の入口まで行って、そこで座るのです。

祖母が呼んでも下りてきませんでした。

その犬は、その冬まで生きて、静かに旅を終えました。

※

数を、外へ知らせる

祖母がその意味を知ったのは、十年以上あとです。

義理の母が高齢になって、はじめて話したのだそうです。

積み直すのは、火のためではありませんでした。

ターフの列の数は、その晩その家で眠る人の数を表していました。

毎晩崩して積み直すのは、数を新しくするためです。

人が増えれば列が増え、減れば列が減ります。

※

祖母が来た晩、義理の母は自分でターフを積み直していました。

二列から、三列に変えたのです。

けれど、祖母は誰にも数え方を教わっていませんでした。

だから、あの三日目の晩、祖母は積み直さなかったのです。

その晩の暖炉の脇には、前の日の形が、そのまま残っていました。

数が、更新されていない家でした。

祖母は、義理の母に一度だけ訊いたことがあります。

あの人は誰だったのか、と。

義理の母は、編み物の手を止めずに答えました。

「うちの数を、外から見てる人だよ」

祖母が、それは生きている人ですかと訊くと、義理の母は少し考えてから言いました。

「生きてるとか、そうでないとかいう話じゃない」

「勘定の話だ」

祖母はそれ以上訊きませんでした。

※

父は、この話を嫌った

祖母がこの話をするたび、父は席を立ちました。

自分がその赤ん坊だったのに、一度も最後まで聞きませんでした。

私が大人になってから、一度だけ理由を訊いたことがあります。

父はしばらく黙って、それからこう言いました。

「母は、あの晩に何を見たか、俺には言わなかった」

「他人には話すのに、俺には言わなかった」

父は、そのことをずっと気にしていたのだと思います。

※

祖母がこの話をするのは、決まって家族以外がいる席でした。

近所の人、教会の集まり、私が連れてきた友人。

身内だけのときは、一度もしませんでした。

いま思えば、あれは自慢話でも思い出話でもありません。

知らない人に、積み方を伝えて回っていたのだと思います。

※

教区の帳面

私がこの話を確かめに、コネマラへ行ったのは五年前です。

集落はもうありません。

家は三軒だけ壁が残っていて、あとは草に埋もれていました。

教区の記録は、二十キロ離れた町の資料館に移されていました。

そこで、同じような話が三件ありました。

資料館の記録は、手書きの台帳でした。

教区の司祭が、その年に起きた出来事を書き留めたものです。

丘が動いた年は、書き込みが極端に増えます。

家の被害、家畜の数、道の復旧にかかった日数。

その並びのなかに、いくつか短い行がありました。

「知らせを受けたため、無事」

そう書かれた行が、三つありました。

誰から知らせを受けたのかは、書いてありません。

司祭は、それを書かないことに決めていたようです。

※

いずれも、丘が動いた年です。

いずれも、階段や戸口で誰かに知らせを受けた家でした。

※

三件に共通していたことが、ひとつあります。

どの家にも、その年に外から入ってきた人がいました。

嫁いできた人、あるいは、越してきた借家人です。

つまり、積み方を知らない人がいた家です。

数の合っていない家にだけ、知らせが来ていました。

集落の跡には、いまも泥炭を切った跡が残っています。

階段状に削られた黒い断面が、雨で光っていました。

その断面に手を当てると、想像していたより温かいのです。

沼は、内側でゆっくり発酵しています。

何千年もかけて積もった草が、まだ熱を持っているのだと聞きました。

私はそこに座って、丘のほうを見上げました。

斜面には、いまも滑ったあとの筋が残っていました。

その筋の先に、祖母の家の壁がありました。

※

積み方を教えて歩いた人

資料館の年配の職員が、ひとつだけ教えてくれました。

昔、この地方には、家々を回って泥炭の積み方を教えて歩く人がいたそうです。

報酬は、その家の食事一回ぶん。

季節ごとに、決まった順路で回っていたと記録にあります。

ただ、その人の名前は、どの帳面にもありません。

教区の名簿にも、税の記録にも、どこにも出てきません。

職員はこう言いました。

「名前を訊いてはいけない相手だったんでしょうね」

そして、少し笑いました。

私は、笑い返せませんでした。

私はいま、その言葉の意味を、少しだけ違う形で理解しています。

あの決まりは、数を「外」に知らせるためのものです。

ということは、外に、それを毎晩数えている側がいるということです。

知らせに来てくれる相手と、数えている相手が同じかどうかは、誰も言いませんでした。

義理の母も、資料館の職員も、そこだけは口にしませんでした。

※

いまも、崩してから積む

祖母は九十四で旅を終えました。

最後の数年、施設の部屋に暖炉はありませんでした。

それでも祖母は、寝る前に、枕元のティッシュの箱を一度倒して、置き直していました。

看護師さんは、それを癖だと思っていたそうです。

※

私はいま、ダブリンの集合住宅に住んでいます。

暖炉はありません。

それでも、寝る前に必ず、何かを一度崩して積み直します。

玄関に置いた本でも、キッチンの布巾でもかまいません。

ばかばかしいと思いながら、二十年続けています。

※

先月、酔って帰った晩に、それをせずに眠りました。

翌朝、玄関の本が、積み直されていました。

三冊でした。

私はひとり暮らしです。

※

土地の決まりごとが人を守る話としては、三つ数えてから答える集落や、火を借りてはいけない砂糖小屋も、後味の残る話です。

家の数が合わなくなる怖さという点では、台風のあとに増えた一戸もあわせてどうぞ。

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