歪んだ旅館
怖いと言うよりちょっと不思議な話です。
会社のK子さんという同僚から聞いたお話で、彼女の実体験です。
K子さんは先月の末、妹さんと二人で箱根の温泉旅館に行ったそうです。
その旅館は古くて由緒ある旅館。文豪が定宿にしていたような旅館、と言えば雰囲気は解ってもらえるでしょうか。
二人は温泉も気に入り、お食事も美味しく頂いた後、部屋でくつろいでいました。
※
暫くして、階下へ行ってお土産でも見て近くを散歩でもしようということになり、二人は揃ってロビー階へ降りました。
途中、何人もの仲居さんたちとすれ違いました。
ビール瓶のケースやスリッパが沢山並んだ広間があり、閉じられた襖の向こうから賑やかな声が聞こえてきます。
「宴会だね」
「そうだね」
取り留めもない会話をしつつ、二人はロビー階へ到着。
ロビーと言っても、従業員が常時居るようなホテルとは違い、ひっそりとしていました。
二人は、そこでお土産や宿の歴史が書かれたパンフを見たりし、その後お庭を散歩して、夕食後の一時を過ごしました。
※
そして数十分が経った頃、肌寒くなったので部屋へ戻ろうということに。
二人は階上の自分たちの部屋へ向かいます。
ところが、自分たちの部屋が見つからないのです。
さほど大きな旅館でもなく、たいして複雑な造りでもないにも関わらず、何故か部屋に辿り着けない。
「この年で迷子になるなんてね~」
仲居さんか誰かに尋ねようと、きょろきょろ辺りを見回す二人。
その時、妹さんが言いました。
「お姉ちゃん、何か変じゃない?」
そう言われてK子さんも気付きました。
辺りがいやに静かなのです。
宴会が催されていたはずなのに、廊下には仲居さんの姿はありません。
かの広間の前には、スリッパやビールケースこそ並んでいるものの、宴会の声も全く聞こえない。
辺り一帯、人の気配が無いのです。
訝しく思いながらも、二人は廊下や階段を行きつ戻りつ自分たちの部屋を探しました。
「ねえ、こんなとこに廊下あったっけ?」
「ドアの造りが、私たちの部屋がある階とは違うよね」
「ここ、さっきも通らなかった?」
そう言えば、踊り場で見た盛り花や絵画もどこか記憶と違う。
若冲のような絵だったのが、竹久夢二の美人画に変わっている。
別の場所で見たものをここで見たと勘違いしているだけだろうか。
最初こそ迷子気分を楽しんでいた二人でしたが、段々怖くなり始めました。
降りた階段とは別の階段を上ったり、その逆をしてみたりを繰り返していると、予想とは違う様子の廊下に出てしまうこともありました。
「動けば動くほど、ここがどこだか判らなくなる……」
「さっき、踊り場こんなに狭かった?」
そしていよいよパニック寸前、というところで、その人は突然現れました。
「どうかなさいました?」
振り返った二人の目の前には、茄子紺色の丹前を羽織った初老の女性が立っていました。
不思議そうにそう尋ねた女性に、二人は安堵の面持ちで言いました。
「私たち、自分の部屋が判らなくなっちゃって」
しかしそれを聞いた女性は、さも可笑しそうにカラカラ笑うだけで、そのまま行ってしまったのだそうです。
がっかりした二人が自分たちの部屋を見つけたのは、再び自分たちの部屋を探そうとした直後のことでした。
※
部屋に戻って安堵の溜め息を吐きながら、先の女性の不親切を愚痴るK子さんに、妹さんは言ったそうです。
「あのおばさんが戻してくれたんだよ」
「どういうこと?」
「おばさんが去って行くとき、何か空気が変わった感じがした。ぼにょーんって歪んだみたいな……」
「え?」
「あの人、そういう係なんだと思う」
ちなみにK子さんの妹さんは幽霊を見るような霊感は無いそうですが、非常に感受性が強く、普段から勘の鋭い人だそうです。
※
結局、怖い思いをした旅館に二泊もしたくないということで、翌日の宿泊はキャンセルすることになりました。
「何か不手際があったでしょうか」
と聞く従業員に、
「何かちょっと怖くって」
とだけ言うと、その従業員はそれだけで合点が行ったという面持ちで、
「解りました」
と答えたそうです。
※
地元のタクシーの運転手さんの話によると、その旅館のある一帯の地域では、以前から同様のことが起きるそうです。
雑木林の中や宿泊施設の裏の遊歩道など、屋外でも起こるらしく、そういう時は必ず人の気配が無くなるのだそう。
そして迷った人々が元来た所へ帰還する直前には、いつも朗らかな初老の女性と出会うのだとか。
「怖いことはないんですよ。一時迷っちゃうだけでね。
磁場っていうんですかね、それが狂うのが関係してるって言う人もいます。
ただ、それとおばさんとが、どんな関係かは判りませんけどね」
※
K子さんから聞いた話は以上です。
箱根近辺で同じような不思議な体験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。