風呂場の遺影と髪の毛

K5-64731

数年前の話だ。

俺が見たのは、風呂場の遺影と、ひとり分では済まない髪の毛の山だった。

当時付き合っていたSから、深夜に電話が掛かってきた。

その晩、彼女の部屋の風呂場で見たものを、俺は今も忘れられない。

Sの部屋は、駅から歩いて十分の古いアパートにあった。

六畳一間に、小さな台所と、ユニットバスではない昔ながらの風呂場。

窓際には、洗って干したままの白いタオルがいつも揺れていた。

彼女は、その部屋を気に入っていた。

「家賃は安いけど、日当たりだけは自慢なの」

そう言って、よく俺を笑わせた。

Sは三つ年下で、歯科医院で受付をしていた。

几帳面で、よく笑う人だった。

ひとつだけ変わったこだわりがあった。

彼女は髪が自慢で、毎晩、風呂上がりに三十分かけて梳かしていた。

「髪だけは、母親に似てよかったの」

そう言って、鏡の前で毛先を指に巻く癖があった。

その夜、時計は零時を回っていた。

電話の向こうのSは、切羽詰まった声だった。

話の内容が、まるで頭に入ってこない。

外にいるらしいことだけは分かった。

車の走る音と、風の音が混じっている。

「とにかく、俺の家まで来い」

そう言って、俺は電話を切った。

Sは、タクシーでやって来た。

普段は、滅多に使わない人なのに。

部屋に入っても、なかなか座らなかった。

指先が細かく震えている。

「ゆっくり話してみ」

熱い茶を煎れてやると、Sは両手で湯呑みを抱えた。

しばらくして、ようやく口を開いた。

風呂場の遺影

仕事を終えて食事をして、自分の部屋に帰り着いたのが二十三時半だった。

その日は焼き肉を食べたので、一刻も早く風呂に入りたかった。

玄関に荷物を置くと、電気もつけずに、風呂のドアを開けた。

途端に、もわっと煙のようなものが顔にかかった。

スイッチを探る手が止まった。

湯船が、黒い布で覆われていた。

その上に、白い花束。火のついたロウソクが、数本。

線香の煙と匂いが、狭い風呂場に充満していた。

中央には、額に入ったモノクロ写真が置かれていた。

ロウソクの灯りに浮かび上がる、白い笑顔。

その目が、背景と同じ黒で塗り潰されていた。

数瞬、頭の中が真っ白になった。

やがて足が震えはじめ、疑問が次々と浮かんだ。

葬式。誰が。いつの間に。何のために。どうやって。

鍵は掛かっていた。窓も、閉まっていた。

だとしたら、これをやった人は、今どこにいるのか。

そのとき、押入のほうから、かすかな音が聞こえた。

暗闇の中、「サラ…サラ…」と、紙を一枚ずつ落とすような音。

体が勝手に動いた。

バッグをつかんで、外へ飛び出していた。

国道まで無我夢中で走り、そこから電話を掛けたのだという。

鉛管を持って

Sの話は、途切れ途切れで、断片的だった。

それでも、聞き終えた俺は、大体の状況をつかめた。

「泥棒だったら、どうしよう…」

Sが、膝の上で拳を握った。

「火事も心配だな。ロウソクの火が点いたままなんだろ」

俺はそう言って、立ち上がった。

二人で、彼女の部屋へ行ってみることにした。

用心のために、俺は物置から鉛管を一本持ち出した。

二階建てアパートの、二階の端。

階段を上がるたびに、鉄板の踏み板が小さく鳴った。

部屋の前に立つ。

音は聞こえない。何の気配もない。

俺はゆっくりとドアを開けた。

鼻をつく、線香の匂い。

電気をつけて、風呂場へ向かった。

線香の灰が、白く山になって崩れていた。

遺影の額縁は、百円ショップで売っているような安物だった。

写真の中のSは、去年の夏に二人で行った海辺で笑っていた。

俺が撮った一枚だった。

それが、わざわざ白黒に焼き直されている。

目だけが、黒く潰されている。

風呂場は、聞いた通りの光景だった。

ただ、ロウソクと線香の火は、すでに消えていた。

白い花は、まだ瑞々しかった。

遺影の目は、墨のようなもので塗り潰されていた。

粗雑で、子どもの塗り絵のようだった。

その雑さが、かえって気味が悪かった。

押入から落ちる髪

「わああああああああ!!」

背後で、Sの悲鳴が聞こえた。

風呂場を出ると、Sが開いた押入の前で、口に手を当てて固まっていた。

押入の上段から、大量の髪の毛が床にこぼれ落ちていた。

半端な量ではない。

床に落ちた髪だけで、大人一人分どころではなかったと思う。

黒く、長く、湿っているように見えた。

Sは惚けたように立ち尽くしていた。

なぜか、片足が円を描いていた。

踵で、床を撫でるように。

ちょっと洒落にならない。

俺は自分の携帯で、百十番に通報した。

「あれ、髪の毛が落ちる音だったんだ…」

後ろで、Sがつぶやいていた。

警察が来るまで、何度も何度も。

駆けつけたのは、若い警官と、年配の警官の二人だった。

年配のほうは、風呂場に入るなり、ふっと鼻をひくつかせた。

「線香、新しいですね」

ぼそりとそう言ったきり、彼は黙った。

若い警官は、押入の髪を、素手では触れようとしなかった。

目を合わせようとしないのが、俺には気になった。

やって来た警官は、聴き取りをしただけで、あっさり帰ってしまった。

指紋を調べるのかと思ったが、そんなことはしなかった。

ただ、風呂場に置かれていたもの一式と、大量の髪の毛を、全部持って行った。

「これはお嬢さんのものではないですね」

その確認だけは、しつこいくらいに何度もされた。

部屋から無くなっていたものは、何もなかった。

風呂場と押入以外が荒らされた形跡も、なかった。

半月後のSは

Sは、自分の部屋に戻りたがらなかった。

荷物を取りに行くときも、俺が付き添った。

部屋の前で、彼女は必ず深呼吸をした。

風呂場のドアは、二度と開けなかった。

翌日から、Sは俺の部屋に泊まるようになった。

それから半月ほどで、俺たちは別れた。

一緒にいる時間が増えて、お互いの嫌なところが見えてきた。

そのせいもあったかもしれない。

けれど、あの日以来、Sは明らかに変わってしまった。

不機嫌で、ふさぎ込みがちになった。

一日に一度は、突然泣き出した。

仕事も、休みがちになった。

何を食べても味がしないと言って、食事を抜いた。

夜中に目が覚めると、Sはテーブルの前に座って、鏡を見つめていることがあった。

別れてからのSの様子は、同僚だった彼女の弟を通じて耳に入ってきた。

日に日におかしくなるSを、家族は病院へ連れて行ったらしい。

検査の結果、癌が見つかった。

見つかったときには、すでに手遅れだった。

ひと月と経たずに、Sはこの世を去ってしまった。

一応、葬儀には出席した。

祭壇の上には、にっこり笑うSの遺影があった。

鮮やかなカラー写真だった。

焼香の列に並びながら、俺はずっと、あの風呂場の遺影のことを考えていた。

同じ人間の笑顔なのに、片方は光に満ち、片方は目を塗り潰されている。

どちらが本当のSなのか、分からなくなった。

列の前にいた老人が、遺影を見上げて、小さく手を合わせた。

その背中を見ていたら、足もとがふらついた。

風呂場で見た遺影の陰鬱さとは、似ても似つかない。

棺の中の顔も拝んだ。

思いのほかふくよかで、肌も綺麗だった。

それは「葬儀屋の修復テク」のせいだと、後で弟に聞かされた。

「姉ちゃん、ゲッソリ痩せてたのに、綿詰めて化粧したら、元気そうに見えるんだもんな」

説明しながら、弟は少し涙声になった。

「カツラも着けてもらってさ、薬の副作用で、髪の毛ごっそりと抜けちまってたのに…」

その言葉で、警察が来るまでSがつぶやいていた声が、耳によみがえった。

あれは、髪の毛が落ちる音だったんだ。

毎晩三十分かけて梳かしていた、あの髪が。

彼女は、抜け落ちていく髪を、押入の奥に隠していたのかもしれない。

誰にも見せずに、少しずつ、少しずつ。

押入の板の隙間には、今思えば、細い髪が何本も挟まっていた気がする。

俺は、それに気づいてやれなかった。

俺は少しだけ、震えた。

風呂場の遺影の目を黒く塗ったのは、もしかしたら、自分の最期の顔を見たくなかったからではないのか。

そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消した。

彼女は、そんな弱い人ではなかったはずだ。

それとも、弱さを見せない人だったからこそ、あんな形でしか表せなかったのか。

似たような話は、他にも残されている。

川で釣り上げた布の人形のように、見えない誰かが差し出す手がかりがある。

二月十一日の予言とイヤリングのように、起きる前に知らされる未来もある。

結局ね、意識的にせよ無意識にせよ、Sが自分で全てをやったというのが、一番筋が通る仮説だと思うんですよ。

自分が癌であることを知っていて、全ての意匠をそれに見立てて演出した。

ただ、それを行うことによって、誰に何を伝えようとしたのか?

それを考えようとすると、感情が昂って冷静に考えられないんですよ、俺には。

自分で自分の思考にストップをかけているんでしょうね、きっと。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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