
十ほど年上の従兄から、一度だけ聞いた話だ。
林道で五人が転んで、起こしたバイクが六台あった。
その六台目のバイクを、従兄は今でも説明できないという。
話してくれたのは、従兄の結婚式の前の晩だった。
酒を飲みながら、前置きもなくその話を始めた。
従兄は普段、怪談の類を嫌う人だった。
テレビでその手の番組が始まると、黙って席を立つ。
その人が自分から話し始めたので、俺は途中で口を挟まなかった。
話し終えるまで、四十分ほどかかった。
グラスの氷は、最後まで溶けきらなかった。
話の途中で、従兄は一度だけ席を立った。
水を汲みに行っただけだと言った。
戻ってきたとき、手が濡れたままだった。
拭かずに、続きを話した。
昭和五十年代の、夏の終わりの出来事らしい。
当時はヘルメットの着用が義務ではなかった。
被る者のほうが少なかったそうだ。
従兄は二十歳で、大学の二年だった。
仲間は五人。
先頭を走る哲也は、いちばん腕が立った。
勇次は、三番目か四番目を走るのが定位置だった。
背が高くて、声だけがやけに高い男だったという。
あとの二人の名前を、従兄は言わなかった。
「その二人とは、もう連絡が取れないから」
理由は、それだけだった。
五人のうち三人は、同じ大学の同じサークルだった。
勇次だけが、哲也の高校の後輩だ。
その日が、勇次にとって三度目のツーリングだったという。
腕は、五人の中でいちばん危なかった。
行きは幹線を走って、有名な観光地を目指した。
道はよかったが、単調だった。
計画を立てた男が、帰りに文句を言われた。
それで急に予定が変わった。
「帰りは林道を抜けよう」
誰かがそう言って、全員が乗った。
地図で見ると、山をひとつ跨ぐだけの短い道だった。
道の名前は、地図に書かれていなかった。
実線でも点線でもない、灰色の細い線だった。
入口に標識はなく、代わりに木の杭が一本立っていた。
杭の頭は、白く塗り直された跡がある。
何が書いてあったのかは、もう読めなかった。
舗装はされているが、整備はされていない。
落ち葉と砂利が、路肩から内側へ寄っている。
一人で走るなら、歩くような速さで下る道だ。
それを、五人は列を作って下りた。
前の背中に遅れたくないだけの理由で、誰もが力量の限界で走っていた。
従兄は、それが正直とても怖かったと言っていた。
怖いと言い出せる空気ではなかった、とも。
その日の午後、山の上だけ雲が動かなかった。
下界は晴れていて、稜線のあたりに帯のような雲が一本かかっている。
「あそこだけ天気が違うな」
哲也がそう言って、笑った。
誰も笑い返さなかった。
出発は、午後二時を回っていた。
予定より一時間遅い。
遅れた理由は、勇次のバイクのチェーンが伸びていたからだ。
哲也が道端でそれを直した。
直しながら、哲也は一度だけ言った。
「お前、今日は後ろ走れよ」
勇次は、はいと答えて、結局三番目を走った。
荒れた舗装の下り
林道の入口で、一度だけ全員が止まった。
煙草を吸う者と、地図を広げる者に分かれた。
林の中は、外より五度は低かった。
濡れた土と、腐りかけた葉の匂いがした。
蝉が鳴いていない。
八月の終わりで、下では鳴いていたのに、そこだけ静かだった。
勇次が、それを最初に言った。
「静かすぎねえ、ここ」
「山ってのは、そういうもんだろ」
哲也はそう言って、煙草を踏み消した。
踏み消したあと、哲也は吸い殻を拾って、ポケットに入れた。
山では捨てない主義だと言っていた。
その仕草を、従兄はよく覚えている。
覚えているのに、その先の哲也の顔は思い出せないという。
従兄は、エンジンを切らずに列の最後で待っていた。
そのとき、坂の下のほうから音が近づいてきた。
単気筒の、間の抜けた排気音だった。
従兄は振り返らなかった。
道は一本で、後ろから来るなら追い越していくはずだ。
音は、途中で聞こえなくなった。
坂を上がりきる前に止まったのか、曲がったのか。
分岐はない。
そのときは、気にも留めなかった。
あとになって、従兄はその音のことを何度も考えたという。
あの排気音は、四台のどれとも違っていた。
仲間のバイクはすべて二気筒か四気筒で、単気筒はいなかった。
そのことに気づいたのは、二日後の夜だ。
気づいた瞬間、布団の中で体が動かなくなったと言っていた。
単気筒の音は、途切れ方も妙だった。
遠ざかって消えたのではない。
鳴っている途中で、切られたように止まった。
エンジンを止めた音は、聞こえなかった。
列が動き出して、従兄は最後尾についた。
前の四台のテールランプが、木漏れ日の中で点いたり消えたりする。
路面が斑になっているので、影と穴の区別がつかない。
何度も、腰が浮いた。
路肩は落ち葉で埋まって、どこまでが道か判らない。
左は斜面で、右は谷だった。
ガードレールは途中で途切れていた。
途切れたところに、古い花立てのようなものが一つ立っていた。
花は入っていなかった。
入っていた形跡だけがあった。
ガラスの筒の底に、茶色くなった茎が何本か残っていた。
新しいものではない。
それでも、倒れずに立っていた。
林道の風は、下から上へ吹いていた。
下りに入って十分ほど経った頃だ。
従兄は、自分の後ろにもう一つライトがあることに気づいた。
ミラーの中で、白い光が一定の距離を保っている。
五人で来た。
前に四台、自分が最後尾。
それ以上はいない。
従兄は、ミラーから目を離した。
離してから、少しだけ速度を落とした。
落としたのに、後ろの光は近づいてこなかった。
距離が、ずっと同じだった。
従兄は一度、もう少しだけ速度を落としてみた。
歩く速さに近いところまで落とした。
それでも光は近づかない。
追い越すそぶりもない。
林道でそんな走り方をする人間は、いない。
従兄は、それ以上ミラーを見るのをやめた。
見るのをやめてからも、光は視界の端に残っていた。
ヘルメットを被っていないので、視界が広い。
被っていれば気づかずに済んだかもしれない、と従兄は言った。
言ってから、それは違うなと自分で打ち消した。
前の四台のテールランプだけを見て、下った。
六台目のバイク
先頭が急ブレーキをかけたのは、その直後だ。
何の変哲もない直線だった。
障害物もなければ、カーブの入口でもない。
後ろの四台は車間を詰めていた。
避けるために、ほとんど全員がバランスを崩した。
金属とプラスチックが、舗装を擦っていく音が林道に響いた。
その音は、思っていたより長く続いたそうだ。
音が止まったあと、しばらく誰の声もしなかった。
葉の落ちる音が聞こえるくらいの、間があった。
従兄はバイクを止めて、サイドスタンドを立てた。
足を着いたとき、膝が笑っているのがわかったという。
空気の匂いが変わっていた。
土の匂いに、焦げたゴムの匂いが混ざっている。
それと、もう一つあった。
油の匂いだ。
古い、酸化した油の匂いだったという。
自分たちのバイクからは、その匂いはしない。
従兄だけが巻き込まれずに済んだ。
車間を空けていたからではない。
ブレーキをかける前に、右足がもう地面についていたのだという。
なぜそうしたのかは、自分でもわからないと言っていた。
右足を出したのは、前が止まるより前だ。
先頭のブレーキランプが点いたときには、もう爪先が砂利を擦っていた。
「体が先に知ってたんだろうな」
従兄はそう言って、それ以上は説明しなかった。
起き上がる音が、あちこちから聞こえた。
「いってえ」
「誰だ、止まったの」
「俺だよ」
先頭を走っていた哲也が、道の真ん中に座り込んでいた。
「なんで止まった」
「人が立ってた」
「どこに」
「道の真ん中」
誰も、そんなものは見ていなかった。
「立ってたって、人がか」
「そう」
「どんな」
哲也は、少し黙った。
「後ろ向きだった」
「後ろ向き」
「こっちに背中を向けて、道の真ん中に立ってた」
それきり、哲也はその話をしなかった。
帰りの電車でも、翌週の再訪でも、一言も言わなかった。
従兄は最後尾から全部を見ていたが、道には何もなかった。
擦り傷はあったが、大きな怪我人はいなかった。
全員が自分のバイクを起こしにかかった。
そのときだ。
従兄は、倒れているバイクの数を数えた。
一台、二台、三台。
四台、五台。
六台あった。
数えたのは、暗くなりかけていたからではない。
まだ日は高かった。
時計を見た者もいた。
三時四十分だったという。
林道に入ってから、まだ二十分しか経っていない。
一時間は走った感覚があったと、全員が後で言い合った。
影がはっきり出ていて、車体の数と影の数も合っていた。
六つの影が、路面に伸びていた。
従兄は、その影の一つが少し長いことに気づいた。
他の五つは、同じ角度で同じ方向に伸びている。
六台目の影だけが、わずかに向きが違った。
太陽は、一つしかない。
数え直した。
やはり六台だった。
五人で来た林道に、六台が倒れていた。
六台目のバイクは、列の最後尾から二十メートルほど下に横たわっていた。
つまり、従兄より後ろだ。
痛くないよという声
六台目は、古い型だった。
タンクの塗装が浮いて、下地が斑に見えている。
チェーンは錆びて、赤茶色に膨らんでいた。
前輪の空気は、指で押せばへこむほど抜けていた。
この状態で走れる車体ではない。
タイヤの溝には、乾いた泥が詰まっていた。
指で掻くと、粉になって落ちた。
何年も動いていない泥だった。
ミラーは片方だけ残っていて、そこに空が映っていた。
覗き込むと、従兄の顔も映った。
映ったことに、従兄は少し安心したという。
それが、倒れてまだ間もないような倒れ方をしていた。
砂利の上に、引きずった跡が残っていた。
その跡は、上の斜面のほうから続いていた。
線路の柵の外に立つものや、二分だけ先を指す時計のように、数が合わない話はいくつも聞いた。
それでも、増えた側を自分の手で触った話は、これひとつだ。
林道ではない。
斜面のほうからだ。
斜面は、木と笹に覆われていた。
バイクが通れる幅はない。
それでも跡は、笹を分けるように一本続いていた。
笹の折れ方は新しく、切り口がまだ青かった。
「おい、これ誰の」
哲也が近づいて、すぐに下がった。
「知らねえ」
それきり、誰も触らなかった。
そのあいだ、勇次だけがまだ道に座っていた。
向こうを向いたまま、両手で自分の体をあちこち叩いている。
忘れ物を探すような手つきだった。
「勇次、大丈夫か」
「大丈夫みたいだ」
返事はしっかりしていた。
「立てるか」
「立てる」
「じゃあ立てよ」
勇次は立ち上がらなかった。
そのまま、同じ場所を叩き続けている。
胸、腹、腰、また胸。
順番も、同じだった。
従兄は、勇次の背中を上から見ていた。
ジャンパーに、砂も土もついていない。
転んだ人間の背中ではなかった。
だが勇次は、確かに転倒の列の三番目にいた。
そのはずだった。
「痛くないよ」
勇次がそう言った。
誰も、痛いかどうかは聞いていない。
「痛くないよ」
もう一度、同じ調子で言った。
「どこも、痛くないよ」
声だけを聞いていると、機嫌のいい人間の声だった。
「勇次、こっち向けよ」
誰かが言った。
勇次は向かなかった。
向かないまま、また同じことを言う。
「痛くないよ」
三度目だった。
そのあたりから、誰も勇次の名前を呼ばなくなった。
呼びかけても返ってくるのが同じ言葉だからだ。
同じ言葉が返るというのは、会話ではない。
四人とも、それに気づいていた。
気づいて、口をつぐんだ。
砂利に残った轍
哲也が、勇次の正面に回り込んだ。
回り込んで、動かなくなった。
従兄たちは後ろからしか見えない。
哲也の肩が、少しずつ下がっていくのが見えた。
「どうした」
誰かが声をかけた。
哲也は答えなかった。
勇次が、そこで初めて顔を上げた。
「左が、見えないんだ」
そう言って、ゆっくりと首を回した。
振り向いた勇次の顔には、擦り傷ひとつなかった。
ヘルメットは被っていない。
髪も乱れていない。
転んだ跡が、どこにもなかった。
勇次は、転んでいなかったのだ。
「見えないんだよ、左が」
勇次は、自分の左目のあたりに手をやった。
そこには何もない。
まぶたも、目も、いつもの勇次の顔のままだった。
ただ、手だけが、何かを確かめるように動いていた。
「暗くなったり、赤くなったりする」
「勇次」
「なあ、なんで俺、ここにいるんだ」
それが、勇次の最後の言葉だった。
正確には、その日の林道での最後の言葉だ。
勇次はそのあと、集落まで自分でバイクを押して降りた。
道中、一言も喋らなかった。
バス停の前で座り込んで、水を飲んで、そこでやっと普通に戻ったという。
「腹減った」
それが、次に勇次が言ったことだった。
そのあと勇次は静かになって、ただ座っていた。
従兄は、六台目のバイクのほうへ戻った。
戻って、エンジンにそっと手を当てた。
理由はない。
あとから思えば、確かめたかったのだと思う。
錆びた一台のエンジンだけが、まだ熱を持っていた。
他の五台は、とっくに冷えていた。
全員が転んでから、もう十五分は経っていた。
従兄は、そこで初めて足が動かなくなったという。
下の集落まで押して降りたのは、五台だけだ。
押しているあいだ、誰も後ろを見なかった。
見ないでおこうと決めたわけでもない。
全員が、自然とそうしていた。
集落に出たのは、日が落ちる少し前だ。
最初に見えた民家の窓に、灯りが点いていた。
その灯りを見て、哲也が短く息を吐いた。
六台目には、誰も触れなかった。
翌週、哲也と二人でもう一度その林道に入った。
六台目は、なかった。
砂利の上に、引きずった跡だけが残っていた。
斜面から道へ、一本。
道から斜面へ戻る跡は、どこにもなかった。
笹は、もう元の向きに戻っていた。
折れた跡も見つからない。
花立ても、探したが見つからなかった。
ガードレールの途切れた場所は、確かに同じ場所だったという。
その日、二人は林道を最後まで走らずに引き返した。
勇次はその後、普通に働いて、普通に結婚した。
ただ、年に何度か、左が見えないと言うことがあるらしい。
そういうとき、勇次は必ず自分の体を叩くのだそうだ。
胸、腹、腰、また胸。
順番は、あの日と同じだと従兄は言った。
従兄は最後に、あの林道の名前だけは言わなかった。
「行けるから、言わない」
そう言って、グラスを置いた。
六台目のバイクが、いまもあの斜面の下にあるのかどうかを、従兄は確かめていない。