L-108の本

本

大学二年の夏、図書館でアルバイトをしていた。

市立の図書館で、夜間の閉館業務が主な仕事だった。閉館時間の十分前に館内を巡回し、残っている利用者に声をかけ、棚の乱れを直して、返却された本を所定の場所に戻す。静かで、俺には向いていた。バイトの同僚は四十代のパートさんが二人と、司書資格を持つ若い館長。基本的に俺は雑用担当で、棚の整理と鍵の施錠が主な役割だった。閉館後の図書館は、本当に静かだった。蛍光灯の点いた通路と、暗い棚の向こうが交互に続いて、少し奥の方は昼間より暗かった。

異変に気づいたのは、バイトを始めて三週間ほど経った頃だった。

朝のシフトで出勤すると、L棚の前に本が一冊、床に落ちていた。表紙を上にして、まるで誰かが静かに置いたように。「或る夜の記録」というタイトルの古い文庫本だった。著者名は読み取れないほど掠れていた。棚番号は L-108 と書いてある。俺はそれを拾い上げて棚に戻した。

翌朝も、同じ本が同じ場所に落ちていた。

偶然だと思った。棚の位置がゆるいのか、何かの振動で落ちるのだろうと。でも三日目も、四日目も、L-108 の「或る夜の記録」だけが毎朝床に落ちていた。他の本は一冊も乱れていないのに。俺が棚に戻すとき、わざとしっかり奥まで差し込んでみた。指で押さえて、ぐっと入れた。それでも翌朝には床に落ちていた。開いたまま。毎回同じページ。

五日目の朝、俺はその本を拾い上げて中身を確認した。

ページが開いた状態で落ちていた。百二十四ページ。そのページには一段落だけが書かれていた。

「明日の午後六時、誰も来ない。その椅子に座っていた女は、もう来ない。」

小説の一節だと思った。でも文脈が読み取れない。前後のページを読んでも、その文章だけが浮いていた。内容は昭和っぽい雰囲気の短編小説らしく、女性が図書館の閲覧席に通う話が描かれていた。でもあの一文だけが、まるで地の文ではなく誰かが直接語りかけているような口調だった。

同僚のパートさんに聞いたが、「そんな本、気にしたことなかったわ」と言われた。館長もしばらく考えてから「古い蔵書ですね、棚が傷んでいるのかもしれません」と言って終わりだった。

それでも毎朝、L-108 は落ちていた。

俺は貸出履歴を確認することにした。システムに本のバーコードを読み取らせると、最後の貸出日が出てきた。二年と四ヶ月前。氏名は「前田照子」。

それだけだった。返却日は、貸出の翌日。

興味というより、もう少し確かめたくなって、俺は利用者データベースを開いた。前田照子という名前を検索すると、一件だけヒットした。生年月日、住所、電話番号。最終利用日が、貸出履歴と同じ日付だった。

その隣に、小さな字で「退会処理済み」と書いてあった。

他のスタッフに確認すると、退会処理には二種類あると教えてもらった。本人申請か、死亡届け出によるものか、どちらかだと。それ以上のことは俺には調べられなかった。でもその二択は、俺の中でどちらかに決まった気がした。前田照子さんは、この図書館に何かを残したまま逝ったんじゃないか、と。

次の出勤日の朝、俺は少し早めに来た。

L-108 はやはり床に落ちていた。百二十四ページが開いたまま。俺はその本を手に取って、もう一度あの一節を読んだ。「明日の午後六時、誰も来ない。その椅子に座っていた女は、もう来ない。」その文章は、昨日より少し強く俺の中に入ってきた。

その日の午後六時ちょうど、俺は L 棚の前にある閲覧スペースの椅子を見た。四人掛けのテーブルの、窓に最も近い席。誰も座っていなかった。外の光がちょうど消えて、館内の蛍光灯だけが白く照らしていた。俺は三十分ほど、その椅子のそばで作業しながら待った。何も起きなかった。誰も来なかった。ただ、その席だけが少しだけ冷えているような気がした。気のせいかもしれない。帰り際、俺は椅子に向かって「お疲れ様でした」と、小声で言った。自分でも馬鹿みたいだと思いながら。

翌朝出勤すると、L-108 は棚に収まっていた。きれいに、他の本と同じように、背表紙をこちらに向けて。

俺は念のためにその本を取り出してみた。百二十四ページを開いた。あの一節はそこにある。だが、その下に、昨日はなかった一行が書かれていた。

「ありがとう」

鉛筆で、細く薄く。まるで、ずっと前からそこにあったような書き方で。

俺はその本を棚に戻して、もう一度確認しなかった。ページを開き直すことも、あの一行を誰かに見せることも、しなかった。確認しなくていいと思ったから。

それ以来、L-108 は一度も落ちていない。夏が終わり、バイトを辞めるとき、俺はL棚をもう一度だけ見た。「或る夜の記録」は、ちゃんとそこにあった。背表紙の掠れた文字が、静かに並んでいた。

似たような不思議な体験を読みたい方は、鷹ノ巣山の霧ミチもぜひ。

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