妹を二度、別の場所で同時に見た。
一度目は私が四つ、二度目は十七の秋だ。
どちらも、家の敷地の中で起きた。
母方の祖父の家は、丹波の谷あいにあった。
母屋と、庭を挟んだ土蔵。
蔵は明治の建物で、白壁の下半分が黒く焼けたように変色している。
祖父はそこを物置にせず、畳を入れて座敷にしていた。
「客間や」
と祖父は言っていた。
客が来たところを、私は一度も見ていない。
谷は、南北に細長い。
家は十七軒あって、川沿いに一列に並んでいる。
日が当たるのは、午前中の三時間ほどだ。
それを過ぎると、山の影が谷底を東から順に埋めていく。
祖父の家は、その列のいちばん奥だった。
奥というのは、影がいちばん早く来る場所ということでもある。
蔵を建てたのは、曾祖父だと聞いた。
明治の終わり頃らしい。
白壁の下半分が黒いのは、一度焼けたからだそうだ。
焼けたのに建て替えず、そのまま漆喰を上から塗った。
「土が惜しかったんやろ」
母はそう言っていた。
惜しかったのが土なのかどうか、私にはわからない。
蔵が焼けた話を、私は一度だけ詳しく聞いた。
祖父の家の隣に、昔は分家があったそうだ。
いまは更地で、駐車場になっている。
火はその分家から出て、蔵の壁を舐めて止まった。
母屋には届かなかった。
「風向きが変わったんや」
祖父はそう言った。
分家の人は、そのあと谷を出て行った。
「何人おったんですか」
「二人や」
祖父は、指を二本立てた。
それから、少し考えて、指を一本折った。
「一人か」
「どっちですか」
「どっちやろな」
祖父は笑った。
笑ってから、湯呑みの底を見た。
その話は、そこで終わった。
母屋と蔵の間は、二十歩ほど。
御影石の踏み石が、七つ並んでいた。
数えたから憶えている。
子どもというのは、そういうものを数える。
踏み石は七つだった。
四つの秋に数えて、七つだった。
十七の秋にも数えた。
八つあった。
増えるはずがない。
御影石は、子どもが運べる重さではない。
祖父に言うと、
「そんなもん、数えるもんやない」
と言われた。
叱られた、という感じではなかった。
面倒くさそうでもなかった。
ただ、その日から祖父は庭に出るとき、踏み石を使わなくなった。
土の上を、遠回りして歩くようになった。
※
一度目は、四つの秋だった。
庭の、母屋寄りの土の上で遊んでいた。
祖父が捨てた瓦の欠片を並べていたのだと思う。
顔を上げると、母屋の縁側から居間の中が見えた。
母が、妹を抱いて寝かしつけていた。
妹はまだ首も据わっていない赤ん坊だった。
母の腕が、一定の速さで上下している。
私は自分の音がうるさいと思って、遊ぶのをやめた。
それで、蔵のほうへ行った。
蔵の戸は、いつも半分開いていた。
重い戸で、四つの私には動かせない。
開いている隙間から、中を覗いた。
座敷に、母がいた。
横になって、布団の上の妹の頭を撫でていた。
妹は眠っていた。
私は、恐怖よりも先に驚いた。
驚きすぎて、声が出た。
「なんでこっちにもおるん」
母は顔を上げた。
「なにが」
「あっちにもおったのに」
母は、私が指した方を見た。
それから、笑った。
「寝ぼけとるんやろ」
私は説明しようとした。
四つの語彙では、うまくいかなかった。
母は取り合わなかった。
当たり前だ。
母は、そのとき蔵にいたのだから。
四つの秋の続きを、もう少し書く。
母に取り合ってもらえなかったあと、私は庭に戻った。
母屋の縁側を、もう一度見た。
居間には、誰もいなかった。
座布団が一枚、床に落ちていた。
それだけだ。
背中はもういなかった。
私はその座布団を拾いに、縁側に上がった。
温かかった。
人が座っていた温かさだった。
四つの私は、それを気にしなかった。
温かい座布団は、家の中では珍しくないからだ。
いま思い出すと、あれが最初の答えだった。
答えのほうが先に置いてあって、私は三十年、拾わなかっただけだ。
※
その日のことで、憶えていることがもう一つある。
母屋の居間で見た母は、こちらを向いていなかった。
背中だけだった。
蔵の母は、顔があった。
私を見て、笑った。
つまり、顔があったほうが本物だ。
そう思って、私は長いこと納得していた。
納得のしかたが子どもだった、と気づくのは、ずっとあとになる。
猫のことも、書いておく。
ヨシは、耳が欠けていた。
右の耳の先が、三角に切れている。
四つの秋にも、同じ猫がいた。
耳の欠け方まで、同じだった。
十三年だ。
猫としては、あり得ない年数ではない。
ただ、母に聞いたら、
「ヨシは何代かおるよ」
と言われた。
「みんな耳が欠けてるん」
「さあ。おじいちゃんが名前つけるから」
祖父が耳を切っているのだとは、誰も言わなかった。
言わないので、私も考えないことにした。
※
二度目は、十七の秋だ。
祖父の家に、家族で泊まりに行った週末だった。
祖父はその年の春に、足を悪くしていた。
母屋で夕飯を食べたあと、私は庭に出た。
蔵に飼い猫がいるはずだった。
茶色の、耳の欠けた雌猫だ。
祖父が「ヨシ」と呼んでいた。
由来は聞いていない。
その晩は、蔵の窓が開いていた。
電気も点いていた。
夜だったが、中がよく見えた。
窓の桟で、ヨシが涼んでいた。
その猫を、妹が抱き上げた。
高校の制服のままだった。
紺のカーディガンの袖が、少し伸びている。
妹は猫を抱いて、座敷の奥へ歩いて行った。
奥は暗くて、二歩で見えなくなった。
私は、そのとき妹と口をきいていなかった。
つまらないことで揉めていた。
進路の話だ。
気まずいので、母屋へ引き返した。
居間に入った。
妹が、飯を食べていた。
茶碗を持って、テレビを見ながら。
制服ではなかった。
部屋着のジャージだった。
私は、喧嘩中なのも忘れて聞いた。
「お前、今、蔵におったやろ」
妹は箸を止めた。
「は」
「猫抱いとった」
「ずっとここにおるけど」
母も祖父も、そう言った。
「さっきから、そこで食うとる」
妹の話に、私は口を出さなかった。
「ずっとここにおるけど」
と言ったときの妹の顔を、私は見ていた。
面倒くさそうでも、怒ってもいなかった。
ただ、箸を止めたまま、少し長く私を見ていた。
あれは、心当たりのある人間の間だ。
聞くべきだった、といまは思う。
聞かなかったのは、喧嘩中だったからだ。
つまらない理由で、私は確かめる機会を一度手放した。
進路の話など、いま思い出せもしない。
※
私は蔵へ戻った。
懐中電灯を持って行った。
窓は開いていた。
電気も点いていた。
座敷の中は、誰もいなかった。
畳の上に、猫だけがいた。
ヨシは、部屋のいちばん奥で丸くなっていた。
抱き上げられて、奥へ運ばれた場所だ。
十七の秋の、蔵の中をもう一度書く。
懐中電灯で照らすと、畳の目まで見えた。
座敷は八畳だ。
床の間があって、掛け軸はかかっていない。
釘だけが残っている。
猫は、床の間の前で丸くなっていた。
私が近づいても、顔を上げなかった。
背中に手を置いた。
温かかった。
それから、少し湿っていた。
猫は、水の中を通ったみたいに湿っていた。
その晩、雨は降っていない。
庭の土は乾いていた。
私は手を引っこめて、掌を制服のズボンで拭いた。
匂いは、しなかった。
何の匂いもしないというのは、それはそれでおかしい。
猫を触った手は、猫の匂いがするものだ。
窓から奥まで、六畳ぶんある。
猫が自分で歩いたのだと言われれば、それまでだ。
それでも、私はその晩、蔵の戸を閉めた。
重い戸だった。
十七の私には、動かせた。
母屋に戻って、私は妹の腕を見た。
ジャージの袖から出た手首に、猫の毛はついていなかった。
当たり前だ。
抱いていないのだから。
私は自分の掌を見た。
こちらにも、毛はついていなかった。
六畳の奥にいた猫に触ったのに。
翌朝、蔵に行ったら、床の間の前に毛が固まって落ちていた。
猫が長い時間、同じ場所にいたときにできるやつだ。
一晩でできる量ではなかった。
その晩、私は妹の袖のことを考えていた。
蔵で見た妹は、紺のカーディガンを着ていた。
袖が伸びて、指の付け根まで隠れていた。
あれは、妹の癖だ。
考えごとをするとき、袖を引っぱって握る。
部屋着のジャージには、そんな袖はない。
つまり、蔵にいたほうは、妹の癖まで持っていた。
制服も、袖の伸び方も。
見ただけでは、区別がつかない。
区別がつかないというのは、そういう意味だ。
もう一つ、その晩に確かめたことがある。
蔵に、電気は来ていない。
祖父の家は昭和三十年代に電気を引いたが、蔵までは配線していない。
母屋の縁側から、延長コードを引いて使う。
そのコードは、その晩、母屋の壁に巻いたままだった。
私は、それを翌朝に確かめた。
束ねてあった。
埃も落ちていなかった。
では、あの晩に点いていた電気は何か。
祖父に聞いた。
祖父は湯呑みを置いて、こう言った。
「点いとったんか」
「点いてました」
「そらええこっちゃ」
それきりだった。
ええこっちゃ、と言われて、私は返す言葉がなかった。
※
祖父が二度目のことを聞いてきたのは、翌朝だ。
縁側で、足に湿布を貼りながら。
「昨日、蔵、閉めたか」
「閉めました」
「そうか」
祖父はしばらく、庭を見ていた。
「あそこはな、閉めんでええ」
「なんでですか」
「閉めると、出られんようになる」
何が、とは言わなかった。
私も聞かなかった。
祖父はそのまま、湯呑みに手を伸ばした。
「四つの時にも、見たやろ」
私は顔を上げた。
その話を、祖父にした憶えはない。
母は取り合わなかったのだから、伝わりようがない。
「なんで知ってるんですか」
祖父は答えなかった。
湿布の袋を畳んで、それをずっと折り続けていた。
※
祖父は、私が帰る日に一度だけ、蔵の話をした。
門のところまで、足を引きずって送りに来て、
「あそこはな」
と、蔵のほうを顎で示した。
「留めとくとこや」
「何をですか」
「行きそこねたもんを」
私は、意味を聞き返さなかった。
聞き返せば、祖父は答えたかもしれない。
答えを聞いたら、私はもうあの庭で遊べなくなる。
十七の私には、それがわかっていた。
祖父は、私が黙ったのを見て、満足そうにうなずいた。
「そんでええ」
それが、祖父と交わした最後のまともな会話だ。
※
祖父が亡くなったのは、その三年後だ。
家を片付けているときに、蔵の押入れから木箱が出てきた。
中身は、写真と、帳面が数冊。
帳面は、祖父の字で日付だけが並んでいた。
何の日付かは書いていない。
年に二つか三つ。
それが、五十年ぶん続いていた。
母に見せた。
母は、しばらく黙って眺めていた。
それから、ページを一枚ずつ指でたどった。
止まった日付が、一つあった。
「これ、あんたが四つの秋やわ」
「憶えとるん」
「憶えとるも何も」
母は、帳面を閉じた。
「あの日、あたしは蔵におった」
「知ってる」
「ずっと蔵におった。母屋には行っとらん」
私は、意味がわかるまで数秒かかった。
母屋の居間で、赤ん坊を抱いて揺れていた背中。
あれも、母ではなかったということだ。
帳面の日付を、母と一つずつ照らした。
いちばん古いのが、大正の初めだ。
曾祖父の字らしい。
筆で、細く書いてある。
途中から、祖父の字に変わる。
鉛筆になり、ボールペンになる。
日付だけ。
年に二つか三つ。
多い年で五つ。
何もない年も、何度かあった。
「これ、何の日やろ」
「わからん」
母はそう言ったが、指は止まらなかった。
止まらないというのは、探しているということだ。
探すものが何か、母は知っていたのだと思う。
十七の秋の日付も、あった。
祖父の字で、その一行だけ、少し濃かった。
母が、自分のことを話したのはその時だ。
「あたしも、一回だけある」
「見たん」
「見た。十九の時」
「誰を」
「あたしを」
母は、帳面から目を離さなかった。
「井戸端で洗いもんしとったら、蔵の窓からあたしが見とった」
「どうしたん」
「手ぇ振った」
「振り返してきた」
「振り返してきた」
母は、そこで初めて笑った。
笑い方が、うまくいっていなかった。
「そのあと、おじいちゃんが帳面つけとった」
「言うたん」
「言うてない」
だから、祖父は知っていた。
言わなくても、あの家では日付がつく。
帳面には、続きがある。
祖父が亡くなった年の日付が、一つだけ入っていた。
祖父の字ではなかった。
筆だった。
大正の初めの、いちばん古いページと同じ筆跡だった。
母は、そのページを見て何も言わなかった。
箱に戻して、蓋をした。
「持って帰る」
とだけ言った。
帳面は、いま母の家の仏壇の引き出しに入っている。
新しい日付は、まだ足されていない。
確かめたのは、去年の盆だ。
祖父の葬式のあと、蔵の戸のことを親戚に聞いて回った。
誰も、閉めるなとは言われていなかった。
言われていたのは、私と母だけだった。
「見た者にだけ言うんやろ」
母は、そう言った。
「なんでですか」
「見てない人に言うたら、見に行くやろ」
それは、たしかにそうだ。
祖父は五十年、日付だけをつけて、誰にも説明しなかった。
説明しないことが、あの家の戸締まりだったのだと思う。
※
写真は、蔵の前で撮ったものが多かった。
祖父が若い頃のもの。
曾祖父の代のもの。
どれも、蔵の戸が半分開いている。
一枚だけ、戸が閉まっている写真があった。
裏に、鉛筆で日付が書いてあった。
帳面の、いちばん最初の日付と同じだった。
その写真には、蔵の前に子どもが二人写っている。
同じ背丈で、同じ着物で、同じ顔だ。
母に聞いた。
「双子やったん」
「一人しかおらんはずやけど」
母は、写真を裏返して、また表に返した。
「おじいちゃん、一人っ子や」
※
蔵は、いまも建っている。
母の実家は人に貸したが、蔵だけは残した。
貸すときの条件が一つだけあった。
戸を閉めないこと。
不動産屋には、湿気のためだと説明したそうだ。
母がそう言ったのを、私は横で聞いていた。
嘘ではない。
閉めれば湿気は籠もる。
ただ、母はその説明のあいだ、一度もこちらを見なかった。
※
妹は、いまも元気にしている。
子どもが一人いる。
あの二回のことを、妹に話したことはない。
話すと、たぶん、憶えてしまうからだ。
祖父が私に何も説明しなかったのも、そういうことだろうと思っている。
知らなければ、探さない。
探さなければ、たぶん、見つからない。
ただ、去年の盆に一度だけ、妹が妙なことを言った。
蔵の前で、子どもを抱いたまま。
「ここ、来たことある気がする」
妹は、四つのときの記憶がないはずだ。
あの秋、蔵に入っていないのだから。
あの日、蔵にいたのは母と、布団の上の妹だった。
母屋にいたのは、母と、母の腕の中の妹だった。
数が合わない。
どちらかが、いまも合っていない。