禍鉾

古い物には、持ち主の運を左右する力が宿ることがある。

私は京の裏通りで、小さな古美術の店をひとりで営んでいる。

三十年この商いをして、そう思わされる品に、何度か出会ってきた。

なかでも忘れられないのが、あの一振りの穂先だ。

名を「禍鉾(まがほこ)」という。

その名を口にするだけで、店の空気が一段冷える気がした。

槍の穂だけが、柄を失って桐箱に納められていた。

錆ひとつない、黒く沈んだ鉄の穂だった。

それを持ち込んできたのは、青ざめた顔の中年の男だった。

雨の降る、底冷えのする夕方のことだった。

「これを、どうか引き取ってほしい」

男は箱を卓に置くなり、逃げるように手を離した。

「値はいらない。ただ、家から出したいのだ」

私は、その尋常でない様子に、かえって興味を引かれた。

長く商いをしていると、いわく付きの品ほど心が騒ぐ。

それが、私の悪い癖でもあった。

男の手が離れた桐箱は、妙にひんやりとして見えた。

箱の蓋の裏には、古い墨で一行が記されていた。

「持ツ者ニ天下ヲ与エ、離ス者ノ命ヲ取ル」

男は仕立てのよい背広を着ていたが、袖口が土で汚れていた。

眠れていないのか、目の下に濃い隈が刻まれていた。

「うちは、代々この穂を蔵に納めてきた家でしてな」

「祖父も、父も、これを離すなと言い残しました」

「けれど、私はもう、耐えられんのです」

男は、そこで言葉を切り、震える手で茶をすすった。

「離せば命を取られると言い、持てば夜ごと蔵が鳴る」

「どちらにしても、生きた心地がしないのですよ」

男が帰ったあと、私はその穂先の来歴を調べはじめた。

古い譲状や、蔵帳を辿るのが、私のいちばんの得手だ。

禍鉾の名は、思いのほか多くの古文書に現れた。

どれも、持ち主が権を得た記録と、対で残っていた。

最も古いのは、戦国のさなかの、ある国衆の話だった。

名を、赤沢という小さな豪族だったという。

赤沢はこの穂先を手に入れてから、みるみる勢いを増した。

隣国を次々と切り従え、一代で一国の主にまで成り上がった。

やがて赤沢は、戦のない世を願い、穂先を菩提寺へ納めた。

武具を手放し、仏に帰依しようとしたのだ。

寺へ穂を納めた、まさにその日の夕暮れのことだった。

どこからともなく飛んできた一本の矢が、赤沢の喉を貫いた。

射た者は、ついに知れなかったという。

一国の主が、穂先を手放した数刻のうちに、こと切れた。

赤沢は、もとは山ひとつを領するだけの小さな身代だった。

それが穂先を得た年から、戦に一度も負けなくなったという。

敵の矢は赤沢を避け、味方の兵は倍の働きをした。

十年のうちに、赤沢の旗は一国のすみずみに立った。

だが、勝ち続ける戦に、赤沢はしだいに倦んでいった。

「もう、たくさんだ」と、彼は近臣にもらしたという。

血を吸い続けた穂を、彼は仏に返そうと決めた。

納めた穂の前で経を唱えていた、その最中だったという。

矢は、寺の門のほうから、音もなく飛んできた。

居合わせた僧が振り返ったときには、赤沢は倒れていた。

門を検めても、射手の影も、足跡もなかった。

「あれは、人の射た矢ではない」と、僧は書き残している。

箱の蓋の裏の墨書きを、私は指でそっとなぞった。

「持ツ者ニ天下ヲ与エ、離ス者ノ命ヲ取ル」

うまくできた脅し文句だ、と最初は思った。

けれど来歴を辿るほど、その一行は重みを増していった。

これは戒めではなく、ただの覚え書きなのだ。

取り扱いの手順を、淡々と記しただけの。

次に禍鉾の名が現れるのは、幕末の京だった。

名を伏せられた、一人の志士が持っていたと記されている。

その男は、弁が立ち、たちまち同志の頭目に担がれた。

彼が動けば人が集まり、集まれば事が成ったという。

敵からも味方からも、恐れられる存在になった。

ある夜、その穂先が、寝所から何者かに盗まれた。

男が目を覚まし、枕元の桐箱の軽さに気づいたときだ。

障子の外で、複数の足音がした。

「誰だ」と誰何する声が、闇に響いた。

返事のかわりに、白刃が障子を裂いて踏み込んできた。

男は、穂先を失ったその夜のうちに、斬られて果てた。

下手人も、盗まれた穂先の行方も、記録は語らない。

その志士は、身分の低い浪士にすぎなかったという。

それが穂先を懐にしてから、言葉に不思議な力が宿った。

彼の一声で、動かぬはずの藩がひとつ動いた。

敵対する者は、なぜか彼の前で牙を抜かれた。

「あの男は、何かに守られている」と、皆が囁いた。

けれど、栄えれば妬む者も増える。

穂先を狙う影が、いつしか彼の寝所に忍び寄っていた。

翌朝、志士は血の海の中で見つかった。

枕元の桐箱は、蓋を開けたまま、空になっていた。

抜き取られた穂先は、どこを探しても出てこなかった。

同志たちは、裏切り者の仕業だと言い争った。

だが、障子に残った刀傷は、人の背丈より高い位置にあった。

三つ目は、大正の世の、ある実業家の話だった。

男は骨董好きで、書斎の床の間に、この穂先を飾っていた。

事業は面白いように当たり、男は一代で財を築いた。

番頭たちは、あの穂先が主の運を守っていると噂した。

ところが晩年、男は宗旨がえをして、穂先を博物館へ寄贈した。

「わしの代で、この因縁を断つ」

そう言い残して、男は穂先を手離した。

寄贈から七日目の朝、男の会社は取り付け騒ぎで潰れた。

そして同じ日の晩、男は自邸の書斎で、冷たくなっていた。

床の間には、穂先のあった跡だけが、白く残っていたという。

禍鉾はその後、博物館の火事で焼け出され、ふたたび世に流れた。

手放した者の命を取る。

墨書きの一行は、代を越えて、律儀に守られていた。

男は、裸一貫から身を起こした人物だったという。

穂先を床の間に据えてから、手がける商いはことごとく当たった。

生糸で当て、株で当て、土地で当てた。

寄る年波に、男はふと、この幸運の出どころを恐れはじめた。

「あまりに、うまくいきすぎる」と、日記に書き残している。

因縁を子の代に残すまいと、男は穂を寺社ではなく博物館に託した。

公のものにすれば、祟りも薄れると考えたのだろう。

三つの時代、三人の持ち主。

いずれも、身のほどを越えた高みへ昇り、そして落ちた。

共通していたのは、栄えたことではない。

手放した、まさにその刹那に、命を絶たれたことだった。

戦国の主は、穂を寺に納めた日の夕に。

幕末の志士は、穂を盗まれたその夜のうちに。

大正の商人は、穂を寄贈した七日のうちに。

偶然と呼ぶには、あまりに律儀な符合だった。

調べを進めるうち、私はある古い神職の手記に行き当たった。

禍鉾のことを、その神職はこう記していた。

「これは人を昇らせる力ではない。人を喰らう前の、餌付けだ」

穂先は持ち主に権を与え、手放せぬほど�’慣らす’という。

そして、いよいよ手放したその隙に、命を奪って糧とする。

「与えられたと思うたものは、みな借りものだ」

「借りたものを返す刹那が、いちばん危うい」

手記は、そう結ばれていた。

私は、卓の上の桐箱を、あらためて見つめた。

あの青ざめた男は、これを手放して、無事でいるだろうか。

ふと、そら恐ろしくなって、私は男の連絡先を探した。

手記の主は、江戸のころにこの穂を預かった神職だった。

穂先を封じるにあたって、彼は多くを書き残していた。

「この鉄は、血を吸うて重うなる」

「持ち主が権を望むほど、鉄は黒く艶を増す」

神職は、封じの間、幾度も金縛りに遭ったと記している。

耳もとで、位を数え上げる声がしたともいう。

「一国、二国、そして命」

その声を聞くたび、彼は経を唱えて夜を明かしたそうだ。

その晩から、店の様子が少しずつ変わった。

閉めたはずの桐箱の蓋が、朝には決まって開いていた。

埃ひとつ積もらぬのに、穂先だけが、いつも湿って見えた。

深夜、蔵のほうから、鉄を研ぐような音が聞こえた。

手のひらに、覚えのない細い切り傷が、増えていった。

不思議と、店の商いは、その数日でひどく上向いた。

長く売れ残った品が、次々とよい値で捌けていった。

喜ぶより先に、私は背筋が寒くなった。

これは、あの神職の言う「餌付け」ではないのか。

手放したくない、と思いはじめている自分に気づいたのだ。

それこそが、この穂先の狙いなのだと、私は悟った。

あるとき、常連の客が店の敷居をまたいで、顔をしかめた。

「ここ、鉄気くさいね。血みたいな匂いだ」

客はそう言って、そそくさと帰っていった。

私にはもう、その匂いが分からなくなっていた。

それだけ、私はこの穂先に馴染んでしまっていたのだ。

夜、蔵の戸を開けると、桐箱の蓋がまた開いていた。

黒い穂先が、月の光を吸って、ぬめりと光っていた。

見ていると、飾っておきたい、という思いが胸に湧いた。

次の瞬間、その思いに、私はぞっとした。

私は、旧知の老いた骨董商に、電話で相談した。

事情を話すと、相手はしばらく黙り込んだ。

「その品は、売るな。譲るな。捨てるな」

「手放し方をまちがえると、その刹那にやられる」

「返すのではなく、もとの供養に戻すのだ」

老人は、丹波の山中にある古い社の名を教えてくれた。

禍鉾は、もともとその社に封じられていた品だという。

私は翌朝、桐箱を風呂敷に包み、山へ向かった。

社の宮司は、箱を見るなり、深くうなずいた。

「よう、無事で持ってこられた」

「多くの者は、手放す間際に、気が変わってしまうのでな」

「昔な、それを欲がって死んだ同業を、わしは三人知っとる」

老人の声は、受話器の向こうで、かすれていた。

「みんな、いい品だと言うて、手元に置きたがった」

「そして、いざ手放すというとき、決まって欲が出るんや」

「返す、と口では言うて、心のどこかで惜しむ」

「その一分の隙を、あれは待っとるんや」

私は、床の間へ飾りたくなった昨夜の自分を思い出した。

背筋を、冷たいものが伝った。

「だから、心を残すな。すっぱりと、もとの社へ返せ」

老人は、それだけ言うと、電話を切った。

丹波の山は、その日、朝から深い霧に沈んでいた。

社は、杉木立の奥の、苔むした石段の上にあった。

風呂敷包みは、山を登るにつれ、ずしりと重くなった。

はじめは軽かったはずの桐箱が、腕が痺れるほどになっていた。

「離すな、離すな」と、耳の奥で誰かが囁く気がした。

私は歯を食いしばり、一段ずつ石段を登った。

宮司は、鳥居の下で、はじめから待っていたかのように立っていた。

宮司は、私を古い祠の前へ導いた。

「箱を、こちらへ。決して、直に触れぬように」

私は言われたとおり、風呂敷ごと箱を差し出した。

手が離れる、その一瞬だった。

うなじに、氷のような息が、ふっとかかった気がした。

耳のそばで、誰かが小さく舌打ちをした。

風もないのに、社の梢が、ざわりと鳴った。

宮司が、すかさず祝詞をあげ、祠の扉を閉じた。

扉が閉まると、あたりは嘘のように静まった。

「間に合いましたな」と、宮司は額の汗をぬぐった。

「あと少し惜しんでいれば、あなたはここにいなかった」

私は、その言葉に、腰が抜けるほど震えた。

宮司は、白木の三方に箱をのせ、幾重にも注連縄を巻いた。

塩を撒き、榊を振り、低く長い祝詞をあげ続けた。

祠の奥から、鉄の錆びるような、饐えた匂いが漂ってきた。

祝詞が高まると、その匂いは、しだいに薄れていった。

「この社はな、三百年、あれを封じてきたのです」

「四十年前、心ない者が持ち出してから、封が解けておった」

「戻ってきてくれて、ほんに助かりました」

宮司の額には、真冬だというのに、汗が浮いていた。

山を下りるころには、あれほど重かった風呂敷が、空のように軽かった。

背に負っていた何かが、たしかに剥がれ落ちたのが分かった。

京へ帰る車中で、私は預かった経緯を、あらためて紙に書きつけた。

忘れてしまう前に、記録に残しておきたかったのだ。

筆を走らせながら、私はふと、あの男の顔を思い出した。

穂先を私に押しつけて、逃げるように去った、あの青ざめた男を。

男は、はたして無事でいるのだろうか。

その予感は、あいにく、悪いほうへ当たっていた。

それから半年ほどして、私はあの青ざめた男の消息を知った。

男は、私の店に穂先を預けた三日後に、事故で亡くなっていた。

手放したはずの因縁は、それでも彼を取りにきたのだ。

手放す間際ではなく、手放したそのあとに。

では、私が助かったのは、供養に戻したからだったのか。

それとも、まだ順番が回ってきていないだけなのか。

私には、それを確かめる術がない。

あの丹波の社に、禍鉾が今もあるのかどうかも分からない。

宮司はその後、社ごと火にかかり、行方が知れなくなった。

焼け跡から、あの黒い穂先だけは、見つからなかったという。

人に天下を与え、そして人を糧とするもの。

それは今も、次の持ち主を探して、どこかを流れているのだろう。

今も、凪いだ夜には、あの氷の息の温度を思い出す。

あれは、次に手放す誰かを、じっと待っているのだ。

店の桐箱の蓋が、まれに、独りでに軋む夜がある。

そのたびに私は、あの氷のような息を、うなじに思い出す。

あなたの家の蔵にも、うかつに手放せぬ品が眠ってはいないだろうか。

真実は、いつものように、闇の中である。

あの穂先を手にした者は、いつも同じ道をたどった。

何もない身から、天下と思うほどの高みへ昇る。

そして、それを手放す刹那に、すべてを奪われる。

与えられたものは、はじめから貸しものだったのだ。

利息のように、命ごと回収されるだけの。

私はもう、あの黒い鉄を追うのはやめた。

追えば、また餌付けが始まる気がするからだ。

男の死は、単なる転落事故として片づけられていた。

深夜、駅の階段から落ちたのだという。

目撃した者は、男が何かに袖を引かれたようだった、と語った。

けれど、そこには誰もいなかったと、その者は言い添えた。

私が穂先を預かった、ちょうど三日目の晩のことだった。

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