夏の約束

夏が近づくと、ふと思い出すことがある。
中学生だったある夏の日、私は不思議な体験をした。
当時、世間の同世代が夏休みを謳歌する中、私はサッカー部の一員として遠征続きの毎日を送っていた。
決して上手とは言えない自分の技量に、熱意もやる気も次第に薄れていた頃のことだった。
その日、私はC県の中心部から2時間ほど離れた中学校に遠征に向かった。
空は快晴で、まぶしいほどの陽射しが降り注いでいた。
しかし、私の心はどこか晴れず、長時間の移動にうんざりしていた。
訪れたその町は、緑と田園が広がる、どこか懐かしさを覚える田舎町だった。
照りつける太陽と、力強く鳴くセミの声。
その風景に、少しだけ癒された気がした。
※
試合が終わった後、帰路につこうとしたとき、私は顧問の先生に呼び止められた。
練習態度と試合の内容について、いつものように叱責される。
他のメンバーには何も言わず、私だけが呼び出されるのもまた、いつものことだった。
しばらく話を聞き流し、ようやく解放されてグラウンドを後にすると、すでに皆は帰ってしまっていた。
一人取り残され、荷物を担いで見知らぬ町を歩き出す。
気づけば、来た道とはまったく違う方向に進んでいた。
どうやら道に迷ってしまったらしい。
人影もなく、訪ねる家も見当たらない。
少し引き返したところで、赤い鳥居が目に入った。
小さな傾斜に続く階段の上に、その鳥居は静かに佇んでいた。
私は何かに引かれるようにして、その鳥居をくぐった。
※
境内は手入れが行き届いておらず、古びた本堂がぽつんと建っているだけだった。
その本堂の前に、一人の少女が立っていた。
セーラー服に、お下げ髪。
その時代にはやや不釣り合いな格好だったが、不思議と風景に溶け込んでいた。
私は彼女に声をかけた。
「すみません、道に迷ってしまったのですが、駅はどちらでしょうか」
少女は驚いたように振り返り、静かに答えた。
「駅の場所は…忘れました」
「この町の方ではないんですか?」
「みんなは知っていると思います。でも、私はここから出られないのです」
彼女の言葉の意味が、私には理解できなかった。
「どこから出られないんですか?」
彼女は足元を指差し、「ここ」と言った。
私が立ち去ろうとすると、彼女は慌てて言った。
「待ってください。少しお時間をいただけませんか」
その声に、私は不思議と惹かれた。
木陰の下に腰を下ろし、自己紹介を交わす。
彼女の名は由美。
そして、彼女は静かに語り始めた。
※
「私は、この神社で死にました」
予想もしない言葉に、私は言葉を失った。
けれど、目の前の彼女には生きているような温かさがあり、不気味さはなかった。
彼女は言った。
「私はある日、Aという年上の男に呼び出され、この神社で告白されました。
でも、私は将来、医学の道に進みたくて…その誘いを断りました。
逃げようとしたとき、背中を押されたんです。
気づいたときには…ここに、幽霊として囚われていました」
事故として処理されたというが、彼女ははっきりと「殺された」と言った。
「私を殺したあの人が、今も普通に生きているのが許せません」
そして、彼女は静かに頼んできた。
「私に、あなたの身体を貸してくれませんか?」
私は驚いた。
が、彼女の話を聞くうちに、何か応えてあげたくなっていた。
「借りるって…俺は大丈夫なの?」
「わかりません。でも、私を見えたのはあなたが初めてです」
私はしばらく考えてから、頷いた。
「わかった。でも、もし何かあったら、お祓いしてもらうからな」
彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。本当に…ありがとう」
※
風が強く吹き抜け、彼女が私に飛び込んでくる感覚がした。
体の中に、彼女が入ったのがわかった。
(…やりました。入れましたよ!)
彼女の声が、頭の中に響く。
「行こう。ここから出てみよう」
階段を降り、赤い鳥居を目の前にしたとき、体に電流のような感覚が走った。
前に進めない。
けれど、彼女の強い意志がそれを打ち破った。
気がつけば、私は鳥居の外に立っていた。
※
その後、彼女に導かれるまま、Aの家を訪ねた。
今も同じ名字が表札にあり、呼び出された男が現れた。
由美の名を出すと、男の顔色が変わり、動揺し始めた。
「死んだはずだ…あいつは…」
「そう、あんたが殺したんだろ? 法は許しても、彼女は許してない」
由美は、私の中で静かに言った。
(これで…よかったのです)
※
帰り道、由美は微笑みながら言った。
(私、成仏できそうです。あなたのおかげです)
「そっか…よかったね」
寂しさが胸を締めつける。
「もし、生きていたらさ、一緒にいろんな場所に行ってみたかったな」
(私もです。もし…また会えるなら、必ず会いに行きます)
「うん、約束だ」
赤く染まる夕暮れ。
セミの声が遠くで鳴いていた。
そして彼女は、静かに私の中から離れていった。
※
あれから何年もの夏が過ぎた。
昨年、私は娘を授かった。
白い肌に、大きな瞳。
その子の名は、由生美(ゆみ)。
夏に生まれたその子の寝顔を見るたびに、私はあの日出会った、神社の少女を思い出す。