
小学三年生の頃の私は、怖い話を作るのが得意な子どもでした。
布団の中で思いついた話を、翌日、家族や友達に披露するのが何よりの楽しみでした。
そのたびに、必ず前置きをしていました。
「僕が考えた怖い話なんだけど、聞いてよ」と。
あの癖が、二十年以上経った今でも、私の中でときどき疼きます。
家の古い柱時計が時を打つ音を聞くと、今も縁側の匂いがよみがえります。
蚊取り線香と、麦茶と、夏の夕方の土の匂いです。
祖父から聞いた入ってはいけない場所の話を、居ないはずの気配の話とあわせて、ここに書いておきます。
祖父だけが聞いた作り話
いちばんの聞き手は、祖父でした。
縁側の籐椅子に座って、団扇を動かしながら、私の話に付き合ってくれました。
怖がりの私が作る話ですから、たいして怖くはなかったはずです。
それでも祖父は、いつも眉を寄せて、「ほう」と低い声を出してくれました。
その反応が嬉しくて、私はますます話を作りました。
ある日、私が学校で披露した話が、思いがけず広まりました。
『放課後の男子トイレで、奥の個室を叩くと、同じ回数だけノックが返ってくる』
どこにでもある、ありがちな話です。
作った本人の私ですら、すぐに忘れてしまうような、出来のいい話ではありませんでした。
思いついたのは、算数の時間でした。
窓の外では、体育の授業の笛が、遠くで鳴っていました。
ノートの端に、個室とノックの絵を落書きしたのが、そもそもの始まりです。
ところが、クラスの女子の間で、それがあっという間に流行りました。
一週間も経たないうちに、噂は学校中に広まっていました。
「男子トイレの前で、手招きする男の子を見た」
そんなことを言い出す子まで、現れました。
私が慌てて「あれは僕の作り話だってば」と言っても、誰も聞いてくれません。
噂は、私の手を離れて、勝手に育っていきました。
やがて、放課後の男子トイレで肝試しをするグループが、現れました。
普通なら、何も起きるはずがありません。
ところが、参加した子どもたちは、口を揃えて言うのです。
「ノックが、返ってきた」と。
学校は、大騒ぎになりました。
保護者会が開かれ、校長先生が壇上で、「事実ではありません」と何度も繰り返しました。
けれど、その言葉を聞くたびに、教室の空気は、かえって重く沈んでいきました。
放課後の廊下では、女子たちが、息を潜めるようにして囁き合っていました。
「ねえ、聞いた? 昨日はね、二回返ってきたんだって」
「違うよ、三回だよ」
数は、日ごとに増えていきました。
先生たちが集まって、男子トイレの前に、立入禁止の張り紙を貼りました。
そんなワケがあるか、と私は思いました。
作り話だということを、みんなにアピールしたかった。
でも、当時の私は、みんなに冷たい目で見られることが、怖くて仕方なかったのです。
言い出せないまま、日が過ぎていきました。
そのうち、私は、自分の話が本当になってしまったのではないか、と考えるようになりました。
夜、布団に入ると、トイレの個室の扉が、暗がりの中で、ゆっくり開く映像ばかりが浮かびます。
自分で作った話なのに、自分が一番怖がっている。
その滑稽さが、かえって私を追い詰めました。
母に「顔色が悪いわよ」と言われても、「何でもない」と答えるのが、精一杯でした。
私は、怖くなって、自作の怖い話をするのを、一切やめてしまいました。
縁側で泣いた夜
その騒動から、しばらくした頃でした。
夕飯のあと、縁側で一人ぼんやりしていた私に、祖父が声をかけました。
「もう、怖い話はせんのかい」
返事をしようとして、喉が詰まりました。
気づけば、涙が、ぼろぼろと膝の上に落ちていました。
私は、泣きじゃくりながら、学校での出来事を、洗いざらい話しました。
「ほうか、ほうか」
祖父は、一言も遮らずに、最後まで聞いてくれました。
蚊取り線香の煙が、縁側の柱をなぞるように、ゆっくり昇っていました。
縁側の板は、昼間の陽射しの熱を、まだ残していました。
私は裸足の指先を、その温かさに押し当てていました。
祖父の浴衣の袖から、湿布の匂いが、かすかに漂ってきました。
庭の隅では、鈴虫が鳴いていました。
「それはな、みんなが坊の話を、本当に怖いと思ったんだ」
祖父は、団扇を膝に置いて、静かに言いました。
「坊の話を切っ掛けにして、みんなが勝手に、怖いものを創っちゃったんだよ」
私は、鼻をすすりながら、顔を上げました。
「怖い話を作って楽しむのは、ええ。でもな、それが広まって、より恐ろしく加工されて、より危険な話を創られるようになるとな」
祖父は、そこで一度、言葉を切りました。
「いつの日か、『それ』を知った、わしらの目には見えん存在が、『それ』の姿に化けて、ほんまに現れてしまうようになるのかもしれん」
「目に見えるものじゃなくて、心の中にな」
私は、意味がよく分からないまま、うなずきました。
「『おそれ』はな、ヒトも獣も、変わらず持っとるものだ。『おそれ』は、見えんものを見えるようにしてしまう。本能だからな」
祖父の声は、普段より少しだけ、低く聞こえました。
「だから、怖いものは、強がらずに、ちゃんと怖がりなさい。そして、決して近寄らんようにしなさい」
「そうすれば、ほんまに酷い目にあうことは、ない」
祖父は、自分の膝を、ぽんぽんと叩きました。
「坊は、賢い子だ。怖がれる子は、強い」
その言葉が、どんな慰めよりも、私の背中を軽くしてくれました。
私は、涙で濡れた頬を、浴衣の袖でごしごしと拭きました。
私は、祖父の顔をじっと見ました。
「爺ちゃんも、怖い思いをしたの」
祖父は、しばらく黙っていました。
縁側の電球が、羽虫に囲まれて、じりじりと鳴っていました。
やがて祖父は、ゆっくりと口を開きました。
天狗を見た村
「昔な、爺ちゃんは、坊の知らん、遠いお山の中の村に住んどったんだよ」
夏の夜の風が止まって、庭の草の匂いが濃くなりました。
遠くの田んぼで、蛙が一斉に鳴き止みました。
その静けさが、祖父の話の続きを、待っているように思えました。
「爺ちゃんが、今で言う、高校生ぐらいの頃だ。友達と一緒に、山へ肝試しに行ったことがある」
山道の脇には、お地蔵さんが、びっしりと並んでいたそうです。
友達がいたから、少しも怖くなかった、と祖父は言いました。
山道は、苔むした石段で、一段ごとに湿った土の匂いがしました。
並んだお地蔵さんには、色褪せた赤い前掛けが掛かっていて、どれも少しずつ傾いていたそうです。
風のない夕方で、杉の梢だけが、遠くで鳴っていました。
「ところが、帰り道でな。その友達が、お地蔵さんを端から全部、倒し始めたんだ」
「『全然怖くない、つまらん』と言ってな」
祖父は、そこで初めて、その場所に立っているのが怖くなったそうです。
お地蔵さんの目が、自分を睨んでいる気がしました。
祖父は、友達を置いて、一目散に逃げ帰りました。
「そうしたら、その友達は、どうなったと思う」
「亡くなったの」
「いいや。何も起きんで、普通に帰ってきた」
祖父は、苦笑いを浮かべました。
けれど祖父は、それ以来、すっかりお化けが怖くなって、肝試しに行くのをやめたそうです。
その友達は、その後も、何度も肝試しを繰り返しました。
ありがたい神社に忍び込んだり、墓地をうろついたり、お地蔵さんにいたずらをしたり。
周りの人は、呆れて、相手にしなくなっていきました。
すると友達は、人の気を引くために、おかしなことを言うようになりました。
「天狗を見た」と。
「見てろ、噂を広めてやる」
そう言って、笑っていたそうです。
そして、ある日、ふっと姿を消しました。
村中で探しましたが、見つかりません。
数日後、山の高い木の根元で、友達は、倒れているところを見つかりました。
木の幹には、足掛けのために削った跡が、点々と残っていました。
友達は、自分で木に登って、足を滑らせて落ちたのです。
削られた足掛けは、人の背丈を超える高さまで、点々と続いていました。
どうして友達が、そこまで登ろうとしたのかは、誰にも分かりませんでした。
天狗の姿を、本当に見たかったのかもしれない、と祖父は後に思ったそうです。
「ばかな奴だ」
祖父は、そう言って、目を細めました。
「坊、世の中にはな、人が入ってはいけない場所というのがある」
「それは、怖い場所だ。坊だったら、タンスの上も、そうだよ。落ちるのは、怖いだろう」
「爺ちゃんの友達には、怖い場所が、見分けられんかったんだ」
私は、固唾をのんで聞いていました。
「怖いのは、ここからだ」
祖父の声が、わずかに震えました。
入ってはいけない場所
友達が亡くなってから、村の人たちが、次々に言い出したのです。
「天狗を見た」と。
祖父は「あれは友達のでまかせだ」と何度も言いました。
でも、誰も聞いてくれませんでした。
「友達は、天狗の怒りに触れたんだ」
「祟りだ。呪いだ」
村の人たちは、自分たちで不安を煽り合いました。
集会所の板の間には、毎晩、男たちが集まりました。
囲炉裏の火が弾ける音のほかは、誰も口を開かない時間が、ずいぶん長く続いたそうです。
その沈黙のなかで、誰かがぽつりと、「やはり、山に何かおる」と言うのです。
一人がそう言うと、別の一人が頷き、また別の一人が、声を低くして続けます。
最初の言葉の出どころは、もう誰にも分からなくなっていました。
夜通し、見張りの火が焚かれるようになりました。
顔を合わせるたびに、天狗の話ばかりしているので、村中がじめじめと湿っていきました。
そんな時に限って、体調を崩す人が相次ぎました。
村の中で、怪我をする人が、四件も続いたのです。
どうということのない捻挫まで、数に数えられました。
誰の目にも、村人は皆、おかしくなっていました。
やがて、噂に尾ひれが付きました。
『天狗に生贄を出さなければ、皆が祟られる』
そんな、酷い話になったのです。
ついに、本当に生贄を出そうという相談が、始まりました。
籤を引く日が決まりました。
「若い、まだ嫁入り前の娘から選ぶ」
そう言い出したのは、普段は穏やかな、一番年長の男でした。
祖父は、集会所の隅で、膝を抱えていました。
拳を握りしめた指の爪が、掌に食い込んで、血が滲んでいました。
籤を引かされたのは、庄屋の家の末の娘でした。
祖父は、その名前を、最後まで口にしませんでした。
友達が亡くなった原因は、木から足を滑らせたことだったのに、すっかり天狗のせいにされていました。
「村の者は、皆、人が入ってはいけないところに、踏み込もうとしていたんだよ」
祖父は、団扇を握りしめました。
「それはな、人の命だよ。誰にも、それを奪う権利なんて、ないはずなのにな」
「爺ちゃんは、天狗よりも、村の皆のほうが、ずっと怖かった」
「だからな、爺ちゃんは、その村から逃げてきたんだ」
祖父は、そこで話を終えました。
縁側は、しんと静まり返りました。
私は何も言えませんでした。
団扇の動く音も、もう止まっていました。
逃げたのは、その晩のことだったそうです。
月のない夜でした。
祖父は庄屋の家の裏口に回り、戸を二度、小さく叩きました。
出てきた人は、手に小さな風呂敷包みを提げていました。
二人は、何も言わずに、山道を下りました。
背中のずっと後ろで、集会所の太鼓が、一度だけ、鳴ったそうです。
その長い話が終わったとき、祖父の目から、大粒の涙が落ちました。
その涙は、ぼとぼとと、私の小さな手の甲に落ちました。
話はその後、ねだって二度ほど聞かせてもらいましたが、祖父は、決まってこう言いました。
「絶対に内緒だぞ」
両親のいる場所では、祖父は決してこの話をしませんでした。
今でも、私の家には、父方の実家がありません。
「農家の次男の爺ちゃんが、庄屋の娘の婆ちゃんと駆け落ちしてきたからだよ」
両親からは、そう聞いています。
祖父の話に出た生贄の娘が誰だったのかを、私は聞けませんでした。
ただ、祖母は、日が落ちると、決まって雨戸を閉める人でした。
縁側のこの席に、祖母が並んで座っているのを、私は一度も見たことがありません。
夕涼みに誘っても、祖母は台所の戸口から、にこにこと手を振るだけでした。
夏の夜でも、窓を開けて涼むことは、一度もありませんでした。
あの夜、縁側の襖の向こうには、祖母が、湯呑みを持ったまま、立っていたような気がします。
その子の赤い帽子
昨年、姪が小学三年生になりました。
夏休みに遊びに来た姪が、麦茶を飲みながら、学校の話をしてくれました。
「あのね、男子トイレに、手招きする子がいるんだよ」
私は、コップを持つ手を、止めました。
「奥の個室を叩くとね、同じ回数だけ、ノックが返ってくるの」
姪は、ストローで氷をかき回しながら、続けました。
氷が、からん、と鳴りました。
私は、返事をするのを忘れていました。
赤い帽子の子どもは、誰が見た姿なのでしょう。
お地蔵さんを倒した友達の話を思うと、首刈り地蔵のような、土地に残る話を連想せずにはいられませんでした。
窓の外では、夕立の前触れの風が、洗濯物を揺らしていました。
「でもね、先生たちは信じてないんだよ。だから私たちだけの秘密なの」
秘密、という言葉が、舌の上で苦く広がりました。
「その子はね、赤い帽子をかぶってるんだって」
姪は、まるで見てきたように、自信たっぷりに言いました。
赤い帽子。
私が作った話に、帽子は、出てきません。
そんな細部を、私は一度も、誰にも話したことがありませんでした。
その学校は、私が通った小学校とは、別の県にあります。
姪が帰ったあと、私は縁側に座り、長いあいだ、動けませんでした。
夕立が来る前の、重たい風が吹いていました。
遠くで、雷が一度だけ鳴りました。
庭の隅で、鈴虫が、一匹だけ鳴いていました。
祖父が生きていたら、何と言っただろうかと考えました。
縁側の籐椅子は、祖父が逝ってから、誰も座らないまま、ずっと同じ場所にあります。
その座面が、ときどき、ほんの少しだけ沈んで見えるのは、気のせいだと思うことにしています。
きっと、団扇を動かしながら、「ちゃんと怖がりなさい」とだけ言ったでしょう。
あの日、祖父が教えてくれた入ってはいけない場所は、山の中にあるのではないのだと思います。
人の口から口へ渡る、小さな噂のなかにあります。
そして、それを面白がって広げる、私たちの喉の奥にあります。
私は今、姪に何を伝えるべきなのか、まだ決められずにいます。
とりあえず、麦茶を注ぎ足しながら、「その話はもう、しないでおこうか」とだけ言いました。
姪は、不思議そうな顔で、頷いてくれました。
姪は、笑いながら、麦茶のおかわりをねだりました。
私は、台所の戸棚から麦茶のボトルを取り出して、ゆっくりと注ぎました。
麦茶の琥珀色の表面に、自分の顔がゆがんで映っていました。
「叔父さん、顔色悪いよ」
姪が言いました。
「大丈夫。ちょっと、昔のことを思い出しただけだよ」
そう答えながら、私は、トイレの個室の扉の隙間から覗いている誰かの視線を、背中に感じていました。
縁側の風鈴が、ちりん、と一度だけ鳴りました。