タイムトラベラー

十五年も前の、私が小学五年生だったころの話だ。

当時、私は週に三度、塾に通っていた。

帰り道には、古い歩道橋がひとつあった。

国道をまたぐ、鉄骨の、さびた歩道橋だった。

段を上がるたびに、かんかん、と乾いた音が鳴った。

手すりは、触れると、いつも氷のように冷たかった。

その日は、よく晴れた秋の夕暮れだった。

空は、熟した柿のような色に染まっていた。

国道には、帰宅の車が、絶え間なく流れていた。

私は、歩道橋のいちばん高いところで、ふと立ち止まった。

夕日を浴びた車の列が、きれいだと思ったのだ。

ランドセルの肩ひもが、少しだけ食い込んでいた。

排気ガスの匂いに、どこかの家の夕飯の匂いが混じっていた。

いつもと、何ひとつ変わらない夕方だった。

歩道橋の下を、トラックが、地響きをたてて通り過ぎた。

鉄骨が、わずかに揺れた。

私は、その揺れが、昔から少しだけ苦手だった。

塾のテキストが重くて、肩がこっていた。

早く家に帰って、母の作る味噌汁が飲みたかった。

そんな、ありふれたことを考えていた。

西の空には、一番星が、ぽつんと光り始めていた。

この歩道橋には、昔から、妙な噂があった。

夕暮れどきに、ここで人が消えた、という話だ。

本当かどうかは、誰も知らなかった。

ただ、上級生たちは、薄暗くなると、ここを使いたがらなかった。

私も、なんとなく、急ぎ足で渡るのが癖になっていた。

けれどその日に限って、夕日があまりに美しくて、足が止まった。

今思えば、それが、いけなかったのかもしれない。

その瞬間が、いつ来たのか、私にも分からない。

気づくと、世界から、音が消えていた。

国道を走っていた車が、すべて、止まっていた。

一台残らず、ぴたりと。

タイヤも、排気も、何もかもが、静止していた。

空を見上げると、飛んでいた鳥さえ、止まっていた。

落ちかけていた一枚の枯れ葉が、宙に、貼りついていた。

時間が、止まったのだ。

「えっ、何これ」

声に出したが、その声だけが、やけに大きく響いた。

動いているのは、世界で、私だけだった。

私は、おそるおそる、手すりから手を離した。

止まった車のひとつに、目をやった。

運転席の男性が、笑った顔のまま、固まっていた。

助手席の子どもも、口を開けたまま、動かない。

歩道では、犬を散歩させる人が、片足を上げた格好で止まっていた。

その足元の犬まで、舌を出したまま、静止していた。

私は、試しに、自分の手を、ぱちんと叩いてみた。

その音だけが、止まった世界に、ぱん、と響いた。

あまりの静けさに、自分の心臓の音が、はっきりと聞こえた。

耳が痛くなるほどの、沈黙だった。

風さえ、止まっていた。

頬に当たっていたはずの、冷たい風が、ぴたりとやんでいた。

止まった車の排気ガスが、白い塊のまま、空中に浮いていた。

それは、まるで、時間を切り取った、一枚の写真の中だった。

私は、その写真の中に、たった一人、入り込んでしまったのだ。

怖いはずなのに、不思議と、きれいだとも思った。

夕日に照らされた、静止した世界は、息をのむほど、美しかった。

背筋が、すうっと冷たくなった。

そのときだった。

歩道橋の、すぐ目の前。

何もなかった空間に、ふたりの人影が、いきなり現れた。

本当に、ぱっ、という感じで。

背の高い男と、小柄な女のふたり組だった。

見た目は、どこにでもいそうな若者だった。

ただ、ふたりとも、継ぎ目のない、灰色の服を着ていた。

そして、現れるなり、私の方を見て、声をそろえて言った。

「あ」

私は、何かまずいことが起きたと、本能で悟った。

反射的に、走って逃げようとした。

だが、男の方に、あっという間に腕をつかまれた。

その手は、ぞっとするほど、冷たかった。

恐怖で、足が、完全に動かなくなった。

男は、私の腕をつかんだまま、女に向かって言った。

「失敗だ。この子に、姿を見られた」

女は、青ざめた顔で、何度も頭を下げた。

「すみません、すみません」

「謝って済む話か。記録が、ずれる」

男は、しばらく、低い声でつぶやいていた。

「どうする」

「まずいよな、これは」

そして、ぞっとする一言を、口にした。

「見られたものは、消すのが決まりだ」

女が、悲鳴に近い声で、それを遮った。

「だめです、それだけは。子どもですよ」

ふたりは、私の頭ごしに、しばらく言い争った。

私は、ただ、震えていることしかできなかった。

男の服には、ボタンも、縫い目も、ひとつもなかった。

まるで、皮膚のように、体に貼りついていた。

女の髪は、風もないのに、ゆっくりと揺れていた。

ふたりの足元には、影が、なかった。

夕日は、あんなに赤いのに、影だけが、どこにもないのだ。

「この子の記憶を、消せばいい」と男が言った。

「消し方を、間違えたら、どうするんですか」と女が返した。

「子どもの頭は、もろい。下手をすれば、空っぽになる」

その言葉に、私は、全身の血が引いていくのを感じた。

「空っぽに、なるくらいなら」と女が言いかけた。

「黙れ」と男が、それを止めた。

ふたりの言葉は、日本語のようで、どこか違っていた。

口の動きと、聞こえる声が、ほんの少し、ずれているのだ。

まるで、後から音を、貼りつけたかのように。

私は、夢ではないかと、何度も思った。

けれど、腕をつかむ手の冷たさは、あまりにも本物だった。

やがて、男が、大きくため息をついた。

そして、しゃがんで、私と目線を合わせた。

その目には、白目が、なかった。

黒い瞳が、端から端まで、満ちていた。

「いいか。今のこと、誰にも言うな」

私は、必死で、何度も頷いた。

「言いません、絶対に、言いませんから」

男は、私の手に、何か小さなものを握らせた。

「これをやる。だから、忘れろ。男の約束だ」

そして、私の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。

「すぐ元に戻る。もう、家に帰りな」

女も、申し訳なさそうに、小さく言った。

「驚かせて、ごめんね」

気づくと、国道の車は、また流れ始めていた。

鳥が鳴き、枯れ葉が、はらりと足元に落ちた。

ふたりの姿は、どこにもなかった。

私は、歩道橋を駆け下り、息を切らして家まで走った。

玄関で靴を脱ぎながら、急に怖くなった。

お母さんも、止まっているのではないか、と。

だが、居間からは、テレビの音と、母の笑い声が聞こえた。

「あら、いつ帰ってきたの」

その、いつもの声に、私は心から、ほっとした。

あのことを話したくて、たまらなかった。

けれど、口を開けば、あの冷たい手の感触がよみがえった。

「言うな」と告げた、あの黒い瞳が、頭から離れなかった。

もし話したら、今度こそ、消されるかもしれない。

子ども心に、私は、そう信じてしまった。

その夜、私は、なかなか眠れなかった。

目を閉じると、止まった車の、笑った顔が浮かんだ。

翌朝、私は、おそるおそる、あの歩道橋へ行ってみた。

歩道橋は、何ごともなかったように、朝日を浴びていた。

下を、通勤の車が、当たり前のように流れていた。

鉄骨を、かんかん、と上る音も、いつもと同じだった。

ただ、いちばん高いあの場所だけが、なぜか、ひやりと冷たかった。

私は、そこに長くいるのが怖くて、すぐに渡りきった。

それからしばらく、私は、塾の帰り道を変えた。

遠回りになっても、あの歩道橋を避けて歩いた。

また時間が止まって、今度こそ消されるのが、怖かったのだ。

けれど、半年もすると、その恐怖は、薄れていった。

代わりに、もう一度会いたい、という気持ちが、芽生えた。

あのふたりは、私を消そうとしながら、結局、見逃してくれた。

女のあの、温かい声を、もう一度聞きたかった。

けれど、約束だから、何も言わなかった。

部屋に戻って、私は、握らされたものを取り出した。

油紙のような、薄い紙に包まれていた。

開けてみると、それは、小さな飴のようなものだった。

透き通っていて、中心に、ちろちろと揺れる、赤い炎のような模様があった。

見ているだけで、吸い込まれそうだった。

食べてはいけない、と頭では分かっていた。

それでも、好奇心に、勝てなかった。

口に入れた瞬間、舌の先が、ぴりっとしびれた。

冷たいのか、熱いのか、分からない感覚だった。

次に、ふわりと、甘い香りが、鼻の奥に抜けた。

それは、花の匂いにも、雨上がりの匂いにも似ていた。

けれど、そのどれとも、違っていた。

「世界の味」と、女は言った。

今思えば、私は、知らない世界を、ひと口、舐めたのだ。

私は、その飴を、口に入れた。

その味は、言葉では、とても言い表せない。

今まで食べたどんなものとも、違っていた。

甘いとも、しょっぱいとも違う、初めての味だった。

一瞬、頭の奥に、見たこともない景色が、ぱっと広がった。

青い、どこまでも続く、知らない街並みだった。

それは、まばたきの間に、消えてしまった。

あれから、私は何度も、あの歩道橋に通った。

塾の帰りには、必ず、いちばん高い場所で立ち止まった。

時間が、また止まるのを、待っていたのだ。

夕日が、柿色に染まる時刻を選んで、何度も。

けれど、車は、ただ流れていくだけだった。

鳥は飛び、葉は落ち、世界は、当たり前に動いていた。

ふたりの姿も、二度と、現れなかった。

私は、だんだんと、あれは夢だったのかと、思うようになった。

けれど、舌が、あの味を、はっきりと覚えていた。

夢なら、こんなに鮮明に、味まで覚えているはずがない。

もう一度、あの味を、確かめたかったのだ。

けれど、二度と、あのふたりに会うことはなかった。

時間も、二度と、止まらなかった。

今でも、あの歩道橋を渡るとき、私は足を止めてしまう。

止まった世界の、あの静けさを、思い出すのだ。

ふたりは、いったい、どこから来たのか。

私が見てしまった「記録」とは、何だったのか。

そして、あの味の景色は、どこの街だったのか。

あの、青く、どこまでも続く街並み。

見たこともないのに、ひどく懐かしい気がした。

もしかしたら、あれは、ずっと先の未来だったのか。

それとも、私のいる世界とは、別のどこかだったのか。

男が口にした「記録」という言葉が、今も耳に残っている。

私という存在は、誰かに、記録されているのだろうか。

そして、あの日、その記録が、ほんの少しだけ、ずれたのだ。

それを直しに来たのが、あのふたりだったとしたら。

私は、直し損ねられた、小さなほころびなのかもしれない。

だから、こうして、今も覚えているのだろう。

本来なら、きれいに消されているはずの記憶を。

私は今、当時の自分と、同じくらいの子を持つ親になった。

息子が塾から帰るのが遅いと、つい、あの歩道橋を思い出す。

世界のどこかで、また時間が止まり。

誰かが、ほんの少し、記録を直しているのではないか。

そして、私の知らないところで、誰かの記憶が、消されているのではないか。

考えすぎだと、笑う人もいるだろう。

けれど、私の舌は、今も、あの味を忘れていないのだ。

ときおり、夢に見る。

止まった世界の真ん中で、私が、たった一人で立っている夢を。

目の前には、灰色のふたりが、こちらを見て微笑んでいる。

「次は、君の番だよ」と、女が言う。

そこで、いつも目が覚める。

あの飴の味が、口の中に、かすかに残った気がして。

私は、まだ、その意味を知らない。

知りたいような、知りたくないような、奇妙な心持ちのまま。

今日も、暮れていく空を、ぼんやりと眺めている。

私は、止まった車に、そっと近づいてみた。

ボンネットに触れると、わずかに、温かかった。

エンジンは、止まっているのに、熱だけが残っていた。

窓ガラスに映る自分の顔だけが、不安そうに動いていた。

ためしに、止まった人の前で、手を振ってみた。

何の反応もなかった。

その人の瞳は、まばたきの途中で、止まっていた。

上下のまつげが、あと少しで触れ合う、その一瞬で固まっていた。

人の体が、こんなにも無防備に見えるものかと、私は思った。

急に、見てはいけないものを見ている気がして、私は後ずさった。

止まった世界は、美しくて、そして、ひどく寂しかった。

ここには、私のほかに、生きて動くものが、何ひとついない。

その孤独が、ふいに、たまらなく怖くなった。

声をあげたくても、聞いてくれる耳が、どこにもない。

助けを求めても、誰も、動いてはくれない。

私は、世界に取り残されたのだと、幼いながらに悟った。

そのとき、ふたりが現れたのだ。

皮肉にも、その人影を見て、私はほんの少し、ほっとしたのだった。

たとえ、それが、この世のものでなかったとしても。

動いて、言葉を交わせる相手が、現れてくれたのだから。

黒い瞳の奥で、小さな光が、いくつも瞬いていた。

まるで、夜空を、そのまま閉じ込めたようだった。

見つめていると、吸い込まれそうで、私は目をそらした。

男の肌は、夕日を浴びているのに、青白いままだった。

その声だけが、不思議と、温かかった。

男のような、冷たさがなかった。

立ち上がりかけた女が、最後に、小声でつけ加えた。

「その飴はね、わたしたちの、世界の味なの」

「だから、誰にも、見つからないように」

男が、女の肩を、ぐいと引いた。

「行くぞ。これ以上、時間を止めておけない」

ふたりの輪郭が、ゆらり、と陽炎のように揺れた。

次の瞬間には、もう、消えていた。

口の中には、あの不思議な甘さだけが、長く残った。

舌の上で、その味が、ゆっくりと溶けていった。

溶けきってしまうのが、惜しくてたまらなかった。

私は、包んでいた油紙を、そっと開き直した。

そこには、ごく小さな、結晶のかけらが残っていた。

光に透かすと、虹色に、きらりと光った。

私は、それを、机の引き出しの奥に、大切にしまった。

けれど、一週間ほど経って、見に行くと。

そのかけらは、跡形もなく、消えてしまっていた。

まるで、最初から、何もなかったかのように。

十五年経った今も、その答えは、出ていない。

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