古い物には、持ち主の運を左右する力が宿ることがある。
私は京の裏通りで、小さな古美術の店をひとりで営んでいる。
三十年この商いをして、そう思わされる品に、何度か出会ってきた。
なかでも忘れられないのが、あの一振りの穂先だ。
名を「禍鉾(まがほこ)」という。
その名を口にするだけで、店の空気が一段冷える気がした。
槍の穂だけが、柄を失って桐箱に納められていた。
錆ひとつない、黒く沈んだ鉄の穂だった。
それを持ち込んできたのは、青ざめた顔の中年の男だった。
雨の降る、底冷えのする夕方のことだった。
「これを、どうか引き取ってほしい」
男は箱を卓に置くなり、逃げるように手を離した。
「値はいらない。ただ、家から出したいのだ」
私は、その尋常でない様子に、かえって興味を引かれた。
長く商いをしていると、いわく付きの品ほど心が騒ぐ。
それが、私の悪い癖でもあった。
男の手が離れた桐箱は、妙にひんやりとして見えた。
箱の蓋の裏には、古い墨で一行が記されていた。
「持ツ者ニ天下ヲ与エ、離ス者ノ命ヲ取ル」
男は仕立てのよい背広を着ていたが、袖口が土で汚れていた。
眠れていないのか、目の下に濃い隈が刻まれていた。
「うちは、代々この穂を蔵に納めてきた家でしてな」
「祖父も、父も、これを離すなと言い残しました」
「けれど、私はもう、耐えられんのです」
男は、そこで言葉を切り、震える手で茶をすすった。
「離せば命を取られると言い、持てば夜ごと蔵が鳴る」
「どちらにしても、生きた心地がしないのですよ」
※
男が帰ったあと、私はその穂先の来歴を調べはじめた。
古い譲状や、蔵帳を辿るのが、私のいちばんの得手だ。
禍鉾の名は、思いのほか多くの古文書に現れた。
どれも、持ち主が権を得た記録と、対で残っていた。
最も古いのは、戦国のさなかの、ある国衆の話だった。
名を、赤沢という小さな豪族だったという。
赤沢はこの穂先を手に入れてから、みるみる勢いを増した。
隣国を次々と切り従え、一代で一国の主にまで成り上がった。
やがて赤沢は、戦のない世を願い、穂先を菩提寺へ納めた。
武具を手放し、仏に帰依しようとしたのだ。
寺へ穂を納めた、まさにその日の夕暮れのことだった。
どこからともなく飛んできた一本の矢が、赤沢の喉を貫いた。
射た者は、ついに知れなかったという。
一国の主が、穂先を手放した数刻のうちに、こと切れた。
赤沢は、もとは山ひとつを領するだけの小さな身代だった。
それが穂先を得た年から、戦に一度も負けなくなったという。
敵の矢は赤沢を避け、味方の兵は倍の働きをした。
十年のうちに、赤沢の旗は一国のすみずみに立った。
だが、勝ち続ける戦に、赤沢はしだいに倦んでいった。
「もう、たくさんだ」と、彼は近臣にもらしたという。
血を吸い続けた穂を、彼は仏に返そうと決めた。
納めた穂の前で経を唱えていた、その最中だったという。
矢は、寺の門のほうから、音もなく飛んできた。
居合わせた僧が振り返ったときには、赤沢は倒れていた。
門を検めても、射手の影も、足跡もなかった。
「あれは、人の射た矢ではない」と、僧は書き残している。
箱の蓋の裏の墨書きを、私は指でそっとなぞった。
「持ツ者ニ天下ヲ与エ、離ス者ノ命ヲ取ル」
うまくできた脅し文句だ、と最初は思った。
けれど来歴を辿るほど、その一行は重みを増していった。
これは戒めではなく、ただの覚え書きなのだ。
取り扱いの手順を、淡々と記しただけの。
※
次に禍鉾の名が現れるのは、幕末の京だった。
名を伏せられた、一人の志士が持っていたと記されている。
その男は、弁が立ち、たちまち同志の頭目に担がれた。
彼が動けば人が集まり、集まれば事が成ったという。
敵からも味方からも、恐れられる存在になった。
ある夜、その穂先が、寝所から何者かに盗まれた。
男が目を覚まし、枕元の桐箱の軽さに気づいたときだ。
障子の外で、複数の足音がした。
「誰だ」と誰何する声が、闇に響いた。
返事のかわりに、白刃が障子を裂いて踏み込んできた。
男は、穂先を失ったその夜のうちに、斬られて果てた。
下手人も、盗まれた穂先の行方も、記録は語らない。
その志士は、身分の低い浪士にすぎなかったという。
それが穂先を懐にしてから、言葉に不思議な力が宿った。
彼の一声で、動かぬはずの藩がひとつ動いた。
敵対する者は、なぜか彼の前で牙を抜かれた。
「あの男は、何かに守られている」と、皆が囁いた。
けれど、栄えれば妬む者も増える。
穂先を狙う影が、いつしか彼の寝所に忍び寄っていた。
翌朝、志士は血の海の中で見つかった。
枕元の桐箱は、蓋を開けたまま、空になっていた。
抜き取られた穂先は、どこを探しても出てこなかった。
同志たちは、裏切り者の仕業だと言い争った。
だが、障子に残った刀傷は、人の背丈より高い位置にあった。
※
三つ目は、大正の世の、ある実業家の話だった。
男は骨董好きで、書斎の床の間に、この穂先を飾っていた。
事業は面白いように当たり、男は一代で財を築いた。
番頭たちは、あの穂先が主の運を守っていると噂した。
ところが晩年、男は宗旨がえをして、穂先を博物館へ寄贈した。
「わしの代で、この因縁を断つ」
そう言い残して、男は穂先を手離した。
寄贈から七日目の朝、男の会社は取り付け騒ぎで潰れた。
そして同じ日の晩、男は自邸の書斎で、冷たくなっていた。
床の間には、穂先のあった跡だけが、白く残っていたという。
禍鉾はその後、博物館の火事で焼け出され、ふたたび世に流れた。
手放した者の命を取る。
墨書きの一行は、代を越えて、律儀に守られていた。
男は、裸一貫から身を起こした人物だったという。
穂先を床の間に据えてから、手がける商いはことごとく当たった。
生糸で当て、株で当て、土地で当てた。
寄る年波に、男はふと、この幸運の出どころを恐れはじめた。
「あまりに、うまくいきすぎる」と、日記に書き残している。
因縁を子の代に残すまいと、男は穂を寺社ではなく博物館に託した。
公のものにすれば、祟りも薄れると考えたのだろう。
三つの時代、三人の持ち主。
いずれも、身のほどを越えた高みへ昇り、そして落ちた。
共通していたのは、栄えたことではない。
手放した、まさにその刹那に、命を絶たれたことだった。
戦国の主は、穂を寺に納めた日の夕に。
幕末の志士は、穂を盗まれたその夜のうちに。
大正の商人は、穂を寄贈した七日のうちに。
偶然と呼ぶには、あまりに律儀な符合だった。
※
調べを進めるうち、私はある古い神職の手記に行き当たった。
禍鉾のことを、その神職はこう記していた。
「これは人を昇らせる力ではない。人を喰らう前の、餌付けだ」
穂先は持ち主に権を与え、手放せぬほど�’慣らす’という。
そして、いよいよ手放したその隙に、命を奪って糧とする。
「与えられたと思うたものは、みな借りものだ」
「借りたものを返す刹那が、いちばん危うい」
手記は、そう結ばれていた。
私は、卓の上の桐箱を、あらためて見つめた。
あの青ざめた男は、これを手放して、無事でいるだろうか。
ふと、そら恐ろしくなって、私は男の連絡先を探した。
手記の主は、江戸のころにこの穂を預かった神職だった。
穂先を封じるにあたって、彼は多くを書き残していた。
「この鉄は、血を吸うて重うなる」
「持ち主が権を望むほど、鉄は黒く艶を増す」
神職は、封じの間、幾度も金縛りに遭ったと記している。
耳もとで、位を数え上げる声がしたともいう。
「一国、二国、そして命」
その声を聞くたび、彼は経を唱えて夜を明かしたそうだ。
※
その晩から、店の様子が少しずつ変わった。
閉めたはずの桐箱の蓋が、朝には決まって開いていた。
埃ひとつ積もらぬのに、穂先だけが、いつも湿って見えた。
深夜、蔵のほうから、鉄を研ぐような音が聞こえた。
手のひらに、覚えのない細い切り傷が、増えていった。
不思議と、店の商いは、その数日でひどく上向いた。
長く売れ残った品が、次々とよい値で捌けていった。
喜ぶより先に、私は背筋が寒くなった。
これは、あの神職の言う「餌付け」ではないのか。
手放したくない、と思いはじめている自分に気づいたのだ。
それこそが、この穂先の狙いなのだと、私は悟った。
あるとき、常連の客が店の敷居をまたいで、顔をしかめた。
「ここ、鉄気くさいね。血みたいな匂いだ」
客はそう言って、そそくさと帰っていった。
私にはもう、その匂いが分からなくなっていた。
それだけ、私はこの穂先に馴染んでしまっていたのだ。
夜、蔵の戸を開けると、桐箱の蓋がまた開いていた。
黒い穂先が、月の光を吸って、ぬめりと光っていた。
見ていると、飾っておきたい、という思いが胸に湧いた。
次の瞬間、その思いに、私はぞっとした。
※
私は、旧知の老いた骨董商に、電話で相談した。
事情を話すと、相手はしばらく黙り込んだ。
「その品は、売るな。譲るな。捨てるな」
「手放し方をまちがえると、その刹那にやられる」
「返すのではなく、もとの供養に戻すのだ」
老人は、丹波の山中にある古い社の名を教えてくれた。
禍鉾は、もともとその社に封じられていた品だという。
私は翌朝、桐箱を風呂敷に包み、山へ向かった。
社の宮司は、箱を見るなり、深くうなずいた。
「よう、無事で持ってこられた」
「多くの者は、手放す間際に、気が変わってしまうのでな」
「昔な、それを欲がって死んだ同業を、わしは三人知っとる」
老人の声は、受話器の向こうで、かすれていた。
「みんな、いい品だと言うて、手元に置きたがった」
「そして、いざ手放すというとき、決まって欲が出るんや」
「返す、と口では言うて、心のどこかで惜しむ」
「その一分の隙を、あれは待っとるんや」
私は、床の間へ飾りたくなった昨夜の自分を思い出した。
背筋を、冷たいものが伝った。
「だから、心を残すな。すっぱりと、もとの社へ返せ」
老人は、それだけ言うと、電話を切った。
丹波の山は、その日、朝から深い霧に沈んでいた。
社は、杉木立の奥の、苔むした石段の上にあった。
風呂敷包みは、山を登るにつれ、ずしりと重くなった。
はじめは軽かったはずの桐箱が、腕が痺れるほどになっていた。
「離すな、離すな」と、耳の奥で誰かが囁く気がした。
私は歯を食いしばり、一段ずつ石段を登った。
宮司は、鳥居の下で、はじめから待っていたかのように立っていた。
※
宮司は、私を古い祠の前へ導いた。
「箱を、こちらへ。決して、直に触れぬように」
私は言われたとおり、風呂敷ごと箱を差し出した。
手が離れる、その一瞬だった。
うなじに、氷のような息が、ふっとかかった気がした。
耳のそばで、誰かが小さく舌打ちをした。
風もないのに、社の梢が、ざわりと鳴った。
宮司が、すかさず祝詞をあげ、祠の扉を閉じた。
扉が閉まると、あたりは嘘のように静まった。
「間に合いましたな」と、宮司は額の汗をぬぐった。
「あと少し惜しんでいれば、あなたはここにいなかった」
私は、その言葉に、腰が抜けるほど震えた。
宮司は、白木の三方に箱をのせ、幾重にも注連縄を巻いた。
塩を撒き、榊を振り、低く長い祝詞をあげ続けた。
祠の奥から、鉄の錆びるような、饐えた匂いが漂ってきた。
祝詞が高まると、その匂いは、しだいに薄れていった。
「この社はな、三百年、あれを封じてきたのです」
「四十年前、心ない者が持ち出してから、封が解けておった」
「戻ってきてくれて、ほんに助かりました」
宮司の額には、真冬だというのに、汗が浮いていた。
※
山を下りるころには、あれほど重かった風呂敷が、空のように軽かった。
背に負っていた何かが、たしかに剥がれ落ちたのが分かった。
京へ帰る車中で、私は預かった経緯を、あらためて紙に書きつけた。
忘れてしまう前に、記録に残しておきたかったのだ。
筆を走らせながら、私はふと、あの男の顔を思い出した。
穂先を私に押しつけて、逃げるように去った、あの青ざめた男を。
男は、はたして無事でいるのだろうか。
その予感は、あいにく、悪いほうへ当たっていた。
※
それから半年ほどして、私はあの青ざめた男の消息を知った。
男は、私の店に穂先を預けた三日後に、事故で亡くなっていた。
手放したはずの因縁は、それでも彼を取りにきたのだ。
手放す間際ではなく、手放したそのあとに。
では、私が助かったのは、供養に戻したからだったのか。
それとも、まだ順番が回ってきていないだけなのか。
私には、それを確かめる術がない。
あの丹波の社に、禍鉾が今もあるのかどうかも分からない。
宮司はその後、社ごと火にかかり、行方が知れなくなった。
焼け跡から、あの黒い穂先だけは、見つからなかったという。
人に天下を与え、そして人を糧とするもの。
それは今も、次の持ち主を探して、どこかを流れているのだろう。
今も、凪いだ夜には、あの氷の息の温度を思い出す。
あれは、次に手放す誰かを、じっと待っているのだ。
店の桐箱の蓋が、まれに、独りでに軋む夜がある。
そのたびに私は、あの氷のような息を、うなじに思い出す。
あなたの家の蔵にも、うかつに手放せぬ品が眠ってはいないだろうか。
真実は、いつものように、闇の中である。
あの穂先を手にした者は、いつも同じ道をたどった。
何もない身から、天下と思うほどの高みへ昇る。
そして、それを手放す刹那に、すべてを奪われる。
与えられたものは、はじめから貸しものだったのだ。
利息のように、命ごと回収されるだけの。
私はもう、あの黒い鉄を追うのはやめた。
追えば、また餌付けが始まる気がするからだ。
男の死は、単なる転落事故として片づけられていた。
深夜、駅の階段から落ちたのだという。
目撃した者は、男が何かに袖を引かれたようだった、と語った。
けれど、そこには誰もいなかったと、その者は言い添えた。
私が穂先を預かった、ちょうど三日目の晩のことだった。