
これは友人Tの話である。
彼はとにかく不思議な人物だった。
まず、身体が異常に柔らかい。毎日酢を飲んでいるせいだと本人は言っていた。
さらに、当時あまり知られていなかった奇妙な拳法を習っており、それが後に「ジークンドー」、あのブルース・リーが開祖した拳法だと知った。
Tの家は、どこか常識から外れていた。
彼自身が自作の弓矢でハトを仕留めたり、祖父は犬を軍用犬のように訓練していた。
ある日遊びに行ったときには、弟がトンファーを持ち、Tがヌンチャクで応戦している。
どうやら練習らしいが、馴染みのない私からすると奇妙でしかなかった。
ここまでは「少し変わった家庭」と思える範囲だった。
※
しかし、本当に奇妙なのはここからだ。
Tには「陰が薄い」という特徴があった。
ただの目立たない性格ではなく、まるで気配そのものが消えてしまうのだ。
例えば、一緒に歩いていて右側にいると思って話しかけると、いつの間にか左に立っている。
一日一緒にいれば十数回はそういうことが起きる。
彼の友人なら誰でも知っていることで、皆こう言った――「Tは気配を完全に消せる」と。
そしてT自身が「調子がいいとき」と語るとき、彼は「テレポート」してしまうらしい。
本人は意識しているのか無意識なのか分からないが、私はその現場を三度見ている。
一度は、帰り道で。
右にいたはずのTが、突然柵の向こうの学校へ歩いて行き、校舎に入っていった。
不思議に思い、そのまま帰宅したが、すでにTは家にいた。
抜かされたわけでも、先回りされたわけでもない。
二度目は、自転車で坂を下っていたとき。
Tが先に角を曲がり、20メートルほど先で姿を消した。
次の瞬間、背後から自転車の音がし、振り返るとそこにTがいた。
三度目は修学旅行。
寝ていたTが突然、空中から落ちたのだ。
体勢そのままで、寝ている場所から一メートルほど上へ移動し、そこからドサッと落ちる。
痛そうなのに、彼は気づく様子もなく眠り続けていた。
※
問いただすと、彼はいつも笑いながらこう言った。
「うん、そうなんだよ。右に曲がったと思ったら、なんでここにいるんだろうな。
でもよくあるんだよ、これ」
彼の友人なら誰でも一度は目撃していて、もはや「Tはテレポートする」というのは共通認識だった。
弟に話すと、家族も慣れているという。
「電車でドアが閉まった後に外へ移動しちゃって大変だった」と笑っていた。
いなくなっても「ああ、また移動したんだろう」と放っておくらしい。
※
そして数年後、大人になってからTに久々に電話をした。
どうしても気になって、「テレポートのこと、まだあるのか?」と尋ねてみた。
彼は少し困ったように答えた。
「最近はめっきり減ったんだけどな。彼女と同棲してたときにやっちまってさ。気味悪がられて別れたんだよ」
どうしようもない、と苦笑していた。
ただ、一番奇妙に思うのは――
友人も、家族も、そして私自身も、「Tはテレポートする」という事実を、あたりまえのように受け入れてしまっていることだ。
この世には説明のつかないことが、確かに存在するのかもしれない。