台は二つ出しておいてください

台は二つ出しておいてください

いつも通りのキャンプでした。

会社の同期四人で、去年の十月に、岐阜の山へ行っただけの話です。

肉を焼いて、缶ビールを飲んで、川の水で足を冷やしました。

変わったことは、何一つありませんでした。

ただ、あの河原では、区画ごとに焚き火台が二つ置いてあったのです。

林道の終点にある河原

場所は、飛騨の、宮川の支流沿いです。

集落を抜けて、舗装がなくなってから、さらに二十分ほど登ったところにあります。

河原を整地しただけの、素朴なキャンプ場でした。

予約は電話で、管理は近くの集落の人が交代でやっているそうです。

受付は、プレハブの小屋でした。

出てきたのは、七十代くらいの男の人でした。

ノートに名前を書いて、料金を払いました。

そのとき、こう言われました。

「台は、二つとも出しといてくださいね」

私は意味が分からず、聞き返しました。

「二つ、いりますか」

「いりません」

「じゃあ、一つでも」

「出しといてください」

それだけでした。

理由は言いませんでした。

同期の田上が「置き場所がないからでしょ」と言って、それで終わりました。

※

管理棟の軒先でもらったもの

一泊目の夜のことを、先に書いておきます。

私は煙草を吸うので、テントから離れて管理棟のほうへ歩きました。

軒先に、椅子が一つ出ていました。

管理人が座って、川のほうを見ていました。

会釈をして、ポケットを探りました。

ライターが見つかりませんでした。

「火、ないですか」

管理人はそう言って、自分の胸ポケットから一つ出しました。

使い捨ての、黄色いライターでした。

側面に印刷された文字は、ほとんど消えていました。

「これ、あげるわ」

「いいんですか」

「うちのやない」

意味が分からなかったので、私は笑ってごまかしました。

管理人も笑いました。

それから、川のほうを見たまま言いました。

「台、二つ出とるかね」

「出てます」

「ならええ」

そのときは、まだ一つも動かしていませんでした。

台を車の脇へ移したのは、翌日の昼です。

※

邪魔だったので、一つ片づけた

区画に着くと、たしかに焚き火台が二つ、並べて置いてありました。

鉄板を折り曲げただけの、簡単なものです。

大きさは同じでした。

二つとも、使い込まれて黒くなっていました。

二日目の昼は、よく晴れました。

川の水は、足首まで入れると三十秒で痛くなる冷たさでした。

峰岸が石を積み始めて、こずえがそれを写真に撮っていました。

田上は昼から缶を三本空けて、椅子で寝ていました。

本当に、何もない一日でした。

その一日のうちで、私が普段と違うことをしたのは、台を一つ動かしたことだけです。

私たちは一つで足りました。

クーラーボックスと薪の袋を置く場所がほしかったので、もう一つは車の脇へ運びました。

その上に、ランタンのケースと濡れたタオルを載せました。

夕方、水を汲みに行きながら、他の区画を横目で見ました。

七組ほど入っていたと思います。

どの区画も、焚き火台を二つ出していました。

そして、どの区画も、片方しか使っていませんでした。

空のほうは、火の、向かい側に置いてありました。

灰も入っていません。

ただ、置いてあるだけです。

水を汲んだ帰りに、隣の区画の人に聞いてみました。

小学生の子ども二人を連れた、四十代くらいの男の人でした。

「これ、二つ要りますか」

男の人は、空のほうの台を見て、少し困った顔をしました。

「いや、うちも一つで足りてます」

「でも、置いといてくれって言われて」

「理由、聞きました?」

「聞いてないです」

それから、こう付け足しました。

「毎年来てるんですけど、聞いたことないですね」

毎年来ていて、一度も聞いていない。

そのことのほうが、いま思うと引っかかります。

私は、この地方のキャンプ場の作法か何かだろうと思いました。

宿や集落に、外の人には理由の分からない決まりがあるという話は、たまに耳にします。

潮首の宿を出るときの作法のような話を、あとになって思い出しました。

そのときは、思い出しもしませんでした。

※

火の番

十時を過ぎて、三人がテントに入りました。

峰岸のいびきが、すぐに聞こえてきました。

私は火の番でした。

じゃんけんで負けたわけではありません。

単に、私が最後まで起きていただけです。

薪を二本足して、椅子に座り直しました。

川の音が、思ったより大きく聞こえました。

月は出ていませんでした。

火の届く範囲の外は、本当に何も見えません。

薪の袋には、まだ六本残っていました。

朝まで持たせるには足りない量です。

私はスマートフォンで時刻を確かめました。

十時四十分でした。

電波は、一本も立っていませんでした。

川の音は、昼よりも大きく聞こえます。

水量が増えたわけではなく、ほかの音がなくなるからだと思います。

対岸は、山の斜面がそのまま迫っています。

火の明かりは、川の中ほどまでしか届きませんでした。

その先が、線を引いたように暗いのです。

私は、その線をぼんやり見ていました。

そろそろ火を落として寝ようか、と考えていました。

そのときです。

「何しているんだい」

声が、火の向こう側からしました。

※

火を挟んで、座っていたもの

顔を上げると、向こう側に誰かが座っていました。

座っている、という形には見えました。

けれど輪郭がはっきりしません。

大きな黒い塊が、人の形をとっているように見えました。

眼鏡が曇ったときのような見え方です。

不思議なことに、そのとき私は、怖いと思いませんでした。

誰だろう、とも思いませんでした。

頭が、うまく働かなかったのです。

寝ぼけて人と喋っているときの感じに、いちばん近いと思います。

「火の番をしてる」

私は普通に答えました。

「その火が消えたら、あんたどうする」

「消えないよ」

「こんな山の中じゃ、一寸先も見えない真っ暗闇だろうな」

「まあ、そうだろうね」

「闇は深いぞ」

「中に何が潜んでいるか、分かったもんじゃない」

「暗いのは嫌だよ」

「だから火の番をしてる」

いま書き出すと、ずいぶん噛み合わない会話です。

当時の私は、それを少しも不思議に思っていませんでした。

※

ライターをくれ

相手は、しきりに火を消すよう勧めてきました。

「火の番なんかやめちまえよ」

「眠いんだろ。寝ちまえよ」

「そうしたいけど、そういうわけにもいかない」

「俺が消してやろうか」

「遠慮しとくよ」

「消すぞ」

「でも、すぐまた点けるよ」

「暗いのは嫌だから」

「一度消えた火は、すぐには点かないぞ」

その言い方だけ、少し違いました。

脅しているのではなく、事実を言っているような口調でした。

「ライターがあるよ」

「火種があれば、すぐ点く」

そこで、相手の様子が変わりました。

「ライターか」

「それがあれば、すぐに火が点くのか」

「点くと思うよ」

「簡単に山火事になるくらい」

そう答えたとたん、相手はそれを欲しがり始めました。

「火が消えないなら、ライターはもう要らないだろ」

「俺にくれよ」

「これは大事なものだから、駄目だよ」

「俺が代わりに火を見ていてやる」

「だから、くれよ」

私は、ポケットの中を確かめました。

そのライターは、自分のものではありませんでした。

前の晩、管理棟の軒先で煙草を吸っていたとき、あの管理人からもらったものです。

使い捨てのライターで、側面に、消えかけた文字が入っていました。

「僕のじゃないから、やっぱり駄目だよ」

私はそう答えました。

いま思えば、これが正しい答えでした。

そのときは、ただ本当のことを言っただけです。

※

帰るとするか

同じような押し問答が、何度も続きました。

五回か、六回か、はっきり覚えていません。

やがて、向こう側の塊が、ゆらりと立ち上がる気配がしました。

「火が消えないんじゃ、しょうがないな」

「帰るとするか」

「また遊ぼう」

その言葉を最後に、何かが川上の闇へ入っていきました。

足音はしませんでした。

「ばいばい」

私は、小さくなる気配に向かって、そう言いました。

次の瞬間、肩を強く揺さぶられました。

※

テントの中から見ていた

揺すっていたのは、先に寝たはずの田上でした。

目が合うなり、詰め寄られました。

「お前、今、何と喋ってた」

「何とって……」

そこで、ようやく頭がはっきりしました。

自分が三十分近く、誰かと会話していたことに、そこで初めて気づいたのです。

テントから、あとの二人も顔を出していました。

こずえは、口を手で押さえていました。

田上の話は、こうでした。

外で話し声がして、目が覚めた。

夜中に迷惑だと思って、テントの中の寝顔を数えた。

三人いた。

外に出ているのは一人しかいないはずでした。

それで、入口の隙間から覗いた。

焚き火を挟んで、影が二つ座っていた。

片方は私でした。

もう片方が、何なのか分からなかったそうです。

「人の形の、黒い塊にしか見えんかった」

会話は、ずっと火のことで揉めていた。

絶対に消すなよ、と、田上は声に出せないまま願っていたそうです。

やがて塊は立ち上がり、川上へ消えた。

そのとき、テントの中で三人が同時に息を吐いたといいます。

峰岸は、音のほうを覚えていました。

いびきをかいていたはずなのに、途中で目が覚めたそうです。

会話は聞こえていた。

けれど、片方の声だけが妙だったと言います。

「お前の声は、川に反射してた」

「もう片方は、してなかった」

河原では、声が対岸の斜面に当たって、わずかに遅れて返ってきます。

昼のあいだ、私たちはそれで遊んでいました。

峰岸は、それを覚えていたのです。

「近くで喋ってるのに、遠くで喋ってる感じやった」

私は、そう言われて背中が冷たくなりました。

覚えている限り、相手の声は、はっきりと聞こえていたのです。

耳ではなく、もっと内側で聞いていたのかもしれません。

こずえは、会話の中身を一言も聞き取れなかったと言いました。

同じテントで、田上には聞こえていたのにです。

※

その晩、誰も川上を見に行きませんでした。

行こうと言い出す人もいませんでした。

四人でランタンを二つ点けて、椅子を火のまわりに寄せて座りました。

こずえが、途中で小さな声で言いました。

「私、二回起きてる」

一回目は、話し声で。

二回目は、その少しあとだそうです。

「テントの布に、外から手をついたみたいな影が出て」

「でも、それ、こっち側じゃなくて」

言いかけて、こずえはやめました。

私も、聞き直しませんでした。

朝になってから、テントのまわりを一周しました。

足跡はありませんでした。

河原の砂利なので、もともと足跡は残りません。

そのことに、少しほっとしました。

※

数えられていたのは、こちらだった

私たちは、その晩、火を落としませんでした。

二人ずつ交代で番をして、朝まで薪を足し続けました。

下山するまでの二泊、一度も火を絶やしませんでした。

塊は、二度と現れませんでした。

撤収の朝、車の脇へ運んでおいた、もう一つの焚き火台を戻しました。

ランタンのケースと、乾いたタオルをどけました。

台の中を見て、私は手が止まりました。

灰が、一握りだけ入っていました。

手袋をして、指で少しだけ触りました。

冷たい灰でした。

木の燃えたあとの匂いは、しませんでした。

写真は撮りませんでした。

撮ろうと思って、やめました。

私はその灰を、河原の隅の灰捨て場に空けました。

台は、元の位置に戻しました。

火の、向かい側です。

私たちは、その台では一度も火を焚いていません。

雨も降っていません。

三日間、ケースとタオルが載っていた台です。

もう一つの台は、余っていたのではなく、置いてあったのでした。

七組の区画が、どこも同じように、火の向かい側に空の台を出していた理由です。

もう一つ、あとになって気づいたことがあります。

相手が座っていた位置です。

火を挟んで、ちょうど正面でした。

私が椅子を置いていたのは、区画の道路側です。

その反対側というのは、前の日まで、もう一つの台があった場所でした。

四十センチほどの高さの、鉄の台です。

それがあった位置に、あの塊は腰を下ろしていました。

高さも、ちょうどそのくらいに見えました。

私は最初、地面に直接座っているのだと思っていました。

そうではなかったのだと思います。

座るつもりで来て、座るものがなかった。

だから、あんなに長く、粘っていたのでしょう。

火の番をやめろと言い、消してやろうかと言い、最後にはライターをくれと言いました。

順番が、そうなっています。

あの塊は、私に「火を消せ」と言い、消えなければライターをくれと言いました。

火を消させたかったのではありません。

自分の火が、ほしかったのです。

座る場所さえあれば、こちらの火まで来る必要はなかったのでしょう。

あの晩、私たちの区画には、台が一つしかありませんでした。

※

いまも、二つ出す

帰ってから、あの集落の名前で調べました。

何も出てきませんでした。

市の図書館で、その地域の郷土誌を見たこともあります。

山仕事の道具の話と、水害の記録がほとんどでした。

一行だけ、火に関する短い記述がありました。

それが今回のことと関係あるのかどうか、私には分かりません。

ですから、ここには書きません。

調べれば分かることを調べて、それで説明がついたことにするのが、なんとなく嫌だったのです。

管理人には、何も聞きませんでした。

受付のノートに名前を書いて、いつも通り、ありがとうございましたと言って帰りました。

あの人は、私の顔を一度も見ませんでした。

ライターは、返しませんでした。

いまも仕事鞄の内ポケットに入っています。

火は、もう点きません。

自分のものではないので、捨てられずにいます。

集落の決まりごとには、たいてい理由が伏せてあります。

三つ数えてから答える集落の話を読んだとき、私はあの受付の口調を思い出しました。

言えないのではなく、言わないのだと思います。

去年から、家の庭でバーベキューをするときも、使わない台をもう一つ出すようになりました。

火の、向かい側に置きます。

妻には笑われています。

先月、片づけるときに中を覗きました。

何も入っていませんでした。

それを確かめてから、私はいつも家に入ります。

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