止まった腕時計
友達のお父さんが自分にしてくれた話。
彼には物心ついた頃から母親が居なかった。
母親は死んでしまったと、彼の父親に聞かされていた。
そして彼が7才の時、父親が新しい母親を連れて来た。
新しい母親は、彼のことを自分の子供のように大切に育ててくれたので、三人家族になってからの方が彼の人生は幸せなものだった。
※
そして彼が高校生になったばかりの頃、いつものように通学路を家に向かって歩いていると、30代後半位の着物を着た女性が向かいから歩いて来た。
彼の住んでいた所はまだまだ当時は田舎で、田んぼや畑、山などに囲まれていた。
彼の通学路はそんな山の麓にある、舗装すらされていない、人が二人やっと擦れ違えるような一本道だった。
車も通れない道なので、地元の住民が(彼も含めて)徒歩でちょっと隣町に用を足しに行く、という時などに使う道だ。
だから擦れ違う人たちは必ず顔見知りなのだが、向かいから彼の方に歩いて来る女の人は面識が無かった。
もうそろそろ擦れ違うという時に彼は立ち止まり、彼女を先に通してあげるために、一歩道から退いた。
着物を着た女性は、擦れ違いざまに微笑んで言った。
「ありがとう」
そして何かを彼の手に握らせ、そのまま何事も無かったかのように、去って行った。
彼の手のには、女性物の上品な腕時計が握られていた。
着物の女性の腕時計なのだろうか。
道を譲ってお礼を言われるのは驚かないが、なぜ時計を? 道を譲ったお礼にしては大げさだ。
彼は困惑しながらも、手に持った腕時計と歩き去る着物の女性の後ろ姿を交互に見つめながら立ち尽くした。
※
家に帰った彼は、そのまま自分の部屋に入った。
ベッドに仰向けになりながら、時計を観察する。
時計の針は止まっていた。
壊れているのかな? だからくれたのか? 要らないから?
もしかしてこの中に何か変な物が入っているんじゃ? あの女性は自分を何かの罠に嵌めようと?
考えれば考えるほど、彼の思考はあっちの方向に行ってしまい、遂に
「よし!分解してみよう」
という結果になった。
※
中に入っていたものは…。
若い頃のあの女性らしき人が生後一ヶ月程の赤ん坊を抱いている、色褪せた白黒写真だった。
時計の形に合わせて切り抜いてあるその写真の裏には、『昭和○年○月○日』と記してある。
その日付は、まさしく彼の生まれた日から数週間後のものだった。
あれは母だったのか? 自分が生まれてすぐに死んだのではなかったのか?
そう思ったと同時に、彼の父が部屋に入って来た。
彼は急いで時計を枕の下に隠した。
父の様子がいつもと違う。泣き腫らしたような真っ赤な目をしていた。
父は彼に言った。彼の母親は実は死んでなかったこと。
父親は彼に嘘を吐き続けていた事を詫びた(これは理由を話すと長いので省略します)。
彼の母親は現在東京に居り、癌を患い入院中で、もう長くないとのこと。
病床で彼の名前をうわごとで何度も言うので、見かねた母親の弟が、彼の父に会わせてあげて下さいと泣きながら電話をして来たというのだ。
東京で入院中? では、あの着物の女性は?
※
彼は父にはその日にあった出来事を話さず、次の日東京へ向かった。時計も一緒に。
再会した母は、痩せ細ってはいたがとても美しかったという。
もう起き上がることも出来ない状態だったが、彼を見ると自力で起き上がろうとしたので、彼は駆け寄り母親を支えて、上半身を起こしてあげた。
改めて母親を見つめると、やはり時計をくれた女性によく似ていた。
彼は自分のズボンのポケットから例の時計を取り出して、母親に見せた。
母親はその時計を見て驚いていた。それは彼女の物だったからだ。
まだ癌が発見される前、元気だった時に、母親はその時計をいつも身に着けて暮していた。
写真も、母親がいつも息子と一緒に居られるようにと、その腕時計の中に入れたのだそうだ。
ある日の朝、腕時計が止まっていることに気付いた母は、会社の帰りに修理に出そうと、バッグに入れて会社に向かった。
そして、駅でバッグごと置き引きに遭ってしまったのだと。
その腕時計の中の写真が、彼女のただ一つの彼の写真だったので、それから暫く彼女は泣き明かしたそうだ。
※
三ヶ月後、彼は母の最後を看取った。
そして、彼女の細くなってしまった手首に、その時計を着けてあげた。
「もう失くさないよ」
という言葉と共に。