雪を踏む足音
初雪の山は登ってはいけない。
そういう話を仲間内でよく聞いていたが、単に滑りやすくなるからだろうと軽く捉えていた知り合いは、命の危険に晒された。
彼は登山歴3年くらいの経験の少ないアマだった。しかし勝気な性格で、人に頼ったりする事が嫌いだ。
何でも一人でするタイプで、その時も一人で冬山を登っていたのだが、初雪が降り始めていた。
積もったのはほんの数センチだったので、彼は当初の計画通り登り続けた。
雪のせいで登山道が分かり辛くなった彼は、慎重に登り始めたのだが、段々不安になり始めた。
※
道を探しながら歩いていると、足跡がある事に気付いた。彼は喜んで胸を撫で下ろした。
『この道で間違いないんだ』
また調子を取り戻して歩き始めた。だが、その足跡に気になる点があった。
靴の足跡ではない気がする。少なくとも登山ブーツではない。明らかに細すぎるし、小さい。
そのまま足跡を頼りに登り始めた。周りの景色が少し違うなと、3年の経験で勘付き始めた。
登山道と言うより獣道に近く、岩もごろごろしているし、雑林も増えて来て歩き辛くなって来た。
彼はその足跡の不気味さも気に掛かっていたので、引き返す事にした。
※
辺りもかなり暗くなって来て、彼は焦り始めた。
急いで自分の足跡を頼りに下山していると、異変に気付いた。
あの細い足跡が増えている…。登っている時は一人だけの足跡だったが、今は数人分ある。
少なくとも今は3人分の足跡が見える。しかも、よく観察してみると裸足の足跡のように見えた。
それに気付いた彼は背筋がゾクゾクして来て、恐怖に襲われた。自分の事を裸足の何かが後を付けて来ていた。
しかも登山道ではない。その時、彼は知り合いのベテラン登山家の言葉を思い出していた。
「初雪の日は登山してはいけないよ。見てはいけないものが見えちまう。
普段は見えないものが、雪のおかげで見える事があるんだ。それは命取りになるから」
彼はパニックになりつつあった。
※
辺りは更に暗くなり始め、得体の知れない裸足の足跡…。
自分は確実に迷っている。
彼は足早に足跡を頼りに下山を始めた。
しかしいくら歩いても登山道には戻れなかった。
もう完全に日は落ち、足跡も見分けが付かなくなった。
――遭難。
頭にその言葉が浮かんだが、今日中の下山を諦め野宿すると決断した。
野宿の準備をしていなかったので、装備の中で使えそうな物は、アルミ箔のような保温カバーとマッチくらいしかなかった。
彼は風が凌げる大きな岩の下で野宿をする事にした。
かなり冷えるが、雪の降った後で穏やかな夜だったから、凍死の心配は無さそうだ。しかし念のため眠らない事にした。
※
落ち着いたところで足跡の事がふと頭に浮かんで来た。
『あの足跡は誰のものだろうか…。シカやウサギ、イノシシだろう、きっと…』
彼は自分の気を誤魔化すように、小動物の足跡だと解釈するようにしていた…。
そして、眠らないように頑張っていた彼はついうとうとして、眠ってしまった。
※
彼は物音で目が覚めた。それは何かが雪の上を歩く音だった。
「ザクッ…ザクッ…ザクッ…」
その音は岩の後ろから聞こえていた。
勝気な彼は小動物だと思い、追い払おうと大声を出した。
「コラッ!!」
怒鳴ると足跡は遠くへ逃げて行った。
「やっぱり、イノシシか…」
※
数十分後、また足跡が遠くから聞こえて来た。
「ザクッ…ザクッ…ザクッザクッ…ザクッザクッザクッ…」
今度の足音は違った。
1人の足音じゃない…仲間を連れて来たんだ…。
流石の彼も恐怖を感じた。
「コラッ!!」
もう一度、思い切り怒鳴った。
足音は止まったが、少しするとまた進み始めた。こちらへ向かって来ている。
もうここまで来ると、奴らが人間だと思わずにいられなくなった。
数人の人間がこちらへ向かって来ている…。
彼は今までに無いほどの恐怖に襲われた。
体育座りをして、目を瞑って祈り始めた。特に宗教には入っていなかったが、子供の頃に祖父や祖母が念仏を唱えていたのを微かに思い出しながら。
顔を保温カバーに入れて外を見ないようにしながら、ひたすら、滅茶苦茶な念仏を唱えた。
足音はまだ聞こえている。
どんどん近くなって来ている。
「ザクッザクッザクッ。ザクッ」
夜中までその足音は続き、まるで彼の周りをグルグル回っているかのようだった。
彼は一睡も出来ず、半狂乱で念仏を唱えていた。
※
やがて朝が近くなり、徐々に明るくなって来たのが分かった。
足音は次第に遠くになって来ていた。彼は安堵した。日が昇ったのが分かった。
足音も完全に聞こえなくなり、彼は恐る恐る保温カバーから顔を出して辺りを見回すと、愕然とした。
周りには何十もの足跡が残っていた。しかも裸足の足跡が。彼は疲労困憊でその足跡を眺めていた。
あまりの恐怖に何も考えられなかったが、荷造りをして下山を始めた。
30分も歩くと、その足跡は途中で消えた。
少し歩くと登山道の標識が見え、無事に下山した。
心身ともに衰弱し切った彼は、これを最後に登山を止めた。