写してはならぬ顔

学生の頃、民俗学のゼミの手伝いで、ひと夏を山あいの集落で過ごした。

名は伏せておく。地図にも載らないほどの、小さな集落だった。

谷の奥に、茅葺きの家が十軒ばかり、身を寄せ合うように建っていた。

私が世話になったのは、その中でもいちばん古い、築百五十年をこえる家だった。

最寄りの駅から、バスを乗り継いで三時間。

終点からさらに、杉木立の中の坂道を、一時間ほど登った。

谷は、昼でも薄暗かった。

沢の水音だけが、絶え間なく響いていた。

人の声は、ほとんど聞こえなかった。

夜になると、その静けさは、いっそう深まった。

沢の音のほかに、ときおり、遠くで、木の裂けるような音がした。

山鳴りだと、区長は言った。

けれど、その音は、どこか、人の泣き声にも、似ていた。

太い梁は黒く煤け、廊下は歩くたびに、低く軋んだ。

土間は、ひんやりと湿っていた。

かまどの煤と、漬物の酸いにおいが、家じゅうに染みついていた。

夜になると、ランプの灯りだけが頼りだった。

電気は、通ってはいたが、当主は使いたがらなかった。

「明るすぎると、見えてはならぬものまで、見えてしまう」

おもてさまは、そう言って笑った。

その言葉の意味を、私はまだ、知らなかった。

その家の当主は、九十に近い老婆だった。

背は曲がっていたが、目だけは、驚くほど澄んでいた。

村の者は、その人をただ「おもてさま」と呼んでいた。

はじめて挨拶をしたとき、私は思わず息をのんだ。

皺だらけの顔の奥に、少女のような、澄んだ目があったからだ。

見つめられると、心の底まで、覗かれている気がした。

けれど、いやな感じはしなかった。

むしろ、なつかしいような、ふしぎな心地だった。

挨拶のとき、そっと、手を握られた。

枯れ枝のように、細く、乾いた手だった。

けれど、その手は、驚くほど、あたたかかった。

「よう、来なさった」

「あんたは、絵を、描く人だそうね」

どうして、それを知っているのだろう。

私は、区長にしか、話していなかったはずだった。

漢字を尋ねると、区長は少し言い淀んでから、「面の、面さまだ」と言った。

顔、という意味らしかった。

集落に着いた初日、区長から、ひとつだけ約束をさせられた。

「おもてさまの写真だけは、絶対に撮ってはならん」

区長の声は、妙に低かった。

「カメラを向けることも、いかん。向けただけで、いかんのだ」

その晩、区長は、囲炉裏端で、ぽつぽつと語った。

この家には、古い言い伝えがあるのだという。

「面さまの顔をうつした者は、面さまもろとも、谷に連れていかれる」

谷、というのは、昔、飢饉で沈んだ古い村のことらしかった。

その村では、飢えのあまり、恐ろしいことが起きたのだという。

生き残った者たちが、この谷へ逃げのびて、集落をひらいた。

逃げるとき、彼らは、亡くなった者たちの顔を、一枚ずつ、絵に写して持ってきた。

せめて、忘れぬために。

ところが、その絵に、写された者たちの念が、宿ってしまった。

夜な夜な、絵の中の顔が、生者を、谷へ呼ぶようになった。

呼ばれた者は、いなくなった。

だから、この土地では、顔を写すことを、固く禁じたのだ。

「だから、うちの当主は、代々、顔を写させん」

「写したものは、白う塗って、封じる」

区長は、そう言って、仏間のほうを、あごでしゃくった。

私は、鳥肌が立つのを、袖の下で押さえた。

私は、田舎にありがちな言い伝えだろうと思い、軽く頷いた。

だが、家に上がってすぐ、私はひとつ、奇妙なことに気づいた。

仏間の鴨居には、代々の当主の肖像が、ずらりと掛かっていた。

どれも、古い絹本に描かれた、立派な肖像画だった。

ところが、その顔の部分だけが、どれもこれも、白く塗りつぶされていたのだ。

のっぺらぼうの肖像が、十幾つも、こちらを見下ろしていた。

よく見ると、白い絵の具は、幾重にも塗り重ねられていた。

新しいものほど、白がまだ、生々しかった。

いちばん古い一枚は、白がすっかり黄ばんで、ひび割れていた。

そのひびの奥から、なにかが、透けて見えそうだった。

私は、目をそらした。

夜、その仏間の前を通るのが、私はこわかった。

ランプを持って歩くと、白い顔の列が、灯りの中に、ぬっと浮かぶ。

のっぺらぼうのはずなのに、見られている気が、した。

顔がないからこそ、どこを見ているのか、わからない。

それが、なにより、おそろしかった。

背筋に、つめたいものが走った。

「これは、どういう」

私が尋ねると、おもてさまは、囲炉裏の火を見つめたまま言った。

「うつされた顔は、しまっておくものです」

意味は、わからなかった。

翌朝、井戸端で、村の子どもとすれ違った。

その子は、私の顔を見るなり、こう言った。

「おにいちゃん、面さまを、じっと見たらいかんよ」

「見たら、目が、覚えてしまうから」

子どもは、それだけ言うと、駆けていった。

あとで気づいたのだが、この家には、鏡がひとつもなかった。

洗面所にも、簞笥にも、鏡の跡だけが、白く残っていた。

すべて、外されていたのだ。

顔をうつすものは、鏡も、水面も、この家では、遠ざけられていた。

井戸には、板の蓋がしてあった。

庭の池は、埋め立てられていた。

当主の顔が、どこにも、うつらぬように。

この家は、そのためだけに、造りかえられてきたのだ。

百五十年をかけて。

それからの日々、私はおもてさまの話を、飽きずに聞いた。

この土地の祭りのこと。飢饉のこと。谷に沈んだ古い村のこと。

語るときのおもてさまの横顔は、ふしぎと若やいで見えた。

皺の一本一本にまで、長い歳月がやどっているようだった。

ある日、私は思いきって、尋ねてみた。

「おもてさまは、ご自分の顔を、見たいと思われませんか」

鏡のない家のことを、それとなく、聞いたつもりだった。

おもてさまは、少し笑って、答えた。

「自分の顔なんて、見たら、それに縛られます」

「顔を持たぬというのは、ずいぶん、身軽なものですよ」

その言葉を、私は、うまく飲みこめなかった。

いまなら、少しは、わかる気がする。

私は、絵を描くのが好きだった。

だから、いつしか思うようになった。

この顔を、写しておきたい、と。

写真は、いけない。それは約束した。

だが、絵なら。

手すさびの鉛筆画なら、かまわないだろう。

理屈では、そう思った。

けれど、胸の奥では、別の声がしていた。

やめておけ、と。

あの澄んだ目を、紙に閉じ込めてはいけない、と。

その声を、私は、若さで、ねじ伏せた。

いま思えば、私は、試したかったのだ。

言い伝えが、本当かどうかを。

若い者にありがちな、傲慢だった。

目に見えぬものを、信じきれずにいた。

だから、確かめようとした。

確かめてはならぬものを。

そう、自分に言い聞かせた。

いま思えば、そこが、境目だった。

ある晩、私は自分の寝間で、記憶をたよりに、おもてさまの顔を描いた。

囲炉裏の灯にうかぶ、あの澄んだ目を。

炭のにおいの残る指で、一本ずつ、皺を写しとっていった。

描きあげたとき、私は、ぞっとした。

あまりに、似ていたからだ。

紙の中のおもてさまが、いまにも、まばたきをしそうだった。

鉛筆を置いた指先が、氷のように冷たくなっていた。

寝間の温度が、急に下がったようだった。

ランプの炎が、風もないのに、ゆらりと傾いた。

私は、あわててスケッチブックを閉じた。

閉じる間際、紙の中の目が、たしかに、私を見た。

気のせいだと、何度も、自分に言い聞かせた。

その夜から、家の様子が、少しずつ変わりはじめた。

まず、においだった。

夜半になると、どこからともなく、線香のにおいが漂ってくる。

仏間には、誰も火を灯していないはずだった。

次に、音だった。

廊下を、するり、するりと、衣ずれのような音が通っていく。

足音は、しなかった。

衣ずれだけが、私の寝間の襖の前で、ぴたりと止むのだった。

その気配は、朝まで、動かなかった。

襖一枚をへだてて、なにかが、こちらを、うかがっていた。

畳に手をつくと、ぞっとするほど、湿っていた。

手のひらに、土のにおいが、うつった。

沈んだ古い村の、谷の底のにおいのようだと、私は思った。

翌朝、畳の湿りは、跡形もなく消えていた。

夢だったのかと、思おうとした。

だが、私のスケッチブックの表紙にだけ、うっすらと、手の跡が残っていた。

私のものより、ずっと小さな、老いた手の跡だった。

あの夏、私が持ち帰ってしまったものが、これなのかもしれない。

手の跡は、洗っても、こすっても、消えなかった。

やがて、うっすらと、紙の内側へ、染みていった。

襖を開ける勇気は、なかった。

私はスケッチブックを、荷物のいちばん底に隠した。

隠せば、消えるとでも思ったのだろう。

それから、私は、眠れなくなった。

目をつむると、白い顔が、まぶたの裏に浮かんだ。

のっぺらぼうの肖像たちが、いっせいに、こちらを向く夢を見た。

食も、細った。

三日で、頬がこけた。

三日目の朝、おもてさまが、私の寝間の前に立っていた。

曲がった背を、いつもより、まっすぐに伸ばして。

その顔には、いつもの、おだやかさがなかった。

澄んだ目だけが、暗がりの中で、ぼう、と光って見えた。

私は、金縛りにあったように、動けなかった。

声も、出なかった。

ただ、心の臓の音だけが、耳の奥で、鳴っていた。

「見せてごらんなさい」

声は、静かだった。

私は、隠したはずのスケッチブックを、いつのまにか手にしていた。

自分の意思ではなかった。

おもてさまは、私の描いた顔を、しばらく、じっと見つめた。

それから、ほう、と息を吐いた。

「上手に、描けましたね」

褒められて、しかし、少しも嬉しくなかった。

「あの、これは、写真では、ありませんから」

私は、言い訳のように言った。

「絵ですから、その、約束は」

おもてさまは、ゆっくりと首を振った。

そして、こう言ったのだ。

「写真でも、絵でも、同じことです」

「うつした顔には、魂が、宿ってしまうのですよ」

私は、声も出なかった。

「か、返します。この絵は、燃やします」

やっと、それだけ言った。

おもてさまは、静かに、首を振った。

「一度うつしたものは、もう、戻りません」

「燃やせば、宿った魂の、行き場が、なくなるだけ」

「だから、白う塗って、この家に、置いておくのです」

その声には、責める色は、少しもなかった。

ただ、ふかい、あきらめだけがあった。

仏間の、白く塗りつぶされた肖像の意味を、私はそのとき、ようやく悟った。

あれは、描かれた顔を、封じたものだったのだ。

うつされてしまった魂を、この家は、代々、白い顔の下に、閉じ込めてきたのだ。

その日の夕暮れ、おもてさまは、囲炉裏の前で、静かに息を引き取った。

眠るように、事切れていた。

その膝の上に、一枚の、古い写真が、伏せて置かれていた。

区長が、そっと裏返した。

だが、そこには、なにも写っていなかった。

ただ、真っ白な、印画紙があるだけだった。

「面さまは、生涯、一度も、写らなんだ」

区長は、そう言って、手を合わせた。

苦しんだ様子は、まるでなかった。

村の者は、九十をこえての大往生だと言った。

誰も、私を責めはしなかった。

だが、私は知っている。

あの人が事切れたのは、私が、あの顔を、紙にうつしとった、その報いだ。

うつされた魂は、うつした者に、引かれていく。

そういう言い伝えだった。

けれど、連れていかれたのは、おもてさまのほうだった。

身がわりに、なったのだ。

若い私を、谷へ引かせぬために。

そう考えると、涙が、止まらなかった。

通夜の晩、区長が、私のスケッチブックを、そっと持って行った。

区長は、私を、責めなかった。

「あんたのせいじゃない」と、低い声で言った。

「面さまは、こうなることを、はじめから、わかっておられた」

「あんたを、泊めたときから」

その言葉が、かえって、私の胸を、深くえぐった。

おもてさまは、私が絵を描くと、知っていて、迎え入れたのだ。

自らの、身がわりの相手として。

仏間で、白い絵の具を、私の描いた顔に、塗り重ねるためだった。

十三枚目ののっぺらぼうが、こうして、鴨居に加わった。

塗り終えた白い顔は、他の十二枚と、まったく見分けがつかなかった。

けれど、私には、わかった。

どれが、私の描いた一枚か。

その前に立つと、かすかに、線香のにおいがしたからだ。

私はその夏のうちに、集落を離れた。

以来、二度と、あの谷を訪れていない。

あれから、二十年が過ぎた。

私は、あの夏を境に、絵を、描かなくなった。

人の顔を写すことが、どうしても、できなくなったのだ。

鉛筆を握ると、あの澄んだ目が、まぶたの裏に、浮かぶ。

そして、線香のにおいが、鼻の奥に、よみがえる。

ただ、ひとつだけ、腑に落ちないことがある。

あの家を発つ前の晩、私はもう一度だけ、仏間をのぞいた。

すると、白く塗りつぶされたはずの肖像の、いちばん端の一枚。

その顔の部分の白い絵の具が、うっすらと、剥がれかけていたのだ。

下から、目が、ひとつ、こちらをのぞいていた。

澄んだ、少女のような目だった。

おもてさまの目に、そっくりだった。

だが、その一枚は、いちばん古い、黄ばんだ肖像のはずだった。

何百年も前の、当主のものだ。

なのに、なぜ、あの人の目が。

私は、思わずあとずさった。

そのとき、背後の襖が、するりと、ひとりでに閉じた。

衣ずれの音が、耳もとを、通りすぎた。

私は、逃げるように、その家をあとにした。

坂を、転げるように駆け下りた。

一度だけ、振り返った。

谷の霧の中に、あの古い家が、じっと、沈んでいた。

二階の窓に、白い顔のようなものが、ひとつ、こちらを見ていた気がした。

あれが、おもてさまだったのか。

それとも、私が写した、あの一枚だったのか。

それが、誰の顔だったのか。

私には、どうしても、思い出せないでいる。

いまも、あの家の鴨居のどこかで、白い顔になって、こちらをのぞいているのかもしれない。

私が、いつか、谷へ帰るのを、静かに待ちながら。

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