十五年も前の、私が小学五年生だったころの話だ。
当時、私は週に三度、塾に通っていた。
帰り道には、古い歩道橋がひとつあった。
国道をまたぐ、鉄骨の、さびた歩道橋だった。
段を上がるたびに、かんかん、と乾いた音が鳴った。
手すりは、触れると、いつも氷のように冷たかった。
その日は、よく晴れた秋の夕暮れだった。
空は、熟した柿のような色に染まっていた。
国道には、帰宅の車が、絶え間なく流れていた。
私は、歩道橋のいちばん高いところで、ふと立ち止まった。
夕日を浴びた車の列が、きれいだと思ったのだ。
ランドセルの肩ひもが、少しだけ食い込んでいた。
排気ガスの匂いに、どこかの家の夕飯の匂いが混じっていた。
いつもと、何ひとつ変わらない夕方だった。
歩道橋の下を、トラックが、地響きをたてて通り過ぎた。
鉄骨が、わずかに揺れた。
私は、その揺れが、昔から少しだけ苦手だった。
塾のテキストが重くて、肩がこっていた。
早く家に帰って、母の作る味噌汁が飲みたかった。
そんな、ありふれたことを考えていた。
西の空には、一番星が、ぽつんと光り始めていた。
この歩道橋には、昔から、妙な噂があった。
夕暮れどきに、ここで人が消えた、という話だ。
本当かどうかは、誰も知らなかった。
ただ、上級生たちは、薄暗くなると、ここを使いたがらなかった。
私も、なんとなく、急ぎ足で渡るのが癖になっていた。
けれどその日に限って、夕日があまりに美しくて、足が止まった。
今思えば、それが、いけなかったのかもしれない。
※
その瞬間が、いつ来たのか、私にも分からない。
気づくと、世界から、音が消えていた。
国道を走っていた車が、すべて、止まっていた。
一台残らず、ぴたりと。
タイヤも、排気も、何もかもが、静止していた。
空を見上げると、飛んでいた鳥さえ、止まっていた。
落ちかけていた一枚の枯れ葉が、宙に、貼りついていた。
時間が、止まったのだ。
「えっ、何これ」
声に出したが、その声だけが、やけに大きく響いた。
動いているのは、世界で、私だけだった。
私は、おそるおそる、手すりから手を離した。
止まった車のひとつに、目をやった。
運転席の男性が、笑った顔のまま、固まっていた。
助手席の子どもも、口を開けたまま、動かない。
歩道では、犬を散歩させる人が、片足を上げた格好で止まっていた。
その足元の犬まで、舌を出したまま、静止していた。
私は、試しに、自分の手を、ぱちんと叩いてみた。
その音だけが、止まった世界に、ぱん、と響いた。
あまりの静けさに、自分の心臓の音が、はっきりと聞こえた。
耳が痛くなるほどの、沈黙だった。
風さえ、止まっていた。
頬に当たっていたはずの、冷たい風が、ぴたりとやんでいた。
止まった車の排気ガスが、白い塊のまま、空中に浮いていた。
それは、まるで、時間を切り取った、一枚の写真の中だった。
私は、その写真の中に、たった一人、入り込んでしまったのだ。
怖いはずなのに、不思議と、きれいだとも思った。
夕日に照らされた、静止した世界は、息をのむほど、美しかった。
背筋が、すうっと冷たくなった。
そのときだった。
歩道橋の、すぐ目の前。
何もなかった空間に、ふたりの人影が、いきなり現れた。
本当に、ぱっ、という感じで。
背の高い男と、小柄な女のふたり組だった。
見た目は、どこにでもいそうな若者だった。
ただ、ふたりとも、継ぎ目のない、灰色の服を着ていた。
そして、現れるなり、私の方を見て、声をそろえて言った。
「あ」
※
私は、何かまずいことが起きたと、本能で悟った。
反射的に、走って逃げようとした。
だが、男の方に、あっという間に腕をつかまれた。
その手は、ぞっとするほど、冷たかった。
恐怖で、足が、完全に動かなくなった。
男は、私の腕をつかんだまま、女に向かって言った。
「失敗だ。この子に、姿を見られた」
女は、青ざめた顔で、何度も頭を下げた。
「すみません、すみません」
「謝って済む話か。記録が、ずれる」
男は、しばらく、低い声でつぶやいていた。
「どうする」
「まずいよな、これは」
そして、ぞっとする一言を、口にした。
「見られたものは、消すのが決まりだ」
女が、悲鳴に近い声で、それを遮った。
「だめです、それだけは。子どもですよ」
ふたりは、私の頭ごしに、しばらく言い争った。
私は、ただ、震えていることしかできなかった。
男の服には、ボタンも、縫い目も、ひとつもなかった。
まるで、皮膚のように、体に貼りついていた。
女の髪は、風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
ふたりの足元には、影が、なかった。
夕日は、あんなに赤いのに、影だけが、どこにもないのだ。
「この子の記憶を、消せばいい」と男が言った。
「消し方を、間違えたら、どうするんですか」と女が返した。
「子どもの頭は、もろい。下手をすれば、空っぽになる」
その言葉に、私は、全身の血が引いていくのを感じた。
「空っぽに、なるくらいなら」と女が言いかけた。
「黙れ」と男が、それを止めた。
ふたりの言葉は、日本語のようで、どこか違っていた。
口の動きと、聞こえる声が、ほんの少し、ずれているのだ。
まるで、後から音を、貼りつけたかのように。
私は、夢ではないかと、何度も思った。
けれど、腕をつかむ手の冷たさは、あまりにも本物だった。
やがて、男が、大きくため息をついた。
そして、しゃがんで、私と目線を合わせた。
その目には、白目が、なかった。
黒い瞳が、端から端まで、満ちていた。
「いいか。今のこと、誰にも言うな」
私は、必死で、何度も頷いた。
「言いません、絶対に、言いませんから」
男は、私の手に、何か小さなものを握らせた。
「これをやる。だから、忘れろ。男の約束だ」
そして、私の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「すぐ元に戻る。もう、家に帰りな」
女も、申し訳なさそうに、小さく言った。
「驚かせて、ごめんね」
※
気づくと、国道の車は、また流れ始めていた。
鳥が鳴き、枯れ葉が、はらりと足元に落ちた。
ふたりの姿は、どこにもなかった。
私は、歩道橋を駆け下り、息を切らして家まで走った。
玄関で靴を脱ぎながら、急に怖くなった。
お母さんも、止まっているのではないか、と。
だが、居間からは、テレビの音と、母の笑い声が聞こえた。
「あら、いつ帰ってきたの」
その、いつもの声に、私は心から、ほっとした。
あのことを話したくて、たまらなかった。
けれど、口を開けば、あの冷たい手の感触がよみがえった。
「言うな」と告げた、あの黒い瞳が、頭から離れなかった。
もし話したら、今度こそ、消されるかもしれない。
子ども心に、私は、そう信じてしまった。
その夜、私は、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、止まった車の、笑った顔が浮かんだ。
翌朝、私は、おそるおそる、あの歩道橋へ行ってみた。
歩道橋は、何ごともなかったように、朝日を浴びていた。
下を、通勤の車が、当たり前のように流れていた。
鉄骨を、かんかん、と上る音も、いつもと同じだった。
ただ、いちばん高いあの場所だけが、なぜか、ひやりと冷たかった。
私は、そこに長くいるのが怖くて、すぐに渡りきった。
それからしばらく、私は、塾の帰り道を変えた。
遠回りになっても、あの歩道橋を避けて歩いた。
また時間が止まって、今度こそ消されるのが、怖かったのだ。
けれど、半年もすると、その恐怖は、薄れていった。
代わりに、もう一度会いたい、という気持ちが、芽生えた。
あのふたりは、私を消そうとしながら、結局、見逃してくれた。
女のあの、温かい声を、もう一度聞きたかった。
けれど、約束だから、何も言わなかった。
※
部屋に戻って、私は、握らされたものを取り出した。
油紙のような、薄い紙に包まれていた。
開けてみると、それは、小さな飴のようなものだった。
透き通っていて、中心に、ちろちろと揺れる、赤い炎のような模様があった。
見ているだけで、吸い込まれそうだった。
食べてはいけない、と頭では分かっていた。
それでも、好奇心に、勝てなかった。
口に入れた瞬間、舌の先が、ぴりっとしびれた。
冷たいのか、熱いのか、分からない感覚だった。
次に、ふわりと、甘い香りが、鼻の奥に抜けた。
それは、花の匂いにも、雨上がりの匂いにも似ていた。
けれど、そのどれとも、違っていた。
「世界の味」と、女は言った。
今思えば、私は、知らない世界を、ひと口、舐めたのだ。
私は、その飴を、口に入れた。
その味は、言葉では、とても言い表せない。
今まで食べたどんなものとも、違っていた。
甘いとも、しょっぱいとも違う、初めての味だった。
一瞬、頭の奥に、見たこともない景色が、ぱっと広がった。
青い、どこまでも続く、知らない街並みだった。
それは、まばたきの間に、消えてしまった。
※
あれから、私は何度も、あの歩道橋に通った。
塾の帰りには、必ず、いちばん高い場所で立ち止まった。
時間が、また止まるのを、待っていたのだ。
夕日が、柿色に染まる時刻を選んで、何度も。
けれど、車は、ただ流れていくだけだった。
鳥は飛び、葉は落ち、世界は、当たり前に動いていた。
ふたりの姿も、二度と、現れなかった。
私は、だんだんと、あれは夢だったのかと、思うようになった。
けれど、舌が、あの味を、はっきりと覚えていた。
夢なら、こんなに鮮明に、味まで覚えているはずがない。
もう一度、あの味を、確かめたかったのだ。
けれど、二度と、あのふたりに会うことはなかった。
時間も、二度と、止まらなかった。
今でも、あの歩道橋を渡るとき、私は足を止めてしまう。
止まった世界の、あの静けさを、思い出すのだ。
ふたりは、いったい、どこから来たのか。
私が見てしまった「記録」とは、何だったのか。
そして、あの味の景色は、どこの街だったのか。
あの、青く、どこまでも続く街並み。
見たこともないのに、ひどく懐かしい気がした。
もしかしたら、あれは、ずっと先の未来だったのか。
それとも、私のいる世界とは、別のどこかだったのか。
男が口にした「記録」という言葉が、今も耳に残っている。
私という存在は、誰かに、記録されているのだろうか。
そして、あの日、その記録が、ほんの少しだけ、ずれたのだ。
それを直しに来たのが、あのふたりだったとしたら。
私は、直し損ねられた、小さなほころびなのかもしれない。
だから、こうして、今も覚えているのだろう。
本来なら、きれいに消されているはずの記憶を。
私は今、当時の自分と、同じくらいの子を持つ親になった。
息子が塾から帰るのが遅いと、つい、あの歩道橋を思い出す。
世界のどこかで、また時間が止まり。
誰かが、ほんの少し、記録を直しているのではないか。
そして、私の知らないところで、誰かの記憶が、消されているのではないか。
考えすぎだと、笑う人もいるだろう。
けれど、私の舌は、今も、あの味を忘れていないのだ。
ときおり、夢に見る。
止まった世界の真ん中で、私が、たった一人で立っている夢を。
目の前には、灰色のふたりが、こちらを見て微笑んでいる。
「次は、君の番だよ」と、女が言う。
そこで、いつも目が覚める。
あの飴の味が、口の中に、かすかに残った気がして。
私は、まだ、その意味を知らない。
知りたいような、知りたくないような、奇妙な心持ちのまま。
今日も、暮れていく空を、ぼんやりと眺めている。
私は、止まった車に、そっと近づいてみた。
ボンネットに触れると、わずかに、温かかった。
エンジンは、止まっているのに、熱だけが残っていた。
窓ガラスに映る自分の顔だけが、不安そうに動いていた。
ためしに、止まった人の前で、手を振ってみた。
何の反応もなかった。
その人の瞳は、まばたきの途中で、止まっていた。
上下のまつげが、あと少しで触れ合う、その一瞬で固まっていた。
人の体が、こんなにも無防備に見えるものかと、私は思った。
急に、見てはいけないものを見ている気がして、私は後ずさった。
止まった世界は、美しくて、そして、ひどく寂しかった。
ここには、私のほかに、生きて動くものが、何ひとついない。
その孤独が、ふいに、たまらなく怖くなった。
声をあげたくても、聞いてくれる耳が、どこにもない。
助けを求めても、誰も、動いてはくれない。
私は、世界に取り残されたのだと、幼いながらに悟った。
そのとき、ふたりが現れたのだ。
皮肉にも、その人影を見て、私はほんの少し、ほっとしたのだった。
たとえ、それが、この世のものでなかったとしても。
動いて、言葉を交わせる相手が、現れてくれたのだから。
黒い瞳の奥で、小さな光が、いくつも瞬いていた。
まるで、夜空を、そのまま閉じ込めたようだった。
見つめていると、吸い込まれそうで、私は目をそらした。
男の肌は、夕日を浴びているのに、青白いままだった。
その声だけが、不思議と、温かかった。
男のような、冷たさがなかった。
立ち上がりかけた女が、最後に、小声でつけ加えた。
「その飴はね、わたしたちの、世界の味なの」
「だから、誰にも、見つからないように」
男が、女の肩を、ぐいと引いた。
「行くぞ。これ以上、時間を止めておけない」
ふたりの輪郭が、ゆらり、と陽炎のように揺れた。
次の瞬間には、もう、消えていた。
口の中には、あの不思議な甘さだけが、長く残った。
舌の上で、その味が、ゆっくりと溶けていった。
溶けきってしまうのが、惜しくてたまらなかった。
私は、包んでいた油紙を、そっと開き直した。
そこには、ごく小さな、結晶のかけらが残っていた。
光に透かすと、虹色に、きらりと光った。
私は、それを、机の引き出しの奥に、大切にしまった。
けれど、一週間ほど経って、見に行くと。
そのかけらは、跡形もなく、消えてしまっていた。
まるで、最初から、何もなかったかのように。
十五年経った今も、その答えは、出ていない。