卓袱台の水の輪はいつも同じ

居間のブラウン管テレビ(フリー写真)

うちの居間には、脚の低い卓袱台がありました。

その卓袱台の水の輪のことを、私は四十を過ぎてから、ようやく人に話せるようになりました。

愛媛の今治で、造船所の社宅のような古い借家に住んでいたころの話です。

平屋で、部屋が三つ。縁側の網戸が、いつも少し歪んでいました。

風が強い日には、その歪みのところが、かたかたと鳴りました。

坂を下りれば、造船所のクレーンが並んで見えます。

夏の昼間は、その鉄の音と、蝉の声しか聞こえませんでした。

両親は共働きで、私は一人で留守番をすることがよくありました。

とくに小学校の夏休みは、日中はだいたい一人でした。

母は駅前の縫製工場に、父は造船所の下請けに勤めていました。

母が家を出るのは、朝の六時半です。

出る前に必ず、麦茶を沸かして冷やしておいてくれました。

ガラスのポットに入れて、冷蔵庫のいちばん下の段です。

「お昼は、そうめん茹でて食べ。火、気ぃつけてよ」

「わかった」

「戸締まりは」

「する」

毎朝、同じやりとりをしていました。

父が出るのは、母より三十分あとです。

二人が出てしまうと、家は急に広くなります。

扇風機を首振りにして、私はテレビの前に寝転がっていました。

宿題は、八月の最後に泣きながらやる型の子どもでした。

小学四年生の夏のことです。

昼過ぎにトイレへ行って、居間へ戻りました。

知らないお爺さんが、卓袱台の前に座っていました。

浴衣でも作業着でもない、灰色の上着を着ていました。

襟のところが、少しよれていました。

髪は白くて、短く刈ってあります。

顔立ちは、いま思い出そうとしても、うまく像を結びません。

痩せていたか太っていたかも、はっきりしないのです。

覚えているのは、手だけです。

指の節が太くて、爪が平たい、働いてきた人の手でした。

うちのグラスで、勝手に麦茶を飲んでいました。

「誰?」

聞いても、答えません。

こちらを見もしませんでした。

テレビの高校野球を、じっと見ていました。

怖いというより、間の悪い感じでした。

知らない大人が家にいる、という事実より、こちらが気まずいのです。

何を言えばいいのか分かりませんでした。

泥棒なら、麦茶は飲まないだろうとも思いました。

それに、玄関の鍵はかかっていました。

母に言われたとおり、私は必ず戸締まりをします。

縁側の網戸も、歪んだところに新聞紙を挟んで閉めてありました。

新聞紙は、そのままの位置にありました。

私は自分の部屋へ行って、漫画を読みました。

しばらくして戻ると、もういませんでした。

卓袱台の上には、グラスもありませんでした。

あったのは、水の輪がひとつだけです。

勝手に飲まれた麦茶

それから、何日かに一回のペースで来ました。

トイレに立ったり、テレビに夢中になっていたりすると、いつのまにか座っています。

そして、勝手に麦茶を飲んでいます。

慣れてくると、まったく怖くありませんでした。

なんとなく、いるのが当たり前になりました。

一度、話しかけたことがあります。

「そこ、お母さんの席やけど」

爺さんは、こちらを見ませんでした。

けれど、そのときテレビの音量が、ひとつ下がりました。

リモコンは、私の膝の上にありました。

触っていません。

私は、それを見なかったことにしました。

見なかったことにできる程度の変事でした。

母には言いませんでした。

言えば、心配して仕事を休むかもしれない。

休めば、その分だけ給料が減る。

そのくらいのことは、四年生でも分かっていました。

母は、家計簿をつけるとき、いつも電卓を二度叩きました。

一度目で合わないと、もう一度、最初から叩き直すのです。

その音を、私は夜中に何度も聞いていました。

二度目の計算が終わると、母は小さく息をつきます。

その息の長さで、その月がどうだったかが、なんとなく分かりました。

八月の息は、長いほうでした。

ただ、麦茶のことだけは、少し気になっていました。

爺さんは毎回、ずいぶんな量を飲みます。

それなのに、夕方にポットを見ると、朝と同じ高さなのです。

ガラスのポットには、目盛りのような段が三つついていました。

朝、いちばん上の段まで入っています。

爺さんが来た日の夕方も、いちばん上の段のままでした。

私が飲んだぶんだけが、減っていました。

最初は、自分の記憶が曖昧なのだと思いました。

それで、翌週からは、朝に油性ペンで目印をつけました。

ポットの外側に、その日の水面のところへ小さな線を引くのです。

爺さんが来た日も、夕方の水面は、線のところにありました。

私が飲んだぶん、線より下がっているだけでした。

グラスも、探しました。

洗い桶にはありません。

戸棚を開けると、ちゃんと伏せて戻してありました。

うちのグラスは、母が口のほうを下にして伏せます。

私は面倒なので、立てたまま入れます。

戸棚のグラスは、全部きれいに伏せてありました。

私が朝に立てて入れたはずのものまで、伏せてありました。

母は、夕方まで帰ってきません。

伏せたのは、母ではないということです。

卓袱台の水の輪の位置

卓袱台の水の輪は、毎回残っていました。

それも、いつも同じ場所です。

卓袱台は四角で、四辺に人が座れます。

テレビ側が私、台所側が母、窓側が父。

残る一辺は、壁に寄せてあって、誰も座りません。

輪ができるのは、台所側でした。

母がごはんのときに座る側です。

最初のうち、私はそれを偶然だと思っていました。

けれど、十回を超えても、一度もずれませんでした。

定規で測ったように、同じ位置です。

あるとき、輪の縁を鉛筆でなぞってみました。

卓袱台の塗りに、うっすら線が残りました。

次の輪は、その線の内側にぴたりと収まりました。

直径まで同じです。

同じグラスを、同じ場所に、同じだけ置いている。

人がやると、少しはずれます。

何度やっても、卓袱台の水の輪は同じ直径で、同じ場所でした。

卓袱台の天板には、もともと小さな焦げ跡がありました。

父が煙草を落としてつけたものです。

水の輪は、その焦げ跡のすぐ左にできます。

毎回、左です。

私は、爺さんが座る位置を確かめようとしました。

けれど、爺さんの姿は、いつも台所側ではありませんでした。

壁に寄せた、誰も座らない辺に座っているのです。

座っている場所と、輪の場所が、合いません。

手を伸ばせば届く距離ではありますが、そんな飲み方はしません。

自分の前に置かずに、向かいの席に置いて飲む人はいません。

それに、飲んでいるところを、私は一度も見ていません。

いつも、グラスを持っているか、もう置いてあるかのどちらかでした。

口をつける瞬間だけが、記憶から抜けています。

抜けているのは、私の記憶のほうかもしれません。

子どものころの記憶に、そういう穴があるのは珍しくないそうです。

ただ、穴があくのは、いつも同じ一点でした。

ほかの場面は、三十年以上たっても、やけにはっきりしています。

畳の目の向き。扇風機の首が右へ回りきるときの、かちり、という音。

テレビの下に溜まっていた埃の量まで、思い出せます。

それなのに、爺さんの顔と、飲む瞬間だけが抜けている。

抜けているというより、最初から入っていないような感じです。

ずっとあとになって、私はその意味を考えました。

爺さんは、自分の飲み物として置いていたのではない。

誰かの席に、置いていたのです。

八月最後の水曜日

八月の終わりに近い、水曜日のことでした。

その日も、爺さんは来ていました。

麦茶を飲んで、いつものように高校野球を見ていました。

決勝の日だったと思います。

急に、爺さんが口をききました。

「お前、何か願い事あるか」

声は、思ったより高く、かすれていました。

私は、少しも驚きませんでした。

この人はそういう人だ、と思っていたからです。

何を言おうか、しばらく考えました。

自転車のこと。ゲームのこと。

どれも、口に出す前に消えました。

その夏、母は二度、夜中に起きて台所で立っていました。

私は、トイレに行く途中で見ました。

電気もつけずに、流しの前で、水を飲んでいました。

声をかけられませんでした。

かけたら、見たことになってしまう気がしたのです。

翌朝、母はいつもどおりに麦茶を作って出ていきました。

少なくとも、私はそう思っていました。

口をついて出たのは、別のことでした。

「お母さんに、家に居て欲しい」

爺さんは、少しのあいだ黙っていました。

それから、こう言いました。

「そうか」

それから、卓袱台の台所側に、グラスを置き直しました。

置いてから、こちらを一度だけ見ました。

目が合ったのは、その一度きりです。

笑ってはいませんでした。

困っている顔にも、見えませんでした。

仕事の手順を確かめている人の顔でした。

いま思えば、あれは「これでいいか」と聞いている顔でした。

私の願い事に対してではありません。

置いたグラスの位置に対してです。

それだけです。

目を離したつもりはありませんでした。

けれど、次にテレビのほうへ視線を戻して、また卓袱台を見たとき、もういませんでした。

その日の夕方、父がいつもより早く帰ってきました。

玄関で靴を脱ぎながら、大きな声で言いました。

「父さん、偉なったぞ」

当時の私には、意味がよく分かりませんでした。

父は、その日、異例の昇進の内示を受けていました。

下請けから元請けの現場に引き抜かれる話で、給料も跳ね上がったそうです。

秋になって、母の妊娠が分かりました。

父の収入が増えたこともあって、母は工場を辞めました。

妹が生まれたのは、翌年の春です。

母は、それから家にいるようになりました。

あの夏のことを、母に聞いたことがあります。

「知らんおじいさんが来とったんやけど」

「どこの」

「わからん。麦茶飲んどった」

母は笑って、それ以上は取り合いませんでした。

「そんなん、夢やろ」

けれど、そのとき母は、卓袱台の台所側を一度見ました。

見てから、洗い物に戻りました。

その一瞥が何だったのかは、いまも聞けていません。

母は去年、今治の施設に入りました。

面会に行くと、私のことは分かります。

ただ、昔の話をすると、途中で窓のほうを見るようになりました。

卓袱台の話は、もうしていません。

私の願い事は、そのとおりに叶ったことになります。

母の家計簿の印

爺さんは、あの水曜日を最後に、来なくなりました。

九月に入っても、十月になっても、来ません。

卓袱台の水の輪ができることも、なくなりました。

私は少しさびしくて、何日かは、わざとトイレに長くこもりました。

戻っても、誰もいませんでした。

九月の最初の土曜日、私は卓袱台を裏返して見ました。

何かの印がついていないかと思ったのです。

裏は、木のまま何もありませんでした。

父に見つかって、怒られました。

「なんで卓袱台ひっくり返しとんのや」

「ちょっと見たかっただけ」

「見てどうするんや」

答えられませんでした。

父は、それ以上は何も言わずに、卓袱台を元に戻しました。

戻すとき、焦げ跡が右に来ました。

それまで、焦げ跡はずっと左にありました。

卓袱台の向きは、そこで変わってしまったのです。

水の輪が二度と現れなかったのは、それも理由かもしれません。

ぬらりひょんという妖怪を知ったのは、かなりあとです。

勝手に家に上がって、お茶を飲む。

そこだけは、よく似ています。

ただ、ぬらりひょんは願い事を叶える妖怪ではないようです。

何者だったのかは、いまも分かりません。

神様だった、と言い切る気にもなれません。

神様にしては、やっていることが細かすぎます。

麦茶を作り、グラスを伏せ、席を空ける。

それは、願いを叶える人の仕事ではありません。

留守を預かる人の仕事です。

うちの家系に、そういう役の人がいたのかどうかは分かりません。

祖父は私が生まれる前に、遠くで働いていて、家にはほとんどいなかったそうです。

母は、祖父の話をあまりしませんでした。

写真も、仏壇に一枚あるだけです。

一度だけ、その写真を見に行ったことがあります。

手だけを見ました。

指の節が太くて、爪が平たい手でした。

それ以上は、確かめていません。

確かめてしまうと、話が閉じてしまう気がしたからです。

押し入れの古い家計簿

数年前、母が入院したときに、実家の押し入れを片づけました。

古い家計簿が、年ごとに紐で括ってありました。

私は、あの夏の年のものを開いてみました。

母は几帳面な人で、日々の支出を一行ずつ書いていました。

右の余白に、小さな印をつける欄がありました。

洗濯、風呂の掃除、麦茶。

やった日には丸、やらなかった日には斜線です。

八月の麦茶の欄を、私は目で追いました。

斜線が、ぽつぽつと混じっていました。

六月と七月には、斜線はほとんどありません。

八月だけ、急に増えていました。

斜線のついた日の欄には、支出もほとんど書かれていませんでした。

買い物に寄る余裕がなかった日、ということでしょう。

そういう日に限って、朝の麦茶を作れなかったのだと思います。

数えると、九日ありました。

母が麦茶を作らずに家を出た日が、その夏、九日あったということです。

けれど私は、あの夏、冷蔵庫に麦茶がなかった日を、一日も覚えていません。

毎日、いちばん上の段まで入っていました。

斜線の日付を、私は紙に書き出しました。

そして、思い出せるかぎりの、爺さんが来た日と照らしました。

重なりました。九日とも、全部です。

爺さんは、麦茶を飲みに来ていたのではありません。

母が作れなかった日に、代わりに入れておきに来ていたのです。

グラスが伏せて戻してあったのも、それで説明がつきます。

母のやり方を、真似ていたのです。

目盛りの線より上に入れなかったのも、そのためでしょう。

多すぎれば、私が気づきます。

気づかせないことのほうを、優先していたことになります。

水の輪が母の席に残っていた理由も、同じでしょう。

爺さんが座っていたのは、あの夏、誰も座らなかった席でした。

自分の席は壁際に置いて、母の席にだけ、麦茶を置いて帰る。

そういうことを、九日のあいだ、黙ってやっていたことになります。

八月最後の水曜日の欄にも、斜線がありました。

その日、母は工場で倒れかけて、朝から具合が悪かったのだと、あとで聞きました。

願い事を聞かれたのは、その日です。

母が倒れかけた日に、あの人は私に願い事を聞きました。

順番が、逆ではないかと思います。

願いを聞いてから叶えるのではなく、もう手を打ってから聞きに来た。

「お前、何か願い事あるか」

あの聞き方は、いま思い返すと、確認でした。

合っているかどうかを、子どもに確かめていたのです。

家に来る何かの話は、河原の焚き火台に座っていたものの話や、祖母のお守り袋に入っていた米粒の話にも書き残しました。

私はいま、四十四になりました。

共働きで、小学生の子どもがいます。

夏休みは、どうしても留守番をさせる日があります。

朝、麦茶を作れないまま家を出る日もあります。

そういう日、私は帰ってから、まず食卓を見ます。

何も残っていないことを、毎回、確かめています。

確かめて、少しだけ、がっかりしている自分がいます。

あの人は、もう来ないのだと思います。

うちの子は、私と違って、麦茶を自分で作ります。

作れる子の家には、たぶん用がないのでしょう。

それでも私は、夏のあいだだけ、食卓の同じ側を空けておきます。

誰も座らない側です。

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